トラウマを克服しようと頑張る話

白千ロク

本編

 いいか、絶対離すなよ? いや、離さないでください、お願いします。


 そう念を押して伝えると、相手は――彼女はうんざりした顔をした。うるさいくらいに言っているから、うんざりする気持ちは解る。しかし、幼年期のトラウマというのは、中々に根深いものなのだ。二十八歳になっても消えないのだから。時間が解決してくれるのかと思えば、全然違ったようだ。


 目の前にいるのは、リードに繋がれた上に彼女に抱えられたティーカッププードル。色は濃い焦げ茶色だ。家の中――リビングダイニングだが、ダイニングテーブルはない。ここは2DKだからね、広さはそんなにないんだ。


 彼女と同棲を始めて三週間。今日は彼女が実家で飼っている犬を連れてきてもらった。なぜなら、いずれは彼女も動物を飼いたいと言ってきたからだ。


 トラウマの件は彼女もよく知っている。幼なじみだからな、俺たちは。そもそも、目の前で見ていたんだよね。


 三歳か四歳かは記憶が定かではないが、小さな頃に犬にのしかかられそうになったんだ。散歩に行くらしいご近所さんとばったり会ったのは、スーパーの帰り道だった。スーパーの中で会った母二人、子二人は仲良く帰っていたのだ。


 当時は外飼いも多かったから、大きなゴールデンレトリバーは門の内側にいた。近くで見たゴールデンレトリバーはそれはそれは大きかったが、艶々な毛は触り心地がよさそうで、「触っていいですか?」とたどたどしく聞いていた。いや、ご近所さんに会うのは初めてだったからさ、緊張もあったんだよ。


 左横に並ぶ犬の横腹を撫でながらどうぞ〜とご近所さんは犬を前に出してくれた。手を出した俺はといえば、「わふん!」と機嫌良く鳴くゴールデンレトリバーがぐわわっと迫ってきた。


 ご近所さんは「こら!」と怒ってゴールデンレトリバーの頭を叩いてリードを引っ張ってくれたのでなにもなかったが、俺は固まった。恐怖に。


 ――それ以来犬が怖くなってしまったのだ。大きさは関係なく。のしかかってきて俺を潰してくるのではないのかと思ってしまうんだよ。


 それでも彼女が動物を飼いたいというなら、慣れなければならない。だから小さな犬から頑張ろうと思ったのだ。私もちょっと怖かったし、無理はしなくていいと言ってくれているが、彼女の家に負担をかけ続けるのはダメだろう。俺は彼女の家にお邪魔したことがないのだから。彼女の家には猫と犬、すなわち、アメリカンショートヘアとティーカッププードルがいる。仲良しらしいが、俺は「そうなんだ」以上は言えなかった。


 彼女の腕の中にいるティーカッププードルの頭を撫でる。……ふぅ、手汗がすごい。


 次は顎下、次は前足。また頭。


 今日はこのぐらいでと彼女を見ると、「頑張ったね」と微笑んでくれた。


 日を置いてまた頑張るから、離さないでと伝えると「解ってるって」とティーカッププードルを持ち運び用のケージに戻した。


「私の為にトラウマを克服しようとしてくれてるんだから、私もちゃんと付き合うよ」

「ありがとう。情けなくて本当に悪い」

「なに言ってんの! 私だって苦手なものはあるし、情けなくないって」


 また頑張ろうね! と励ましてくれる彼女は宇宙一かっこいいと思った。さすが俺の彼女。同い年なのにこのお姉さん風はすごいです。




(おわり)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

トラウマを克服しようと頑張る話 白千ロク @kuro_bun

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