番外編 とある兄弟の、午後のひととき

 この日、皇帝の紫釉シユが先触れもなく訪れたのは、仔空シアの執務室だった。


「陛下、ご用件がございましたら私からお伺いいたしましたのに……」


「畏まらなくていい。おまえの顔を見に来ただけだからな」


 臣下の礼を取る弟へ軽く手を上げ、紫釉は椅子に腰を下ろす。

 従者たちはお茶の用意をすると、部屋を出て行った。


 妖狐に捕らわれていた紫釉が無事に開放されてから、およそひと月。

 体に問題はなく、毎日公務を行っている。

 仔空は以前と変わらず、執務の手伝いを続けていた。


「今日は、あの者は不在なのか?」


 紫釉はぐるりと室内を見渡す。

 いつもは仔空の傍に控えている鼬瓏ユーロンの姿が、どこにもなかった。


「刑部尚書からどうしてもと頼まれまして、本日は刑部のほうへ行っております」


「ハッハッハ、浩宇ハオユーから話は聞いている。なんでも、八面六臂はちめんろっぴの大活躍とか」


 宦官であるにもかかわらず、ある時は刑部の潜入捜査官の一員として現場へ。

 また、ある時は、体術の手腕を買われて兵部の訓練に参加しているらしい。


「は、はあ……」


 仔空の顔が、わかりやすく曇る。

 どうやら従者の活躍は、弟にとってはあまり喜ばしいことではないようだ。


「なんだ、相手をしてもらえないから拗ねているのか?」


「そ、そうわけでは、ありません!」


 では、そんな顔をするのはどういうわけだ?と、兄はつい意地悪を言ってみたくなる。

 弟が絶対的な信頼をおいている半妖宦官。

 紫釉が鼬瓏を初めて見かけたのは、あの日だった。

 自分を助けに後宮跡地まで乗り込んできた仔空の隣にいた人物。

 頼りなさそうに見えて内に秘めていた実力は申し分なく、大いに貢献をしてくれた。

 仔空は自分の専属従者にしたいようだが、噂では刑部や兵部が登用したいと考えているとも聞く。

 鼬瓏は、宮廷の中でいま一番注目されている若手実力者なのだ。 


 紫釉にとって、実力者と言って忘れてはならない人物がもう一人いる。

 妖狸のリーだ。


(彼がいなければ、私は今頃……)


 この二人のおかげで、紫釉は『人として』ここに存在できているのだから。



 ◇◇◇



 紫釉の魂を妖狐から取り返した狸は、その足で寝所まで運んでくれた。

 あとは自分で自分の体に戻るだけ。

 ところが、何度やっても体の中に入ることができなかった。


⦅なぜだ、なぜ戻れぬ?⦆


「あなた様から、妖気を強く感じます。もしや、妖狐が何かしておりませんでしたか?」


 狸から問われ、紫釉は妖狐が毎日自分へ少しずつ妖力を流していたことを思い出す。

 

「そういえば、妖狐は皇帝陛下を『我のしもべに』と言っておりました。妖力によって魂が変質し、体が受け入れられなくなったのでしょう」


⦅では、どうすればいい?⦆


「私が妖力を流しながら、少しずつ取り除いていきます」


 妖狐の妖気を、妖狸の妖気で相殺していくとのこと。

 自分では何もできない紫釉は、命運をこの妖狸に託すほかない。



 ◇



 一度に妖気を流し込みすぎると魂が傷付く恐れがあるため、慎重に事を行う必要がある。

 少しずつ作業が進んで行くなか、紫釉は狸の様子がおかしいことに気付く。

 額に汗をかき、手先が小刻みに震えているのだ。


⦅どうした? 体調が思わしくないように見えるのだが?⦆


「……妖力を多量に使用しておりますので、体内で枯渇しかかっているようです」


 妖気の除去には、大量の妖力が必要となる。

 通常の使用量であれば、減少分は時間が経てば自然に回復する。

 しかし、自然回復分を上回る量のため、体が悲鳴を上げていたのだった。


⦅今日のところはここまでにして、続きは明日以降に⦆


「それはできません。一刻も早く除去しなければ、皇帝陛下は妖狐となってしまいます」


⦅!?⦆


 魂が狸の予想よりも妖気に浸食されており、猶予がないとのこと。

 

