そしてわたしは肉が食べられなくなった
西しまこ
痛み
わたしは肉が食べられない。
最近は、ベジタリアンとかヴィーガンと言えばすぐに分かってもらえるのでよかったなと思う。余計な説明をしなくていいというのは安楽だ。
「美咲、ごはん食べに行こう」
「あ、わたし……」
「分かっているから、だいじょうぶだよ」
仕事帰りに同僚で友だちの幸とごはんを食べて帰る。あれこれおしゃべりして、とても楽しい。
「美咲、ベリタリアンなのはいいけど、もっと食べなきゃだめだよ。家で、ちゃんと食べてるの?」
「うん、ありがとう」
にっこり笑う。
でも、ほんとうは家ではほとんど食べていない。栄養剤とかゼリーとかで栄養を補っている。わたしは食べるのが苦手だ。
幸に手を振って別れ、家に帰る。一人の家。安心出来る、狭いワンルームの部屋。
ここでは怖いことは何もない。
台所はきれいだ。料理をしないから。物も少ない。所有するのが苦手だから。
ベッドと数着の服と、化粧品などの小物だけ。
外で猫の鳴き声がして、ふいに息が苦しくなった。
過呼吸だ。
わたしはビニール袋を口にあて、呼吸を整える。だいじょうぶだいじょうぶ。そのうちおさまるから。だいじょうぶだいじょうぶ。猫の声はしなかった。あの猫はもういない。
痛くない。ここにはわたしを殴る人はいない。痛くない。だいじょうぶだいじょうぶ。
わたしはいつも殴られていた、父に。服に隠れるところを。
父がどういうタイミングで怒り出すが、まるで分からなかった。きょうだい三人の中で、なぜかわたしだけが殴られた。痛かった。弟や妹が同じことをしても怒られないのに、わたしだけが怒られた。どうして怒られるのか、そのときも分からなかったし、今でも分からない。わたしは父の実の子どもではないのかと思ったけれど、やはり実の子どもだった。
ある日、父にひどく殴られた。定規でやられたので、ほんとうに痛かった。泣いていたらうるさいと家から閉め出された。
そのとき、いつもこっそり餌をやっているトラ猫が足下にすり寄ってきた。
「とら!」
ふわふわの毛、あたたかい。顔をとらにすり寄せていたら、気持ちが少しずつ、落ち着いてきた。
だけど、急に荒々しい気配ととらの悲鳴がした。
何が起こったのか分からない。
隣には鬼の形相の父がいて、とらは投げ捨てられていた。そこに、車が通りかかり、とらはわたしの目の前で轢かれてしまった。
血。はらわた。動かない、毛。飛び散る赤。内臓。閉じられた目。
息が出来ない。
目が熱い。
とらをたすけに行こうと思ったら、乱暴に引きずられた。
いたい。何もかもがいたい。
決して治ることのない、心のささくれ。
了
そしてわたしは肉が食べられなくなった 西しまこ @nishi-shima
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