本の傷

烏ぅ滸

本の傷

木曜日の僕はようやくひとつの本を読み終えようとしている、日曜日に買った本は既に背中に傷がついており、ブックカバーを外すべきではなかったことを後悔している。

学校で本好きな友達にその事を話すと、彼は意外にも肯定的な反応を返した。「お前はきっとその本を読む事に夢中で、空いた時間さえあれば読み耽るために肌身離さず持ち歩いたんだろう。お前ほどの読書家が本を投げたり叩いたりぞんざいに扱うわけが無いことは知っているさ。お前が本に夢中になるあまりについた傷、ならばそれは本にとって本望さ。」彼は読んでいた本を机に置き、その隣に頬ずえをついてこちらを見る。本にはブックカバーはついていなかった。


「古本は好きかい?」

僕は隣町の小さな古本屋を思い出す。通学定期の範囲内にあるその町は古風で趣があり、僕はそこで喫茶店巡りをする帰りに、人目のつかない公園の反対側の鄙びた古本屋によく寄っていた。人ひとりがようやく入れるような間隔で並べられた本棚が四つばかりの小さな古本屋。僕はそこの匂い、本の感触、雰囲気がたまらなく好きだった。「もちろん。この世の中で読書とコーヒーを好む人の中に、一人だって古本が嫌いな人間がいるかい?。」頬ずえをついた手を軽くずらし、掌底をこめかみに接着したような体制で、彼は深く僕の顔を覗き込む。「ならわかるだろう。ぞんざいに扱われた結果と、読み耽った痕の違いが。」「そりゃまぁ…」僕は坊主頭をぽりぽりと掻く。

「古本には綺麗な本と違う独特な感覚がある、もの言えぬ感覚だ。」「もの言えぬ感覚…」気の抜けた顔で僕は復唱する。「そう。ただし断っておくが、感覚ではなく、なんだ。この2つはヒマラヤ山脈より大きな壁で隔てられてる。決してものが言えなくなるような感覚じゃなくて、感覚が口をきけなくなるんだ。」「君は感覚に口があって、普段はそれでべらべら喋ってるとでも言いたいのかい?」「そうだ、感覚は常に外の情報を五感からキャッチして俺の意識に逐一説明してくれる、しかし古本を前にするとそれがぱたりと止んでしまうんだ。古本はある意味どんなものより情報に溢れている、視覚聴覚嗅覚触覚、全てがその古めかしい紙の束を情報の濁流と認識し、感覚はそれに飲み込まれ難波状態。沈黙の感覚に、俺の意識は途端に混乱と安らぎを同時に感じる。」僕は彼の言葉を否定できない、なぜならその感じに幾度となく飲み込まれた経験が、確かに僕にはあった。それもただの本を読んでる時でなく、特に件の古本屋で見つけた小説を読みふけっている時に顕著だ。

「君は人の意識を飲み込むブラックホールを現在進行形で生産しているんだ。それは素晴らしいことであり、同時に恐ろしいことでもある。しかし確実に、本は綺麗なままより使用感がある方が魅力的だ。」僕は彼の言葉にただ頷いた。


「しかし世の中には本を綺麗なまま保存したいというなんとも奇っ怪な輩がいる。彼らの気持ちも理解できるが、本自体を崇める行為は、肝心の本の中身をを読むという本質を蔑ろにしてまでするべきものでは断じてない。」彼の声色はあくまで平坦で、むしろ他の人と比べて抑揚がない。しかし今の言葉には彼の確固たる信念が感じられた、むしろそれは憤りに近いかもしれない。どちらにせよ当たり前のことをここまで情熱的に思わせる彼はきっと独裁者に向いている。

「当たり前だろ。そういった輩はきっと本を集めるよりエロいフィギュアでも集めるべきなんだ。その方がずっと実用的だね。」僕の嘲りの表情に彼は間髪入れず。「本来の用途であると言った意味では、確かに鑑賞されるという正しい使い方をされているフィギュアは、綺麗だが読まれない本とは価値に雲泥の差がある。」

彼の一言一句が、徐々に熱を帯びてくる。「役割を果たさないものは、この世界には不要なんだ。読まれず飾られる本、誰にも見られることの無いフィギュア、それはあってはならないものなんだ。物語に登場する銃は、必ず引き金を引かれなくてはならない、それが必然性であり、そのものが存在する意味なんだ。たとえそれがどのように悪しき行いでも、定められた役割を果たせぬものに、席は用意されるべきでない。」僕は彼の目を見つめ、笑いをこらえる。

「劇団四季でアラジン役の男が、急にジーニーのアラビアンナイトを歌い始めたら、きっと明日には彼の姿は劇団からいなくなっているだろう。僕らは演者であり観客だ、舞台はこの世界。俺らはこの世界にいる限り、舞台裏での息継ぎを行えない。それができるのは精神世界だけだ。」「じゃあ本は大変だな、精神世界という逃げ場がないあいつらは、その身が崩れさり目的が忘れ去られるまで、舞台で踊り続けにゃならん。」「そうだ、それがドラマツルギ。チェーホフが理解した演劇論ドラマツルギだ。」僕は耐えきれず吹き出してしまう。

「お前はいつも俺の一歩先を行くな、どんだけ本が好きなんだよw」僕は背表紙の傷ついた村上春樹のを机に置く。

「俺はカーネルサンダースみたいにいい女は紹介できないぞ。」彼はそう言うと、机の本を再び読み始める。背表紙は角が剥げかかっていた。

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