かいぶつ

川辺いと/松元かざり

 



 ──あなたはいつの時代でも、どの国でも、

   どの両親でも自由に選ぶことができた。

   それなのになぜこの時代を恨み、この国を妬み、

   周りの人たちを傷つけてしまうのでしょうか──




    ☆

    ☆

    ☆




 目が覚めるとぼくはかいぶつだった。

 水平線を一望できる崖の上に、夕凪と一緒に座り込んでいた。

 夏が消えたばかりの秋の瞬間に、ぼくはかいぶつになったのだ。

 見るもの、聞くもの、香るもの、感じるもの、学ぶもの。

 そのどれもが夕焼けに横たわり、ぼくのからだを赤く染めた。

 どうも爪が長くなったように思う。

 指先のしわが、痛く食い込んでいるように思う。

 骨張っていて、握ればボロボロと崩れてしまわないか不安だった。

 重たくて、夏のときにはぶらぶら動いていた両足も、

 いまはてんで動かない。

 銅像のように、地べたから起き上がることができない。

 トイレに行くことすら、果物を食べることすらできない。

 ああ……ぼくはこのまま永遠に、ここから動けないのだ。




 秋が過ぎて、雪が積もりはじめた。

 石のように冷たいからだに、寒波の夕陽が押し寄せてくる。

 ぼくにはお似合いの赤い色。

 その色だけは冷めずにくっきり取り残されていた。

 どうも背中が丸くなったように思う。

 髪の毛が、火にあぶられたようにちぢれている気がする。

 長くなった爪ですこうとしたけれど、

 抜け落ちてしまわないか心配だった。

 吐き気がして、秋のときには聞こえていた心臓の音が、

 いまではてんで聞こえてこない。

 土に埋もれた骨のように、ぼくの体温は雪をかぶった。

 ああ……ぼくはこれで永遠に、息さえ絶えてしまうのだ。




 二日経っても、冬が過ぎることはなかった。

 もう誰も、ぼくをぼくだと分かるものはいないだろう。

 だるまのように固まってしまった雪の中に、

 こんな真っ赤なぼくがいるなんて、誰も想像さえし得ないのだろう。

 どうもうれしさが込み上げてくるように思う。

 このまままぶたを閉ざしてしまえば、

 怖いものなんてひとつもないような気がする。

 すでにぼくは満足していたのだ。この人生に。

 一日一日を大事に生きてきた自信があるから、

 かいぶつになったいまでも、その心は変わらずに残っている。

 ああ……ぼくはこれから永遠に、この夕焼けのかいぶつになれるのだ。




 雪が溶けはじめてしまった。隣にキツネが座り込んでいた。

 コン。と、長いひげをかいて鳴く。

 あっちにいけ。かいぶつは言った。

 キツネはお尻を持ち上げて、背後で自分の尻尾をくるくる追いかけた。

 コン、コン。小さな四つの足音が雪の上を飛び跳ねる。

 ぼくはかいぶつなんだ。

 一緒に遊んだと周りにバレたら、おまえは仲間はずれになるんだ。

 伝えると、キツネの足音は止んで、かいぶつの雪をなめはじめた。

 あっちにいけ。ぼくは夕焼けのかいぶつだ。かいぶつだから、蜜の味はしないんだ。

 コン、コン。

 コン、コン。

 丸まる背中に乗っかって、キツネは雪をどかしはじめた。

 かいぶつの髪の毛はこおっていた。

 閉ざしたまぶたはもう再び開くことができなかった。

 ほら見ろよ、ぼくはこんないやしいかいぶつになったんだ。

 真っ赤だと思いたいけど、もうすっかり冷えてしまって、

 きっとひどい色になっているんだろ?

 コン、コン。

 コン、コン。

 つららのように長い爪は、水平線に浮かぶあめ色をかき混ぜた。

 心の目で見る。綺麗な世界。




 ぼくはかいぶつだ。

 よく見る絵本のかいぶつだ。

 触れたらみんなを傷つけてしまうから、

 殻に閉じこもることしか選べないんだ。

 声だって綺麗じゃない。顔だって綺麗じゃない。

 ぼくはそこらでよく読むような、つたないただのかいぶつだ。

 あっちにいけ。

 あっちにいけ。

 

 たったひとりの、きみのかいぶつにさえなれないんだ。




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かいぶつ 川辺いと/松元かざり @Kawanabe_Ito

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