幕間 踊る宝石③
3
テーブル席が空いて密度の下がった空間を、落ち着いた響きが満たしていく。
アコースティックの音と繊細な歌声が織り成す曲は、心に眠るノスタルジーに優しく触れる。スウェーデン出身のアーティストだと波止に教えてくれたのは結菜だった。
「元気を出したまえよ。
美好は客だ。用が済んだので帰れとも言えない。黒川の沈黙も居た
「別れは不幸ではありません。ある実験では、衣食住と娯楽を与えられた鼠は繁殖を止めたそうです。全ての個々の幸せが達成された時、種は滅びる。生き延びる為の進化の終着点は幸福な滅亡だったと言い換えられるでしょう」
「壮大な皮肉だねえ」
「宇宙のロマンに一歩、近付きました」
波止は理路整然とダメージがない事を示したつもりだったが、美好は波止を可哀想な男にしたいようだ。その方が彼が求めるエンターテイメントに
「女心は男に解けないミステリーと言うがね。とかく女性は感情的な生き物だ。論理で解き明かせるもんでもない。情緒が不安定なんだよ」
美好が赤子をあやす手付きでテーブルを軽く叩く。
「ちょっと優しくしただけで依存して、ちょっと離れると病んで泣く。男女平等を唱えるなら、女性も独立心を持つべきだね」
「はあ、そういう節はありますね。低気圧で落ち込むとは言ってましたけど」
「賢い女性じゃないか。気象を理由に衝動を自制していたのだろう。信頼より束縛で
美好が何処かで聞いたような話を持論然と展開する。隣に黒川がいるのだが。
波止の黒目の動きに気付いたらしい。美好はオリーブのピックをグラスに落として空咳を繰り返した。
「刑事さんは鋼の情緒をお持ちなのでしょうな。女性の中の希望の星ですよ」
「…………」
黒川が眼鏡の奥に冷ややかな光を
すかさず鹿乃が割り込んで、メニューの黒板を二人の間に立てた。
「あーのー、他のお客様の御迷惑になりますので、ウザ絡みは御遠慮頂けます?」
「鹿乃ちゃんは彼氏を振り回して、相手を
深酔いが口を滑らせたように見えた。
「……一緒にすんじゃねえよ」
鹿乃が黒板に爪を立てる。硬い付け爪が嫌な音を鼓膜に押し付けた。
「男女の特大主語で語るのはあたしの主義に反するので個人攻撃しますけど」
両手で耳を
「ハト! あんた、さてはヒャクゼロ人間ね」
「
「気が向いた時は百パーセントで甘やかして、自由を満喫したい気分になったらゼロで放置する。理不尽な態度で原因を作っておいて、乱された人の情緒を
嘲笑ったのは波止ではなかったが、心当たりがなくもない。同時に、何が悪いという気持ちもあった。
「三六五日、彼女の事だけを考えていたら生活も人間関係も崩壊するでしょう。別に嫌いになった訳ではないのに、他の事を優先したくらいで傷付かれても困ります」
「ぬうう、正論に聞こえる。どうしてぇ?」
鹿乃が
「心理学の研修で習ったのですが、人間は、無意識に直線を想定するようです」
声の硬さに不得手が
「株価が上がればまだ上がるのではないかと期待する。不幸に突き落とされれば何処までも落ちる一方と錯覚する。幸福の
「比例の傾きって事ですか」
「はい。
「凪さん天才。そうだよ。地獄で天国からの迎えを無邪気に信じられる?」
援護を受けて鹿乃が水を得た魚の様に生き生きとする。
そもそも一定の変化をしない人間をグラフに当て
「そんなの……嫌いと言われるまでは自信持ってれば良いのに」
「本人にそう伝えればいいじゃん。最後にまともに話したのはいつ?」
「え」
鹿乃に
今は冬。
結菜の問いかけの謎が解けた。
『踊る宝石って知ってる?』
あれは、会話の糸口だ。結菜は興味を
彼女はホットミルクを飲みながら話したかったのだ。
こんな迷信があると。面白いねと。
「面倒くさい……」
波止は頭を抱えた。オチのない会話も、五十パーセントで出力し続ける愛情も。
「最っ低。あんたのペースに付き合わせるなら、あんたも彼女に歩み寄りなさいよ」
鹿乃が立ち上がって憤然と食ってかかる。
「理不尽の押し付け合いに聞こえるな。無理しても続かんよ」
美好が
三人でさえ結論が統一されないのだから、この世に正解など存在しないに違いない。
四人目の黒川はスツールの上で所在なげにしていたが、黒板をカウンターに立てかけると、背筋を正して
「バーテンダーさん。御自身で言っていました」
「俺が何を?」
「『どうしても必要で』探していると」
思い出すのが困難なほど昔の話ではなかった。波止の答えは既に出ていたらしい。
黒川がグラスの水滴をハンカチで
「私は最後の一杯にします」
「同じく。
美好が見せ付けるように
鹿乃が巻き髪を広げて
「店長には、ハトは眠気の限界って伝えとく。今すぐ帰れ」
命令されるのは虫が好かないが、背中を押されるのは存外、悪くない。
波止はエプロンを外し、カウンター下に置いた私物のボディバッグを身に着けると、三人に会釈をして店の外に出た。
夜の街は
見上げると、明るい月が満ちようとしていた。
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特別試し読みは以上となります。
気になる本編は、2024年3月22日発売予定の『雨宮兄弟の骨董事件簿3』(角川文庫刊)にてお楽しみください。
雨宮兄弟の骨董事件簿 高里椎奈/角川文庫 キャラクター文芸 @kadokawa_c_bun
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