月が綺麗

@kumehara

第1話

 雲と霧が世界を隠す、薄墨色の夜だった。


 僕はスニーカーで、彼女はブーツで、それぞれ砂浜に足形を残しながら歩く。僕たちが確かにそこに居た痕跡は、しかしすぐに、波にさらわれて消えた。


 さく、さく、ザザー。さく、さく、ザザー。静謐な世界が、チープな音で侵食されていく。なんだか不快に感じたけれど、それを食い止める術を僕は持っていなかった。


 これから僕たちは、互いに別れを告げる。


 彼女と共に生きることを選んでから、もう二十年は経っただろうか。二人とも、歳をとった。少なくとも、若者を自称して良い年齢ではない。彼女の手には皺が増えたし、僕はちょっとした階段や坂道で息が切れるようになった。


 決定的な理由があったわけではないのだと思う。例えば、服のボタンを掛け違うような、本のページを読み飛ばすような、ほんの少しのが積み重なって、気付いた時には元に戻せなくなっていた。悲しいのか、悔しいのか、淋しいのか。胸に居座るこの気持ちの名称が、僕は未だに分からない。


 黙って歩いていた彼女が、立ち止まった。黙って後ろを歩いていた僕も、立ち止まる。ザザー、ザザー。チープな音は一つだけになった。


 彼女が振り向いた。二人で黙って見つめ合う。家やその周辺では、二人で過ごした時間が色濃く残り過ぎていて、それを終わらせる為の言葉を発せる気がしなかった。だから遠出して海までやって来たのに、結局、言葉に詰まってしまう。場所など関係なかったのかもしれない。


 たぶん、きっと、彼女の目を見ているからいけないのだ。僕は目を閉じた。深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。正面から、彼女の息を呑む音が聞こえた。かくして、僕が明確に、彼女との関係へ終止符を打とうとした、その時。


 雲が晴れた。


 少しだけ、だったけれど、世界から色を奪う雲が散った。そして、薄いベールの向こうに、大きな月が見えたのだ。


 闇の中に、ぼんやりと丸い輪郭が浮かび上がる。恒星でもないのに、まるで自らから光を発しているかのように、辺りを白く染め上げていく。その白い光が、水平線から僕たちの足元まで一筋の道を作った。


 空も海も、光の恩恵を授かることができなかった場所は、深い青に沈んだ。青と白しかない世界。幻想的で、不安定で、浮世離れしていて、ひどく綺麗だった。


 そして、僕は思い出した。最初に彼女の手を取ると決めたのも、こんな風に、彼女と見上げた月が、普段よりも綺麗に見えたからだった。これから先も、もっとたくさん、一緒に綺麗なものが見たいと思ったのだ。


 走馬灯のように駆け巡る彼女との思い出は、どれも果てしなく綺麗で、キラキラしている。一人で生きていたら、きっと見ることのなかった光景ばかりだ。彼女が居ないと、僕は世界がこれほど綺麗なのだと気付けない。なんだか、鼻の奥がツンとした。


 ふと、隣へ目をやると、彼女は月を見て泣いていた。歳を重ねるにつれて厚くなる化粧の上を、水滴が滑り落ちていく。月明かりを反射して輝くそれが、愛おしいほど綺麗だった。たぶん今、彼女も、僕が見たのと同じものを、その目に映している。青と白しかない世界を。これまで一緒に見てきた光景を。


 僕が何かを言うより先に、彼女が僕の胸に飛び込んできた。額を僕の心臓の辺りに押し当てて、安っぽい服の生地をギュッと握り締めて、そして。


「……はなさないで……。今だけ、お願い……っ」


 震える声で告げられた懇願が、「話さないで」なのか「離さないで」なのか分からなくて、僕は黙って彼女を抱き締めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

月が綺麗 @kumehara

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画

同じコレクションの次の小説