【KAC20244】ささくれの治る頃

有明 榮

群青

 ささくれが治る頃になると、思い出すことがある。


 そいつの名前はあきらといって、もう十年以上前に、二か月だけ高校の同じクラスに在籍していた。隙間風くらいの関わりしかなかったのにもかかわらず覚えているのは、常に僕が一方的に、彼を覚えていたからだ。


 くだらないと言わずに聞いてほしい、青二才の心に刻まれた思い出したくない風景なんて、駅前の交差点以上に見慣れたものだろう。


 高校三年の一月、大学受験を控えたすべての十八歳児の心が張り詰める時期に、親の仕事の都合なのだといって、彼はふらりと転入してきた。担任もそうだし、クラス中の誰もがこの時期に転校なんて大変だな、短い期間だが一緒に頑張ろうぜと彼を温かく迎え入れた。誰だってそうするし、僕も実際そうした。


 ところが、彼の行き先は誰一人として知らなかった。というよりも、彼はまったく語ろうとしなかった。確かに、転入した先の学校でいきなり進路の話はしにくいだろう。


 指先がささくれでひりひりと痛むころ、僕は二次試験に備えて土曜日も学校で勉強していた。三年間使用して柔らかくなった革の制カバンに二冊の赤本とノートを忍ばせ、イヤホンから流れるロックンロールに合わせて階段を駆け上がるのが、僕の「普通の土日」だった。


 換気をすべく教室の窓を開けると、ふと向かいの校舎の二階で、カーテンが揺れている。


 向こうは三年生の校舎ではないので、誰かが窓を閉め忘れたのかな、と思い、渡り廊下を渡ってみた。


 目的の部屋は美術室で、そこには等身大のカンヴァスの前で筆を握る晶がいた。晶は青銅の彫刻のように、筆を持ったまま五分以上身じろぎ一つしなかった。カンヴァスを見つめる瞳から放たれる、射貫くような迫力を遠目から感じた僕は、いつにない厳しい視線を向けている彼は、もしや別人なのではないかとさえ思った。


 晶はおもむろに左手のパレットに盛った青色の絵の具を平筆に付けた。いよいよ創作が始まるのだ、と確信した僕は、自分の勉強すら忘れて、全身の血管に熱湯が走るような興奮を覚えた。


 その時、「おい、杉原」と背後から声をかけられて、僕は息をのんだ。


「三島は試験に向けて制作の練習途中なんやぞ。興味沸くのは分かるけど、邪魔せんとお前も教室に戻りィ」


「……はい」


 数学教員の高島の声は、誰もいないその階で大きくこだました。


 ふと晶の方を振り返ると、彼は筆を握った右手を下ろして、再び彫刻のような恰好をしていた。晶は半分だけ顔をこちらに向けて、僕の姿を目じりだけで捉えているに違いなかった。


 なぜかは解らないが、酷く蔑まれているような気がした。同時に、僕は覗きをしていたのだ、と顔が熱くなった。


 彼は卒業式の日も、僕と一言も言葉を交わそうとしなかった。


 そのころには、指先のささくれはすっかり治っていた。 


 僕は大学を出てアートディーラーになった。晶の作品に出会うことがあれば、僕は真っ先に買取を申し出るだろう。

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