花びら、咎びと、灰の森

浅里絋太

花びら、咎びと、灰の森

 あかるい森の奥深く、上を見ると幾重もの葉が太陽を透かしてぼうと緑に光るよ。


 地面を見ると、古木の幹の足元に、名も知れない桃色の花。


 ――桃色。母さんのスカートの桃色。無垢な桃色。


 花へと歩いていき、その茎を摘む――顔を寄せると青く甘いにおい。指先がぬれる。


 裸足の裏にやわらかな土の感触。くすぐったいよ。



 いやいや、そんなことより、逃げないと。やつらが追ってくるから。まずいんだ、本当に。いやだいやだ。



 森はいつしか薄灰色になる。光は色を喪い、葉は焼けこげた紙切れのようになる。


 すべてがモノクロームになってゆく。灰色の世界。



 ぬるんとした、黒い巨大ナメクジみたいな。


 そんな塊が迫ってきた。――そいつはヌルという名前。森の灰色をてらてらと、なめらかに体へ映している。


 ヌルは水飴のように体躯をうごめかせ、やってくる。


 空も葉も土も、すべてが色を喪う森で、ヌルはこちらの眼前にやってきて、こう言う。


「ねえ、はなさないでね」



 なるほど、そうか。右手の指先につまんだ桃色の花を見る。灰色の世界で、ただそれだけが、色を忘れずにいるみたいで。


とがびとよ。どこへゆくの?」


 ヌルのやつがまろい甘い声で歌う。それに答えるよ。


「あー、はい。奥へいくんです。灰色の灰色の、もっと奥に。逃げないと、ですから」


「咎びとよ。あと三歩で引き返して」


「いやですねー。もっと、楽しくなるはずだし」


「咎びとよ。あと二歩で引き返して」


「なんでー、楽しくなるのにですかー?」


「咎びとよ。あと一歩で……」


 もういちど花を見ると、それは唇。母さんの唇の桃色。その口はすらりと開いて、名を呼ぶ。


 誰の? 誰の?


 気がつくと灰色の森に、黒い人のかたちをした影たち。――影人かげびとが取り巻いている。


 ついに追いつかれたのです。


 ヌルの声がして、


「とまって!」


 影人は飛ぶように襲ってくるのだけど。


 真っ黒な目のない顔に、大きな牙と口。あぎとをかつとこれ以上ないくらいにあけて、食らいついてくる。笑えてくるよ。


「やめてー! アハハハハハ」


 よける。逃げる。よける。顔をおさえる。痛い。痛いです。痛いんですって。


「はなさないで」


 ヌルがいつの間にか、かたわらにいる。



 この右手の桃色の花は、母さんのスカート。スカートのゆれるひだが広がる。いつの記憶? 昔の。子どものころの。


「咎びとよ。はなさないで、世界の色を」


 ぼやんとした黒いヌルのやつ。体がふるん、とゆれる。


「はなさないで……」


 その声に、ぐるりと振り返る。ヌルはもういない。つまんない。つまんないな。灰色の森をずっと、引き返す。




 そこは緑色の光景。


 そうか、あー、戻ってきたのかな。


 森の色がどこまでも続く。狂おしいほどの真緑に。残酷でまぶしすぎる。あまりにも。


 右手の花を空にかざす。


 ――桃色の花びらが冷たい朝の光をあびて、世界の色を教えているよ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

花びら、咎びと、灰の森 浅里絋太 @kou_sh

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