やさぐれ男と、ささくれ女
ninjin
第1話
「克己くん、どうしたの? 久しぶり来たと思ったら、暗い顔して、何かあった?」
カウンターの中からいきなり声を掛けられて、俺はハッとして顔を上げ、思わず右手で自らの両の頬を摩ってみた。
「ああ、マスター。 いや、何でもないッス」
呟くようにそう答えた俺は、随分と薄くなったジャック・ダニエルのオンザロックの残りを一気に煽る。
そして、
「もう一杯、今度はストレートで」
そう言って、空いたグラスをTomyさんに差し出した。
「おいおい、普段ビールしか飲まないのに、今日は最初っからウィスキーで、然も次もう4杯目でしょ、大丈夫?」
大丈夫かと問われると、それはもう大丈夫な訳はないが、答えとしてはこう応えるしかない。
「大丈夫ッス。 お金ならちゃんと有るッス」
「・・・いやいや、そういうことじゃなくってさ・・・」
Tomyさんはそう言いながら、受け取ったロックグラスにそのまま、メジャーカップで計りもせずにジャック・ダニエルをたっぷりと注ぎ入れた。
「これ、私からの奢り。 でも、一気に飲んじゃダメだよ。 せっかくの私の奢りなんだから、味わってゆっくり飲んで」
「あ、はぁ・・・」
Tomyさんから渡されたグラスにチビリと口を付け、口の中で転がすこともせず、そのままそれを喉に流し込んだ俺は、胸の辺りがカッと熱くなるのを感じて、思わずくぅっと唇の端を歪ませた。
「ははは、今チェイサー用意するから、ゆっくり飲むんだよ。 後で話したくなったら、何があったか話してくれればいい。 私ももうすぐ上がって、そっちのカウンターに行くからさ」
俺が冷たい水のグラスを受け取ると、Tomyさんはそのまま俺の席から少し離れたカウンターのカップル客の相手をしに、その場を離れた。
(ゆっくり飲めって言われてもなぁ・・・)
そう思いながらも俺は、次のひと口もチビリとグラスに口を付け、しかし今度はそのまま飲み込むことはぜず、上顎と喉の手前でゆっくりとそれを滑らせ、それからじんわりと染み込ませるように喉の奥へと導いた。
鼻腔から抜けるメープルシロップのような甘い香りと、少し苦みをまとったキャラメルのような味わいが、俺の荒んだシナプスをゆっくりと解していく・・・。
◇◇◇◇
ソレは今日の通知で、32社目だった。
『片岡 克己さま
この度は、数ある企業の中から弊社を~云々』
ソレ、つまり『ご期待に添えない結果』メールも、最初の10社くらいまでは何とか全文を読むことが出来たが、それ以降はその『ご期待に添えない結果』という文言だけを探すことだけがルーティン化していた。
そして、その文言を見付けるや否や、そのメールを閉じる。
不採用なら不採用で、それは構わない。
そもそも15社を超えたあたりから、期待なんてしちゃいないのだ。
それでも、もし俺が『合格』『採用』を期待しているとしたら、それはそれで俺がバカみたいではないか。
毎回、毎回期待に胸膨らませてメールを開く俺、そんなのは俺じゃない・・・。
そうは言うものの、流石に今日は堪えた。
本日の不採用通知を受け取った後直ぐに、高校時代の友人隼人からLINEメッセージを貰った俺は、折り返し電話を掛けてみた。
――おう、久しぶり。 元気か?
「ああ、元気っちゃあ元気だけど。 なんか用か?」
――用っていうかさ、今度の正月、お前、帰って来るか?
「何だよ、藪から棒に。 何かあるのか?」
――いやさぁ、皆の大学卒業前にさ、初の同窓会を開こうって話になって、地元に残った連中で盛り上がってるんだけど、お前も来るよな?
「・・・・・・・・・」
俺は実際、今回の正月の帰省を躊躇っていた。
11月の中旬を迎えても未だ就職先の決まらないまま、正月帰省しても肩身の狭い思いをして生家で過ごすことを考えると、今ひとつそんな気が起こらなかったのだ。
――どうした? 黙り込んで。 まさかとは思うけど、お前、留年するとかじゃないよな?
「いや、留年はしないだろうけどさ・・・」
――就職、決まってないとか、か?
「あ、いや、まぁ・・・、そんなとこだ」
――そっかぁ、それはそれで辛いなぁ。 でもさ、今時そんなに気にすることでも無いだろ。お前ならそのうち見付かるって、良いところがさ。
「とは言ってもなぁ、、もう今年も残り少ないしなぁ・・・。 ってことだからさ、俺はその同窓会、キャンセルでいいわ」
――えーっ、何でだよ。 ってかさ、そんなに気にすることかよ、就職なんてさ、いつだって出来るって。
「いや・・・。 ところでさ、隼人、お前とか他の連中はどうなのよ? 就職決まってんのか?」
――あ、ああ、俺は決まってるっていうかさ、親父の会社。 他の連中も、俺の知ってる限りじゃ皆決まってたかな。 浪人して1年遅れの連中はまだ後1年あるし、同窓会には参加するって。
(そうなんだ・・・。 いよいよ顔合わせ辛いじゃないか・・・)
――お前が来ないと、半分くらい盛り上がりに欠けちまうんだけど・・・、そういうことなら、仕方ないか・・・。 でもさ、まだ時間あるからさ、帰る気になったら連絡くれよ。 何ならさ、飛び入り参加でも構わないって。
「・・・・・・・・・」
――それじゃ、大変な時に、悪かったな。 また連絡するよ。
「あ、いや。 お、おう」
電話は切れた。
何と言えばいいのだろうか。
余りにもアッサリが過ぎるとでも言うべきか。
案外に隼人は大人しく引き下がって、拍子抜けというか、何というか、俺を気遣う大人な対応・・・。
無理に絡んで来たり、未だに就職先が決まらない俺を揶揄うでもなく、ある意味俺を傷付けまいと・・・。
否、正直に言おう。
本当は、もう少し粘り強く、面倒臭くてしつこいくらいに同窓会に誘って欲しかったのだ、俺は。
昔は、もっと馴染んでいたというか、ツーカーの仲だったというか、俺がボケると隼人がツッコみ、笑い飛ばして揶揄い合って、女の子のことと将来のことを、知りもしないで真剣に語り合ったんじゃなかったか?
