ラビットの意地

丸子稔

第1話 はなさないで

 マラソンでペースメーカーを務める者を、犬を使ったドッグレースで先導させるウサギの模型に由来して、ラビットと呼ばれることもある。


 海外で始まったこのペースメーカーは、選手に好記録を出させることを主たる目的としたものだが、自ら進んでやろうという者はほとんどいない。


 その理由は、ペースメーカーに指名されるのは選手としての能力を見限られたからで、つまりマラソン選手としてはもう終わったことを意味するからだ。




 現在27歳の田村省吾は大学時代に数々の実績を残し、実業団に入ってからも一年目の冬に初マラソンを日本記録で優勝したことで、将来を嘱望されていた。


 しかし、それがプレッシャーになったのか、その後出場したマラソンは優勝するどころか、一桁順位にも入ることができず、タイムも走るごとに落ちていった。


 彼は典型的な先行逃げ切り型で、前半は誰も追いつけない程のペースでタイムを刻むのだが、後半になるとどうしてもそのつけが回り、後続のランナーに次々と追い抜かれるのがこれまでのパターンだった。


 監督やコーチは、前半はもう少しペースを抑えて、後半に向けて力を温存しろとアドバイスするのだが、強情で自信家な彼は聞く耳を持たず、いつも自分のプレースタイルを貫いていた。



 そんなある日、午前中に仕事をした後、いつものようにグラウンドを走っている田村に、コーチの高橋が声を掛ける。


「田村、ちょっといいか?」


「はい」


 二人はそのままコースから離れ、田村の息が整ってきたタイミングで高橋が喋り始める。


「来週行われるマラソンのことだが、お前ペースメーカーを務めてくれないか?」


「えっ! コーチ、その冗談、全然笑えないんですけど」


「これは冗談ではない。ペースメーカーを務めることになっていた者がケガをして、出られなくなったんだよ」


「だからといって、なんで俺がその代役をしないといけないんですか? というか、俺が今度の大会にどれだけ賭けてるか、コーチも知ってるでしょ」


 来週の大会は、翌年開かれるオリンピックの選考レースになっていて、優勝者は自動的に出場の切符を手にすることになっている。

 田村はそれに向けて海外で三ヶ月に及ぶ高地合宿を行い、弱点であるスタミナ不足を克服していた。


「それはもちろん知ってるが、選考レースは今回だけじゃない。また次で頑張ればいいじゃないか」


「そんなに簡単に言わないでください! コンディションを整えるのがどれだけ大変か、知らないとは言わせませんよ!」


「とにかく、これはもう決まったことだ。じゃあ、頼んだぞ」


「ちょっと待ってくださいよ!」


 田村の呼ぶ声を無視し、高橋は足早に去っていった。



 その後、高橋は会社に戻り、監督の渡辺がいる部屋に向かう。


「失礼します」


「どうぞ。で、どうだ? 田村は納得してたか?」


「いえ。興奮して、話を聞いてくれそうになかったので、強引に話を切り上げてきました」


「そうか。その様子では事実を知ったら、あいつどうなるか分かったものじゃないな。じゃあ、この件は本人にくれ」


「分かりました」


 オリンピックのマラソン代表選手は三人と決まっており、来週のレースと二か月後に行われるレースの優勝者二人と、あとの一人はそれぞれのレースで二位になった者のうち、タイムの良かった方が出場することになっている。


 会社は、大学時代田村の後輩だった林に期待しており、田村をペースメーカーにすることで、彼のタイムを少しでも良くしようと画策していた。




 翌週、田村は完全に納得したわけではなかったが、ペースメーカーとしてレースに出場することにした。


「田村先輩、今日はよろしくお願いしますね」


 林がニヤニヤしながら、田村に声を掛けた。


「ああ。俺は30キロまで先導するつもりだが、かなりハイペースで行くつもりだから、苦しかったら無理して付いてこなくてもいいからな」


「先輩、もしかして僕のこと、見くびってます? 確かに大学時代は、先輩にはまったく歯が立ちませんでしたけど、今は立場が逆転してることを忘れないでください」


「お前が選手で、俺がラビット役だってことを言いたいのか? あまりいい気になるなよ。俺は次のレースで必ず優勝してやるからな」


「その様子じゃ、まだ聞かされていないみたいですね。先輩は次のレースに出られませんよ」


「なんだと? それはどういう意味だ」


「まだ気が付かないんですか? 先輩はとっくに、監督やコーチからマラソン選手としての能力を見限られてるんですよ。今日ラビット役に指名されたのが、何よりの証拠です」


「…………」


 林の言葉に、田村は見る見る顔が青ざめ、何も言い返すことができなかった。


「まあ、そいうわけですから、今日は僕の記録を良くするために頑張ってくださいね。はははっ!」




「全国のマラソンファンの皆様、こんにちは。いよいよレースまであと五分となりました。私、今回実況を務める杉原です。そして隣で解説していただくのは、この道三十年の栗田さんです。栗田さん、よろしくお願いします」