⦅しかし、このままでは其方の命が……⦆


「たとえこの命が尽きようとも、私は絶対に止めるわけにはいかないのです。大事な人たちの命が掛かっておりますので」


⦅命だと?⦆


 紫釉は狸から、今回の経緯いきさつは聞いていた。

 彼らに同情の余地は十分にあり、自分が元の姿に戻りさえすれば、姉弟に関しては罪に問わないつもりでいた。


「私は、自分の仕出かしたことの責任はきちんと取ります。しかし、皇帝陛下を助けられなければ、蝋燭を作った彼女も処刑されてしまう」


⦅…………⦆


 絶対に処刑されぬとは、紫釉もこの場で断言できなかった。

 

 その後も、狸は黙々と作業を続ける。

 途中で何度も手が止まりそうになるが、歯を食いしばって耐えている。

 その姿を、紫釉はただ黙って見ていることしかできなかった。



 ◇


 

「終わった……」


 最後までこびりついていた妖気を取り除くと、魂は人としての輝きを取り戻した。

 床に座り込んでいた狸だったが、フラフラしながら立ち上がる。


「これで、今度こそ体に戻れるはずです。私は残してきた二人が心配なので、様子を見に戻ります」


⦅少し休んだほうが、よいのではないか?⦆


「二人の無事を確認するまでは、じっとなどしていられません」


 憂いはすべて払っておきたいのです。そう言うと、狸は再び窓から出ていく。

 彼を見送った紫釉は、おそるおそる体に近づいた。

 どうか、無事に戻ってくれ。祈るような気持だった。

 

 己の命を削った狸のために……

 罪なき者の血を流さないために……



 ◇◇◇



「───上、兄上?」


 目の前に、弟の顔があった。


「ああ、すまない。少しぼんやりしていたようだ」


「復帰されてから、ずっと働きづめです。きっと、お疲れがたまっているのでしょう」


「だったら、私の疲れが吹き飛ぶような愉快な話をきかせてくれないか? たとえば、おまえの従者の武勇伝とか……」


 突然、執務室の扉がバンッと開いた。


「ただいま、戻りました!」


 噂をすれば影が差す。鼬瓏が元気よく帰ってきた。


「俺は、おまえに何度も言っているだろう? 扉を開ける前に、中へ一声かけろと」


「申し訳ありません」


 謝罪の言葉は口にしているが、鼬瓏の視線は仔空ではなく明後日の方向を向いている。

 主の説教を聞いていないことは明らかで、紫釉はこみ上げてくる笑いを必死に抑え込んだ。

 

「ちょうど良かった。殿の今日の活躍を、私に聞かせてくれないか?」


「かしこまりました」


「……普段の(自分に対する)態度とは天と地ほどの差があると思うのは、俺の気のせいだろうか?」


 紫釉へ恭しく揖礼ゆうれいする鼬瓏へ、仔空の大きなひとりごとが投げかけられる。


「本物の皇帝陛下は、威厳がありますからね」


「コラ! おまえは何でも正直に物を言い過ぎだ!!」


「申し訳ありません」


「その顔……絶対に、申し訳ないとは思っていないだろう?」


「そんなことは……」


「あるんだな?」


「…………」


 返事をしないのが、何よりの証拠だ!と、弟の声が執務室に響き渡る。

 仲の良い主従を眺めながら、兄は思う。


 今日も平和でなにより、と。




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半妖宦官は、あやかしになった主様を今日も翻弄する gari @zakizakkie

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