最終話

 今日は朝からリスパが外に出かけている。屋敷に一人残された私は、夕食の仕込みをした後リビングでぼんやりとしていた。自分の家では暇なときはテレビを流しっぱなしにしていたけれど、この家には外と繋がる手段がラジオしかない。ラジオ放送はどれも私の知らない言語をずっと流していて、さっぱりだ。異世界なのだから当たり前か。

 四人掛けのソファに寝転び、手を頭の後ろで組んで天井をながめる。なんとなく木目を視線でなぞる。

 私はこれから、どうなるんだろう。ずーっとリスパと二人で暮らすのだろうか。学校にも行かず、就職もせず、結婚なんてできるわけもなく。元の世界に戻ったら死刑になる可能性が高いし、異世界で普通の生活をすることはとても難しい。

 リスパは私に、自分の娘の姿を重ねているのかもしれない。最初は怖かった。でも、一緒に暮らしているうちに、彼女が私に向けてくる視線が心地よくなった。この人には頼ることができる。そう思えるような、安心感がある。

「まあ、あの人は明らかに堅気じゃないし、謎だらけなんだけどね」

 声に出して言ってみて、思わず口元を緩めたとき、玄関のインターホンが鳴った。壁にかけられたスピーカーから、リスパの声が漏れ出てくる。

「アリピちゃん、ごめん。鍵なくしちゃって。中から開けてくれないかな」

「鍵?」

 私がいるのに、鍵を閉めて出て行ったのか。違和感を覚えながらも、玄関へと向かう。ドアノブを引くと、あっさり開いた。

「閉まってないじゃ――」

外から伸びて来た手が、私の手首にがちゃりと手錠をかけた。ごつごつとした、男の手だった。

「現地時刻十二時半。塩路百合子、ピトピト鳥密漁容疑で逮捕す――ゲヒョ」

 真っ赤な飛沫が、まるで海岸の岩場で砕ける荒波のように散った。


 走っていた。森の中の道を。もがいてももがいても景色が変わらなくて、全く前に進めていない気がする。苦しいとか痛いとか、体じゅうが悲鳴を上げているのに、全部無視してがむしゃらに走り続けるしかない。

 日が傾いてゆく。空が焦燥の色に染まる。冷たい空気を吸い込んで、喉が変な音を出した。苦しさのあまり立ち止まってせき込む。涙があふれる。膝から崩れ落ちそうになった私を、温かい腕が抱き止めた。

「こんなに血まみれになって。頑張ったんだね」

「リスパ。私、人を!」

「大丈夫。僕も同じだから」

「でも!」

「大丈夫。大丈夫だって。一緒に逃げようか、どこまでも」

 私は腕を突っ張って、女の体から離れた。見上げた彼女の顔は、涙に濡れているのに笑顔で、どこか狂気すら感じさせる必死さが滲んでいた。私はずいぶんと長い間その表情を見つめていた。そして、何かを諦めたような気持ちになって、自分から彼女を抱きしめた。

 私にはこの人しかいないし、この人には私しかいないのだ。

 それは決して、母と娘なんかじゃなく。


 共犯者だ。


 小型のモーターボートが、波を切りながら走ってゆく。透き通るような青い空、きらきらと輝く海。甲板に出ていた私は、操縦席から声をかけられて振り返る。

「百合子ちゃん、そろそろお昼ご飯にしよっか」

「分かった、光瑠」

 夏の底は、海のにおいがする。


【完】

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夏の底の、海と森 紫陽花 雨希 @6pp1e

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