「よろしくどうぞ」


「今日のレースはオリンピックの選考レースとあって、選手の皆さんはかなり緊張してるみたいですね」


「まあ、オリンピックは四年に一度の大舞台ですから、出ると出ないとでは、これからの人生に大きく影響しますからね」


「それだけオリンピックは重みがあるということですね。そのオリンピックが懸かったこのレース、果たして結果はどうなるのか。視聴者の皆様、引き続きチャンネルはこのままでお願いします」


 やがてレース一分前になると、選手たちはそれぞれ強張った顔でスタート地点に集まった。

 その中で田村のすぐ後ろに立った林はよほど自信があるのか、余裕の表情を浮かべている。

 一方田村は、その顔からは読み取れないほど、無に近い表情をしていた。


 『バン!』


 ピストル音が鳴ると同時に、選手たちは一斉にスタートした。

 その中で田村は林に宣言した通り最初から飛ばし、他の選手との差はどんどん開いていった。


「おおっと! ペースメーカーの田村がいきなり飛び出しました! 栗田さん、これは一体どういうことでしょうか?」


「聞くところによると、彼は今日初めてペースメーカーを務めているみたいなので、ペース配分がいまいち分かっていないのではないでしょうか」


「なるほど。彼は選手の時も前半は一人で飛ばしていましたが、もしかするとその癖が抜けないのかもしれませんね」



 レースは田村の独走状態のまま、折り返し地点を迎えようとしていた。


「今、田村が折り返し地点を通過しました。ああっ! なんと、ここまで日本記録のペースを大幅に上回っております! このままのペースでいけば、世界記録も夢ではありません」


「さすがにそれは無理でしょう。というか、彼は30キロまでのはずなので、いくら記録が良くても意味ないんですよ」


「できればその先も観てみたい気もしますが、こればっかりは仕方ありませんね。あっ、今、一位の林が田村から約二分遅れて折り返し地点を通過しました」



 やがてレースは30キロ地点に到達したが、田村はやめる気配がなく、そのままレースを続行した。


(林の口ぶりだと、俺は次のレースに出られないかもしれない。オリンピックに出場するためには、ここで結果を出すしかない)


「おおっと! 田村がそのまま走り続けています。しかも、30キロ通過タイムは、世界記録を上回っています。栗田さん、ペースメーカーが優勝するなんてことが、あっていいんでしょうか?」


「過去の大会でそういう例はいくつかあるので、別にあってもいいと思います。ただ彼の場合、いつもこの辺りからペースが落ちてくるので、今回もそうなるでしょうね」


 栗田の予想は大きく外れ、田村は40キロを通過した時点でも、世界記録を上回っていた。


「おおっ! レースはいよいよ、あと2キロとなりました。田村はこのまま世界記録を打ち立てることができるでしょうか?」


「いえ、それは有り得ません。ここからペースは大きく落ちるはずです」


 今度は栗田の予想が当たり、田村は見る見るスピードが落ちていった。


(くそ。このままじゃ、今までと同じだ。今こそ、あの苦しかったトレーニングを思い出せ)


 田村は歯を食いしばり、自らを奮い立たせながら懸命に走った。


 そして田村が競技場に帰ってきた時、観客は全員彼をスタンディングオベーションで迎えた。


「さあ、いよいよあと少しでゴールとなりました。結局世界記録には及びませんでしたが、それでもかなりの好記録です。今、田村がバンザイしながらゴールテープを切りました。記録は2時間2分ジャスト。自らが持っていた日本記録を大幅に塗り替えました!」


(やった! ついに俺は四年前の自分を乗り越えることができた)


 静かに喜びを噛みしめている田村に、彼から一分遅れてゴールした林が近寄っていった。


「今日の田村さんのレースを後ろから見て、大学時代を思い出しました。僕はいつも田村さんの背中を追いかけて懸命に走っていましたが、距離は縮まるどころかどんどん離される一方で、その度に僕は心の中で(これ以上くれ)と思っていました」


「そういえば、お前いつも俺と練習した後、悔しそうな顔してたな」


「ええ。実業団に入ってようやく先輩に追いついたと思ってたのに、それは僕の思い込みでした。やっぱり先輩は凄すぎます」


「でも、俺は今回ラビットで参加したから、もしかすると優勝は取り消しになるかもな」


「たとえ先輩がそう思っても、観客は誰が優勝したか分かってますよ」


 競技場は割れんばかりの田村コールが起こっていた。


「ほら、早く観客のコールに応えてあげてください」


 林に促され、田村はちょっぴり照れながら、観客に向かって手を振った。


  了



 



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