かいぶつ
川辺いと/松元かざり
──あなたはいつの時代でも、どの国でも、
どの両親でも自由に選ぶことができた。
それなのになぜこの時代を恨み、この国を妬み、
周りの人たちを傷つけてしまうのでしょうか──
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目が覚めるとぼくはかいぶつだった。
水平線を一望できる崖の上に、夕凪と一緒に座り込んでいた。
夏が消えたばかりの秋の瞬間に、ぼくはかいぶつになったのだ。
見るもの、聞くもの、香るもの、感じるもの、学ぶもの。
そのどれもが夕焼けに横たわり、ぼくのからだを赤く染めた。
どうも爪が長くなったように思う。
指先のしわが、痛く食い込んでいるように思う。
骨張っていて、握ればボロボロと崩れてしまわないか不安だった。
重たくて、夏のときにはぶらぶら動いていた両足も、
いまはてんで動かない。
銅像のように、地べたから起き上がることができない。
トイレに行くことすら、果物を食べることすらできない。
ああ……ぼくはこのまま永遠に、ここから動けないのだ。
秋が過ぎて、雪が積もりはじめた。
石のように冷たいからだに、寒波の夕陽が押し寄せてくる。
ぼくにはお似合いの赤い色。
その色だけは冷めずにくっきり取り残されていた。
どうも背中が丸くなったように思う。
髪の毛が、火にあぶられたようにちぢれている気がする。
長くなった爪ですこうとしたけれど、
抜け落ちてしまわないか心配だった。
吐き気がして、秋のときには聞こえていた心臓の音が、
いまではてんで聞こえてこない。
土に埋もれた骨のように、ぼくの体温は雪をかぶった。
ああ……ぼくはこれで永遠に、息さえ絶えてしまうのだ。
二日経っても、冬が過ぎることはなかった。
もう誰も、ぼくをぼくだと分かるものはいないだろう。
だるまのように固まってしまった雪の中に、
こんな真っ赤なぼくがいるなんて、誰も想像さえし得ないのだろう。
どうもうれしさが込み上げてくるように思う。
このまままぶたを閉ざしてしまえば、
怖いものなんてひとつもないような気がする。
すでにぼくは満足していたのだ。この人生に。
一日一日を大事に生きてきた自信があるから、
かいぶつになったいまでも、その心は変わらずに残っている。
ああ……ぼくはこれから永遠に、この夕焼けのかいぶつになれるのだ。
雪が溶けはじめてしまった。隣にキツネが座り込んでいた。
コン。と、長いひげをかいて鳴く。
あっちにいけ。かいぶつは言った。
キツネはお尻を持ち上げて、背後で自分の尻尾をくるくる追いかけた。
コン、コン。小さな四つの足音が雪の上を飛び跳ねる。
ぼくはかいぶつなんだ。
一緒に遊んだと周りにバレたら、おまえは仲間はずれになるんだ。
伝えると、キツネの足音は止んで、かいぶつの雪をなめはじめた。
あっちにいけ。ぼくは夕焼けのかいぶつだ。かいぶつだから、蜜の味はしないんだ。
コン、コン。
コン、コン。
丸まる背中に乗っかって、キツネは雪をどかしはじめた。
かいぶつの髪の毛はこおっていた。
閉ざしたまぶたはもう再び開くことができなかった。
ほら見ろよ、ぼくはこんないやしいかいぶつになったんだ。
真っ赤だと思いたいけど、もうすっかり冷えてしまって、
きっとひどい色になっているんだろ?
コン、コン。
コン、コン。
つららのように長い爪は、水平線に浮かぶあめ色をかき混ぜた。
心の目で見る。綺麗な世界。
ぼくはかいぶつだ。
よく見る絵本のかいぶつだ。
触れたらみんなを傷つけてしまうから、
殻に閉じこもることしか選べないんだ。
声だって綺麗じゃない。顔だって綺麗じゃない。
ぼくはそこらでよく読むような、つたないただのかいぶつだ。
あっちにいけ。
あっちにいけ。
たったひとりの、きみのかいぶつにさえなれないんだ。
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かいぶつ 川辺いと/松元かざり @Kawanabe_Ito
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