ゆるめないのは腕の力だけではない

とは

ゆるめないのは腕の力だけではない

 打木うちき希美きみには、開かねばならないものがあった。

 そう、それは扉である。


 震える手と心をおさえつつ、隣にいる恋人の直人なおひとへと目を向けていく。

 にこりと笑い、彼が希美の肩に手を置いてくる。


「大丈夫。どんな結果になっても、俺は君と一緒に向き合えるから」


 心強いエールをもらい、希美は大きく頷いてみせる。


「ありがとう。じゃあ思い切って、……いってきます!」

「うん。でも本当に、俺は見ているだけでいいのかい?」


 扉を開く鍵を希美へと渡しながら、直人は問いかけてくる。


「直人さんは言ってくれたでしょ。私が飛び込む勇気をくれたって。だから私、もう一度その勇気を信じてみようと思う」


 受け取った鍵を差し込み、扉を開く。

 玄関で靴を揃えると、希美は力強く足を前へと進めていった。


 探していた相手は、リビングでくつろいでいた。

 突然やってきた自分を認識した相手は、「ひっ」と声を上げる。


「な、なんであんたがここにいるの! どうやってここに?」


 信じられないという顔つきで、直人の母は希美を見つめてくる。


「たーのーもーうー! お母様、お邪魔いたします」


 直人の母の目の前で立ち止まり、希美は自分の手の甲を彼女の前に掲げた。


「こちらをご覧ください。小さいくせに、やたら痛みを訴えてくる。その名もささくれでございます!」


 予想外の出来事に茫然としていた直人の母だったが、やがて怒りの表情を希美へと向けてくる。


「ふざけんじゃないわよ! いきなり人の家に不法侵入して来るなんて!」

「俺と一緒に来ているから、それは違うよ。いやぁ、まさか文字通りに『飛び込んで』いくとはね」


 遅れてリビングへとやってきた息子に、再び彼女は言葉を失う。

 希美はその隙をついて、畳みかけるように言葉を続けた。


「今日は決着をつけに来ました。ささくれが出来ると親不孝だそうですよ。だったら原因からつ! これに限るではありませんか」


 希美の言葉に、直人の母の顔色が変わっていく。


「ま、まさかあなた。私を殺……」

「では始めましょう。直人さんは手を出さないでね」


 そう言葉を掛ければ、彼は困った顔ながらも頷く。


「そんな、直人! いっ、痛い! いやぁ、放してっ!、助けてっ! 直人ぉ!」


 悲愴ひそうな声を上げ続ける彼女の願いは叶うことはない。

 リビングには母親の悲鳴と、ときおり希美の「ふんっ」という声と共にパキン、ボキリという不快な音が響いていった。



◇◇◇◇◇◇



「ふぅ、ここまででいいか。あぁ、さすがに私も体が痛いや。明日は筋肉痛だね」


 掴んでいた直人の母親の両肩から手を放せば、彼女はそのまま床へと倒れこんでいく。


「これから夕ご飯を作るのは面倒ね。直人さん、今日はテイクアウトでもいいかしら?」


 両腕を伸ばしながら語れば、母親を痛々しそうに見ていた直人が慌てて頷いてくる。


「そそそ、そうだね! 君もだいぶ疲れただろうから」


 同じことをされるのは嫌だ。

 その思いを顔に出しながら、直人が答えてくる。


「……こっ、こんなことって」


 下から聞こえるかすれ声に、希美は視線を落とした。

 かろうじてと言った様子で立ち上がろうとしている直人の母親に、希美は手を差し伸べていく。


「すっきり出来ましたか? こうやって体をしっかりほぐし、血流を良くして栄養や水分を体にしっかりすみずみまで行きわたらせる。ストレッチって、とってもいい効果があるんですよ!」


 そう、希美は直人の母親の抵抗を抑えつつ、彼女の体を伸ばし、背中や下半身を中心にストレッチをしていったのだ。

 体力には自信がある。

 ネットを見ながら、真剣に勉強した甲斐があった。

 今や直人の母親は、指先までぽかぽかになっている。

 希美はそのまま両手で、彼女の手を包み込んでいく。


「ささくれって、小さいのにとても痛いではないですか。見た目とは違う深いところに痛みや原因がある。自分の指を見ていたら、そんな気がしたんです」


 希美の言葉を、彼女は黙って聞いている。


「そんなささくれなんですけど、ストレッチとかで血行を良くしたら予防できるそうなんです。だからお母様、いいえ。……お母さん」


 呼び方に驚いて顔を上げた直人の母に、希美は笑いかけていく。


「これからもこうやって、二人で一緒に体を動かして。固くなった体と思いや心なんかをほぐしていきませんか? そうしたらささくれも親不孝も、きっとどこかに行ってしまうと思うんです」


 希美の言葉に、直人の母は顔を赤くしてにらみつけてくる。


「……っ! なによなによ! 突然に来たと思ったら、人にこんなことをして! 帰って! 帰ってちょうだいっ!」

「母さん、そんないい方しなくても」

「直人、あなたもよ! 今すぐ帰って!」


 押し出されるように、家の外へと追いやられた希美と直人は顔を見合わせる。

 やがて直人がため息をつき、口を開いた。


「仕方ない、今日は帰ろう。希美ちゃん、せっかくいろいろ行動してくれたのにごめんね」 

「ううん、それは大丈夫。……う~ん」


 最後に見た、直人の母の顔。

 そこに表れていたのは怒りだけでない、別の感情もあるように思えたのだ。

 

「直人さん、ちょっとここで待っていて。もう一度だけ、チャンスが欲しい」

「えっ、でも……」

「私一人だけで行きたいの。何かあったら呼ぶから、その時はお願い」


 再び玄関へときびすを返し、今度はチャイムを鳴らして待つ。

 出てきてくれるだろうか。

 そう考えている自分の耳に、玄関の鍵が開く音がする。

 だが扉が開く気配はない。

 希美がそっと扉を開けば、背中を向けた直人の母の姿がある。


 届くだろうか。

 いや、届けるんだ。

 その願いを込め、希美は声を掛けていく。


「また来ますっ! 今度は何か美味しい手土産も持ってくるようにしますから!」


 背中を向けたままの彼女に一礼をして、ゆっくりと顔を上げる。

 距離は変わらない。

 だが、こちらへと向き合った直人の母は、希美へと言葉を掛けてきたのだ。



◇◇◇◇◇◇



 扉を閉め、直人の元へ向かう。

 心配そうに見つめる彼の手を握り、希美は「お腹すいたね」と言って歩き出す。


『次に来るときは、きちんと連絡しなさい。そうしたらお茶くらいは準備してて、……あげっ、あげるから』


 真っ赤な顔で語られた言葉を、希美は胸の奥にしまっておく。


『今の話を直人に言ったら、絶対に許さないから!』


 一緒に聞いたこの言葉もあり、直人には話さないでおく。

 だからこれは希美だけが知る、頑張ったという褒美の証なのだ。


 

  


  

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