本編
黒いキャップをかぶった少年は、ようやく
そろそろ、夕暮れに差し掛かろうという時間帯だった。
夏の日中は暑すぎて外出したくなかった少年は、午後六時ごろに祖父母の家を出た。一時間もすれば、目的を達成して、暗くなる前に帰れるだろうと。けれども、
少年の目的は、鉄道線としては日本一駅間距離が短い、佐世保中央駅から
商店街を通って来たので多少は涼しかったが、余分に歩いてしまったのもあって、少年は大粒の汗をかいていた。
駅入口に入り、いったん帽子を脱ぐ。
一息つけたと思ったのも束の間、少年は妙なにおいが漂っていることに気づいた。
草木のにおいのようでもあるし、紙や木が燃えて焦げたにおいが、混ざっているようにも思える。
すぐそばに、小さな山みたいなのがあるからかな。
そう考えた少年は、帽子をかぶり直し、駅の奥へと進んだ。
ホームまで出たが、そこに人影はなかった。駅員もいなかったが、遅い時間は不在になると知っていたので、不思議には思わなかった。だが、ホームまでまったくの無人というのは、少年にとって予想外だった。
汗で濡れたTシャツが、べっとりと背中に張りついている。ピュイピュイと鳴く鳥たちの声が、どこからか聞こえてくる。ホームから線路を正面に見て左手にあるトンネルは、遠くで真っ暗な口を開けているようだ。
帰ろうかな。
少年は悩んだ。けれども、汗だくになりながらようやくここまで来たのだ。幸い、時刻表によれば、あと数分で電車がやって来る。
誰もいないホームで、少年は立ったまま電車を待つことにした。
――鳥たちが、一斉に鳴き止んだ。
少年はハッとした。ホームの暑さと、ひっきりなしにさえずっている鳥の鳴き声で、少しぼうっとしていたのだ。
加えて、入口で嗅いだあのにおいが、強くなったように感じた。ガソリンスタンドやお酒の、ツンとしたようなにおいがする。
電車がやって来た。ただし、右手の中佐世保駅方面から。少年が待ち望んでいたのは、トンネルから現れる反対方面の電車である。
時刻表を、見間違えたかも。
少年は残念に思ったが、そのままホームに立って、電車が停車するのを待った。中がどんな様子か、見てみようと思ったのだ。
電車内は、大きな男の人たちでいっぱいだった。ベージュ色の上着を着た人や、黄色がかった白いTシャツの袖をまくっている人。多くの人が、見慣れない形の帽子をかぶっていた。首に、タオルを巻いている人もいる。
ドアが開くと、土埃のにおいが漂ってきた。
「わがぁせきたんどっけあっと?」
少年を見た乗客の一人が、怪訝そうに声をかけてきた。
「……えっ?」
まさか話しかけられると思っていなかったので、少年は反応が遅れた。何と言ったかよく聞き取れなかったこともあって、聞き返すような、中途半端な返事をしてしまう。
「やけん、石炭! 持っとぉて」
男の声が大きくなる。だが、今度は何とか理解できた。
「あっ、石炭、ですか? 持ってないです……」
「そいぎん、しょんなか」
男が言い終わるや否や、電車のドアが閉まった。呆気に取られている少年を置いて、電車はゆっくりと動き出し、トンネルの暗がりに吸い込まれていった。
ホームの屋根の隙間から見える空が、茜色に染まっている。
けれども、少年は再び電車が来るのを待った。先ほど佐世保駅方面に電車が向かったので、反対方向の中佐世保駅方面への電車が来るのに、そう時間はかからないと考えた。
トンネルの先にある佐世保駅が、MRとして親しまれている
このまま、さっき通り過ぎた電車が、トンネルから出てくるのを待てばいい。もしくは、すでに佐世保駅で待機していた電車が、今にもこの駅に向けて出発するかも。
先ほどはびっくりしたが、少年は気を取り直して、電車を待っていた。変なにおいは薄まっているように思えたが、鳥たちの鳴き声は、あれからまったく聞こえなくなっている。
そういえば、ホームに電車が入ってくるときに、何も音楽やアナウンスがなかったな。MRってそういう鉄道だっけ? 駅員さんが、いないからなのかな?
