風船 [KAC20245]
蒼井アリス
風船
冬の海岸に人の姿はほとんどなかった。
今日は風が強い。なおさら人が少ないのだろう。
「昔好きだった先輩の家がこの辺にあったんだよね」
「彼氏だったのか?」
「ううん、単なる憧れの先輩。それに先輩には超美人の彼女いたし」
懐かしい風景に思い出が蘇り、深く考えもせず先輩のことを口にしていた。
今自分の隣に立っている男がどう思うかを思いやることもしないで。
今私が大切に思っている人はこの人なのに、どうして遠い記憶の中の男が顔を出すのだろう。
満たされているから思い出を辿る余裕があるのか、穏やかさに退屈した心が刺激を求めて思い出の引き出しを開けているのか。自分の心なのに真意が分からない。
冷たい風が頬に刺さり、立てたコートの襟から忍び込む。
震える私の身体を後ろから包み込んできた大きな腕。その中で私は思わず笑った。
「バックハグとか照れちゃわないの?」と私が聞くと、
「照れるからバックハグなんだよ。変な顔してるところ見られなくてすむからな」とあなたが答える。
「今変な顔してるの?」
「多分してる」
「どんな顔?」
私は振り向かずに聞いてみた。
「少しばかりの嫉妬と今君が僕の腕の中にいる幸せを混ぜた泣き笑いみたいな顔かな」
「ふーん。その変な顔、見ないでおいてあげるよ。見ちゃったら一生いじり倒しそうだからね」
彼に伝わっただろうか、私の体温が少し上がったことと「一生」という言葉を使った意味が。
私はふわふわと空に浮いている風船のようだ。長い長い紐を垂らした風船。自由に浮いていたい我儘な風船。でも、その長い紐の端はいつもあなたの手の中。
どんなに強い風に流されても放さないでいてくれるあなたの手の中。
あなたは細く頼りない紐を手繰り寄せることもせず、ただ錨のように私の居場所を示してくれる。
私が自分を見失わないで自由に浮いていられるのはあなたのお陰なのかもしれない。
「ありがとう」
私は、あなたの凍えた手に自分の手を重ねて伝えた。
「どういたしまして」
耳元で聞こえるあなたの低く優しい声。
「何に対してのありがとうか分かってるの?」
すぐさま「どういたしまして」と答えたあなたに私は突っかかる。
「いや全然」
怒る気にもならないほど気の抜けた返事。
この人と一緒にいればきっと何とかなるね。
End
風船 [KAC20245] 蒼井アリス @kaoruholly
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