アレといえば?

犀川 よう

アレといえば?

 結婚というものは身投げと一緒だ。


 昨日長期出張から帰ってきた父に婚姻届を見せたとき、「達者でな」なんて言われて涙腺が危なかった。これまで仲が良くも悪くもない口下手な父がボソッと言う一言にはとても重みがあって、結婚しても車で一時間くらいの場所に住むというのに、永遠の別れのような雰囲気があった。


 母も母で普段とは違って、朝は泣きたいような顔をして見送ってくれた。そんな母に対して私は申し訳なく思っている。三年前に元彼と別れたとき、「もう結婚はいいからずっと家で暮らそうかな」と母に向かってボソッと言ってしまったことがあるのだ。その時の母は「何を言っているの」なんて口では言っていたけれど、少しだけ嬉しそうな顔をしていたのだ。今の彼に悪い印象はないのだろうが、彼と会う度に、娘を取られるという気持ちをどこかどこかで顔に表すようになって、彼を苦笑させていた。私はそんな母を裏切ってしまったような気がしてならないのだ。


 私は彼にベッドに押し倒され、何度も結婚を囁かれたので婚姻届にサインをした。寝所でのプロポーズなんてセックスの味付けでしかないとは理解はしていても、実際に繰り返されるとなかなかの効き目があって、気がついたら何度も頷いてしまっていた。どこで自分を見失ったのか、あるいは胸を膨らませたのかはわからないけれど、彼と結婚すること自体は悪くはないとは思っていた。だから私は、身を投げるような気持ちで、彼のプロポーズを受け取ってしまったのであった。


 結局、父に対して、母に対して、彼に対して、そして自分に対しても、結婚について明るい雰囲気にはなれなかった。今もなお、想像していた幸せの絶頂みたいなものとは随分とかけ離れた雰囲気しか味わうことができないでいるのだ。


 大安ということで、本日、彼と一緒に婚姻届を提出するはずだったのだけれど、彼は急な仕事の呼び出しを受けてしまい、一人で区役所に行くことになった。戸籍課の職員に婚姻届を渡すと、男性は内容を確認して後にチラっと私を見て、「おめでとうございます」と言ってくれた。私は職員に小さく礼を言ってから、キャリーバックと複雑な心境を引きずって区役所を出ていくことになった。


 区役所横の公園のベンチに座ると、急に涙が出てきた。嬉し涙ではない。さりとて悲しみや不安の涙でもない。良く分からない感情の渦に巻き込まれた涙が出てとまらないのだ。――どうしたのだろう、結婚ってこんなにもめでたくも嬉しくもないものなのだろうか。


 私はハンカチで目頭を押さえていると小さな鳴き声が聞こえた。気がつかぬ間に目の前に仔猫がいて、自転車に轢かれそうになっている。私は慌てて、「前に猫がいます!」と叫んだ。ぼうっとしていたのか、自転車の主も慌ててハンドルを切って通り過ぎていった。

 仔猫が危機を回避すると、親猫と仔猫の兄弟らしき猫たちが私の足元に集まってきた。私がまだ震えている轢かれそうになった仔猫を抱き上げて、彼らのもとに返してやると、一家して近くのレンガ造りの花壇の中へと走っていった。


 私はベンチに座り直し、婚姻届けを提出したことを彼にメールしようとスマホを取り出すと、向こう側から大量の缶らしきものが入ったレジ袋と缶ビールを持った中年男性がこちらへとやってくるのが見えた。私はそれを一瞥してからスマホに視線を戻すと、その中年男性が、「めでたいのにしけたツラしてんな!」と言いながら勝手に私の横に座ってきた。乱暴に置いたレジ袋から缶ビールと缶チューハイが出てくる。


