はなさないで

惟風

きっと可愛らしいコが生まれる

 研究室のセンサーに手を翳す。ピッと短く機械音が鳴る。小さな音のはずが、無人の施設内ではやけに大きく響く。

 片側にかけたリュックを持ち直して、私は開錠された扉の向こうに足を踏み入れた。薄暗い空間には、その隅々を埋めるように配置された大型の機械類や細々とした配線、明滅するモニター、積み上げられた書類が広がっている。でも、私が注目したのは、中央に聳える巨大水槽だ。

 円柱型の水中にぽつねんと一匹だけで浮かぶは、ゆったりと尾鰭を揺らしながら私を真っ直ぐに見据える。室内が薄暗いせいか、青灰色の背が黒く見えた。


 キュア・シャークだ。

 その生体組織があらゆる病気の治療薬の素となる、巨大なサメだ。


「来たよ」

 私は水槽にそっと触れた。アクリル越しにの鼻先がゆっくりと押し当てられる。ちょうど私の掌の辺りだ。これが私達の挨拶だった。直接触れることは叶わないけれど、私達は確かに通じ合っているのを感じる。

「やっとここから出してあげられる」


 巨大製薬企業が極秘に研究し作り出した“生きた万能薬”のは、生きながら身体を切り開かれ、内臓を削られる日常を送っている。いくら超回復の力ですぐに傷が治るといっても、は痛みも苦しみも感じているのに。

 新人研究員の私は、最初は機械的に生体の採集をするだけだった。でも、いくつかのボディランゲージやこちらからの声かけ、簡単な合図でコミュニケーションを取るようになった。

 は、六十年代〜七十年代のアメリカンロックを好むこと、研究所の水槽から出たことはなくても外の天候が感じ取れること、最近私が髪を切ったことが不満なこと、その他沢山の気持ちを教えてくれた。


 そうすると、日々に繰り返される拷問のような行為に耐えられなくなった。

 を解放してあげたい。私が、この手で。

 馬鹿なことをしようとしているのはわかってる。難病に苦しむ世界中の人達を犠牲にしてしまうことも。

 でも希望がないわけじゃない。研究は進んでいる。を直接痛めつけなくても、薬を作れる未来はすぐそこまで来ている。

 だから、今夜、の解放を決行しようと決めた。


「彼から離れなさい」


 通りの良い声に振り返ると、一人の男性が入口に立っていた。すらりとした体躯に、少しくたびれた白衣が馴染んでいる。

「内海博士……」

 天才科学者・内海博士。遺伝子操作によってを創り出した張本人だ。十に満たない歳の頃にこの研究所に招聘され、以来十数年、いくつもの研究・開発を行っている。

「まったく、計画が杜撰すぎますよ。僕にはバレバレです。僕が来なければ君はとっくに捕まって処されています」

 博士は片頬を上げてみせた。若白髪の目立つ髪を掻き上げる。内海博士は、この研究所の誰よりも古株で、誰よりも穏やかな人だ。マイペースで、腰が低くて、優しくて、いつも楽しそうにしている。そのせいか、この人が世界屈指の頭脳を持つ若き天才であることを忘れそうになる。

「……邪魔しないでください」

 リュックに忍ばせたナイフに手を伸ばす。研究所に勤める者で博士を尊敬しない人間なんていない、私だってその一人。でも、のためなら強硬な手段に出る覚悟はできていた。

「そんな怖い顔しないで。邪魔なんかしません。僕は助けにきたんです」

 博士は散歩でもするように歩いてくると、水槽に取り付けられたパネルを鼻歌混じりに操作した。承認の音が小さく聞こえたかと思うと、水槽の底がスライドを始める。

 開口部は外海と繋がっている。を脱出させる計画の一番の難関部分だった。それが、ハッキングで無理やり開放させようとしていた自分が馬鹿らしくなるほどすんなりと開いた。


 は脱出経路が確保されてからも私達をしばらく見つめていた。けれど、するりと身を翻すと尾鰭で水槽を何度か叩き、その後は振り返ることなく出て行った。リズミカルなノックの意味は、「さよなら」だった。

 あまりにも呆気なく、は自由の身となった。今日を迎えるまで思い悩んだ日々は何だったのだろう。あんなにも望んでいたことなのに、いざ実行してみると寂しささえ感じる自分に驚いていた。呆然とする私の隣で、博士がくすくすと笑い出した。


「君の計画に気づいた時、僕には三つの選択肢がありました。一つ目は計画を阻止すること。二つ目は、見逃すこと」

 博士は形の良い指を一本ずつ立てながらニコニコと話した。でも、そこでぴたりと口を噤んで私を見下ろした。博士は頭二つ分ほども私より背が高い。

 促されている気がして、私は口を開いた。

「あの……三つ目の、選択肢というのは……?」

「彼を逃がす計画に、僕も乗ること」

 博士は三本目の指を立てた。切れ長の目をぎゅっと細める。

「ああ、勘違いしないで。君のためでも彼のためでもないです」

 博士は困ったように眉尻を下げた。それでも口元は笑んでいる。博士はいつだって、微かに笑みを湛えている。

「僕はね、彼のことを本当に大切に思っていたんです。そもそも仲間が欲しくて創ったんだからね。同じ、として。でも、そこに君がやってきた。君はあっという間に彼と仲良くなった。毎日楽しそうでしたね。とても羨ましかった。そして君は彼に自由を与えようとした。……僕には誰もくれなかったのに」

 博士は私の両肩にそっと手を置いた。決して力ずくで押さえつけられているわけではないのに、私は動けない。


「この研究所がある限り、僕はどこへも行けないんです。いや、たとえ研究所ここが無くなっても僕はどこかに囚われて研究させられるんですよ。ねえ、君は今日から僕の共犯者ですよ。もう僕から離れちゃいけません。離しちゃいけません。もし君が離れようとしたら、僕は彼よりもずっと可哀想な生き物を創り出してしまうかもしれない。頭が良くて、優しくて、痛みに弱くて、でも人類のために生きたまま解剖しなきゃいけない生き物を。そんなの、悲しいですね」

 眉根を寄せた顔は本当に悲しそうに見えた。彫刻のように美しくて、物憂げだった。強張る私の身体を、博士の右の人差し指が滑り降りる。


「ああそうだ、その時は、を創りましょう」

 ぱあっと明るくなった表情で、博士は私の下腹部をトンと突いた。




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