少年が考え込んでいると、いつの間にか、隣に長身の男性が立っていた。白のカッターシャツに黒目のネクタイ、濃い灰色のスラックスを着こなしている。黒髪も短く整えてあるが、さすがに暑いのか、鞄を持っていない左腕にジャケットをかけていた。
「君も、電車を待ってるのかい?」
男性が、柔らかい物腰で話しかけてきた。
普段は、それほど見知らぬ人に話しかけられることがないのに、今日は変な日だなと、少年は不思議に思った。けれども、先ほどの荒っぽい男とは対称的な雰囲気に、少年はあまり警戒心を持たなかった。
「はい。さっき電車が来たんですけど、佐世保駅方面だったので、乗りませんでした。それに、乗っていた知らないおじさんに、なんだか乗るのを断られたようでした」
男性は、少年の話に興味を引かれたようだった。
「もしかして、石炭を持ってないか、訊かれた?」
男性の的確な質問に少年は驚いて、何度も小さく頷いた。
「それじゃあ、炭鉱夫たちが乗ってるから、今夜は乗れそうにないな」
独り言のようにつぶやいた男性は、短く息を吐いた。
「たんこうふ?」
少年は、男性に訊ねた。石炭は学校の授業で習ったので知っていたが、炭鉱夫という単語は聞いたことがない。
「そう、炭鉱夫。石炭や鉱物が採れる山に入って、山を削ったり、採れた石炭なんかを運んだりする人たちのことだよ。
男性は、滑らかに答えた。日頃から人にいろいろと質問されて、答え慣れているようだ。
少年は、炭鉱夫については何となくわかったが、男性の話を完全には理解できなかった。
かつては? それじゃあ今は使われてないってことだよね? でもそれだと、ぼくが見た炭鉱夫たちは、いったいどこへ向かったんだろう。「ほくしょうたんでん」なんて、聞いたことがないや。……あれ? 「あったんだ」?
少年が混乱しているのを知ってか知らずか、男性は一度話を切ると、鞄から何かを取り出し、少年にそれを差し出した。
「よかったら、どうぞ。もらったんだけど、一人だと多すぎてね」
男性が手に持っていたのは、どうやら半透明の袋に入ったお菓子らしかった。
思わず少年が出してしまった手に、男性が袋を乗せた。触ってみると、中のお菓子は硬くて、少し平べったい。どうも、クッキーのようなものらしい。
「ありがとうございます」
少年は、お菓子を短パンのポケットにしまった。受け取ったその場ですぐに食べるのは、行儀が悪いと思ったのだ。
「どういたしまして」
男性は、ていねいに言葉を返した。それから軽く背筋を伸ばすと、線路側に向けていた身体を、出口の方へと向けた。
「ぼくは、今夜はもうあきらめて帰るけど、君はどうする?」
どうやら男性は、電車に乗らないようだ。
男性の誘いに乗って自分も帰るか、少年は迷った。空はすでに暗くなっている。あまり遅くなると、両親や祖父母が心配するかもしれない。しかし、ここで帰ると、汗だくになりながらこの駅を見つけたことや、せっかく待った時間が無駄になる。変なおじさんに、変なことを言われただけになってしまう。それに、あの嫌なにおいも、ほとんどなくなっているではないか。
「ぼくは、電車を待とうと思います」
結局、少年は誘いを断って、電車を待つことに決めた。
「そうか……それじゃあね」
男性は残念そうな顔をしながらも、しつこく誘おうとはせず、駅の出口へと歩いていった。
少年は、再び一人になった。
それから少年の体感で、十分ほど経った。その間、誰一人として、ホームには現れなかった。鳥たちの鳴き声も、相変わらず聞こえない。そればかりか、徐々に、あのにおいが強くなっているように思えた。草木のにおいのような、紙や木が燃えて焦げたにおいのような、ガソリンスタンドやお酒の、ツンとしたにおいのような……。
いよいよ気分が悪くなってきていた少年の耳に、ガタンゴトンという音がかすかに入ってきた。ホッと、少年から肩の力が抜ける。
ほとんどその場に留まっていたので、足をほぐすつもりで、軽く足踏みした。すると、太ももあたりに、硬い何かがこすれた感触があった。
そういえば、スーツの男性から、お菓子をもらっていたんだ。
すっかり忘れていた少年は、左手をポケットに入れた。硬くて冷たいものが当たる。だが、まったく平べったくなく、むしろゴツゴツとした石の形状に近い。
ポケットから取り出してみると、それは黒色の石のようなものだった。少しツヤがあり、ホームの光を反射している。大きさは少年の手に収まる程度だが、明らかに、男性から受け取ったお菓子より重い。
石炭だ――少年は直感した。
電車が、またも右手からホームに入ってきた。音楽もアナウンスも、なかった。車内の様子が、少年の視界に入る。大柄の男たちが皆、少年の方を見ていた。
少年は、恐怖で身体が動かせない。
電車のドアが、ゆっくりと開いた。
石炭切符 香山 悠 @kayama_yu
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