「どなたでしょうか?」


 私の当然の疑問に中年男性は缶ビールをあおってから、「俺? 俺のことだよね?」と聞き返してくる。――どうやら酔っ払いみたいだ。


「そうです。あなたです。というより、どうして私がめでたいと思うのですか?」

「あ? 気づいてないのか?」


 中年男性は大笑いしがらビールを飲み干す。


「アンタ、さっき婚姻届を出してたじゃない。あの時、後ろにいたのよ俺」

「ああそうなんですか。それは気がつかなかったです。では、あなたも?」


 中年男性は目を丸くしてから、また大笑いした。


「俺はねえ結婚から卒業したの。しかも二度目なんだわ」


 私にとっては本当にどうでも良い情報だが、暴れられても怖いので、適当に「大変でしたね」と言っておく。


「大変なもんかよ! これで結婚という牢獄から解放させるんだぜ? 今日は独立記念日よ。インディペンデンスデーってやつよ。わかる?」


 中年男性は酔っ払い特有の目の据わった顔をして、私に顔を近づける。――酒臭い。そろそろ通報しようか。

 私がそう思っていると、中年男性は新しい缶ビールとスマホを取り出す。


「――チッ。ツマミ買うのを忘れてたわ。しょうがねえ。今日は気分いいから出前でアレでも頼むとするか! アンタも食べるだろ?」

「え、お寿司ですか?」

「ピザだよ。アンタ、出前って言ったらピザじゃないの?」


 馬鹿じゃないの? みたいな顔を向けないでほしい。


「デリバリーでしたらピザですけどね。いいえ、ご勝手にどうぞ。私は要りませんので」

「もしかして、寿司食べたかったの?」

「どちらも結構です」

「じゃあ、ピザ食べようぜ。デカいヤツ。一人じゃ食いきれねえし」

「小さいサイズのピザを頼めばいいではないですか」

「わざわざ配達してもらうのに、ちっちぇえの一枚とか恰好悪いだろうが」

「そういうところ、結婚生活に向いてなさそうですよね」

「結婚して新米も新米なアンタに言われたくはねえよ」


 中年男性改め酔っ払いは、「取り敢えず、ピザはアレでいいよな?」と言うので、私は定番のマルゲリータかサラミのピザをイメージして頷いた。――食べる気なんてまったくないけれど。

 

 結局、喉が渇いたせいもあって、気がついたら酔っ払いから缶チューハイをもらって飲んでしまっている。酔っ払いは母親の違う娘二人のどうでもいい性癖について語り出して私を辟易させ、私は時折花壇から出て寄ってくる先程の仔猫たちを愛でながら缶チューハイ二本目に突入する。婚姻届を出してこのベンチに座るまではあれだけ感傷的だったのに、すっかり気分が良くなってしまった。結婚して最初の飲み会が彼とでないとは面白すぎるではないか。


 私と酔っ払いがおかしなテンションで酒を飲んでいるところに現れた配達員は、当然ドン引きをすることになった。さらに、酔っ払いは調子に乗ってLサイズを二枚も頼んでいて、私をドン引きさせることにも成功した。


「やっぱりピザは定番だよな」


 酔っ払いは箱を開ける。


「わかる。ピザっていったらやっぱりマルゲリータよね――って、あなた。ツナマヨとマヨジャガって、どんだけマヨネーズ好きなのよ!」


 酔っぱらって言葉が乱暴になっている私は、その勢いで手を酔っ払いにぶつけてツッコむ。


「ガハハハッ! 馬鹿だな。アレっていったらツナマヨとマヨジャガだろう? そんなことじゃ、結婚生活うまくいかないぞ」

「まさか! アレって言って、マヨ系だと思う夫なんて要りませんよ」

「ほぉー。アンタの旦那、ツナマヨ食べないんか?」

「少なくともアレって言ったらツナマヨだとは思わないでしょ」

「つまんねえ男だな。どうせセックスも大したことないんだろ?」

「ウチの夫をディスるのやめてくれますかね?」


 酔っ払いは適当なことを言うだけ言って、私の話は聞かない。酔っ払いは酔っ払いらしい振る舞いでピザの耳を千切って猫たちに与えようとしたが、猫たち一家は一目散に花壇の中へと逃げ込んでいくだけであった。


「恩知らずな猫たちだな」

「そもそも恩義を感じてませんし」

「そうだな! ガハハハッ!」


 酔っ払いは何本目かの缶ビールに口をつけてからピザを食べる。


「結局、何がしたかったのよ?」


 私は酔っ払いに問うと、酔っ払いは不味そうな顔をしながらツナマヨを食べていた手をとめる。


「なあ、アンタ」


 そして、酔っ払いは真顔になる。私はつい、背筋を伸ばしてしまった。


「――やっぱり、寿司にしとけば良かったな」

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