32社目の不採用通知。
そして、大して求められてはいないような、同窓会への参加。
薄々は感じていたさ。
俺は・・・
俺は・・・
どうせ、俺なんか・・・
Tomyさんが言った。
自分が何者か、そんなことは誰にだって分かりはしない
でも、自分には分からなくても、
だから、自分探しなんてしなくていいんだ
だって、君も僕たちも、確かにここに居るんだから・・・
そんなことだったような気がする。
◇◇◇◇
3年なんてあっという間だ。
あれから半年後、大学を卒業した後、田舎には帰らず結局東京に残った俺は、私立高校の臨時教諭の職を得て、化学教師として働いている。
教師としての仕事を始めてから、既に2年以上の月日が経つが、本採用になった訳ではなく、今も臨時教諭のまま、職場に通う毎日だった。
働き始めた当初は、そんなに長くは勤めることもないだろう、そんなつもりで始めた仕事だったが、別に遣り甲斐があったり楽しかったり、生徒たちの成長に喜びを感じたりなど、そんなことがこれっぽっちも有る訳ではなく、ただ何となく、与えられた職務を遂行しているだけで、時間だけが過ぎていった。
朝7時に自宅のアパートを出て、午後の4時に授業を終え、その後2時間翌日の授業の準備をして、学校を後にする。
週に4日はTomyさんのバーに通い、つまらない冗談と皮肉を言いながら2杯ほどビールを飲み、週末は下手くそなギターを弾いて過ごした。
俺、いったい何やってんだろ?
これまでに学校の本採用試験も有りはした。
しかしそれも俺は興味のないフリをして、2度ともスルーしたことに対して、校長からは来年こそ採用試験を受ける様にと言われてはいたが、それもどうしたものかと迷っていた。
また落とされるのが怖いのか、それとも教職に然程興味を持てないからなのか、いや、やはり・・・
どうせ、俺なんか・・・
心の何処かで、そんなことを思っていたに違いない。
そんな毎日を送っていた12月第1週の金曜日、俺はいつもより少しばかり早めに学校を出て、Tomyさんのバーに向かった。
期末試験と3年生の最後の進路指導で教職員連中は殺気立っており、臨時教諭の俺としては、ただでさえ普段から居心地が好いと思ったことのない職員室の空気が、更に嫌な熱量を帯びている気がして、早々にその場を退散することにしたのだった。
途中、先週ギターの第4弦が切れかかっていたことを思い出した俺は、駅前の中古レコードと楽器を扱う店に寄って、弦を2セット購入した。
張り替えるなら、全部張り替えた方が良い。
下手くそな割に、そんなところには拘る俺だったが、だからといって音の聴き分けが出来る訳ではない。
何となくだ、何となく。
そうして俺は、購入した弦を鞄に仕舞い、店を出ようとしてふと足を止めた。
何気なく見遣った中古レコードが並ぶ棚に、思わず目を奪われたのだ。
白いバスローブを纏い、白いシーツのベッドかソファーに腰掛けて、薄いブルーのグラスを
『LADY BOUNCE 松原みき』
その美しいフォルムに興味を惹かれた俺は、フラフラと歩み寄り、そのジャケットを手に取り、そのまま再びレジに向かった。
4,400円、也。
冬のボーナスが出たばかりだ。大したことは無い。
しかし、LPレコードのプレーヤーなんてものは持っていない俺が、こいつをどうやって聴けばいいのだろうか・・・。
そういえば、Tomyさんの所には確か、昔のレコードプレーヤー在ったよな。
確か少し年配の常連客が、昔のジャズのレコードなんか持ち込んで、掛けて貰っていたよな・・・。
いつもよりずっと早く学校を出たにも拘らず、寄り道をしてしまったせいで、店の前に辿り着いたのは、普段よりも遅い、午後8時に近かった。
階段を降り、ビルの地下に在る重たい木製のドアを押し開けると、薄暗い店内から、重厚なベース音の響くジャズミューシックが身体を包み込む。
俺は入り口付近で上着のコートを脱ぎ、それを左の腕に引っ掛けて、いつものカウンター席に向かおうとした。
一歩踏み出そうとした時、「ちょっと」という小声と同時に、右腕を掴まれた。
驚いてその声の主を見ると、そこにはTomyさんが居て、再び小声でカウンターを見遣りながら、「克己くんにお客さん来てるよ。 綺麗な女の人だけど、知り合いかい?」、そう訊いてきた。
俺は目を細めてカウンターに独り佇むその女性の様子を窺ってみたが、こちらに気付く様子もない彼女は振り返ることもしないので、斜め後ろからの姿を見ても、それが誰なのか分からなかった。
「マスター、彼女、俺の名前を言ったんですか?」
「ああ、そうだよ。 『片岡さん来てますか?』って。 だから私もこの店で知っている限り片岡って苗字は君しか居ないから、片岡克己くんのことですかって訊いたら、『そうです』って言うもんだから、まだ今日は来てませんけど、もうすぐ来るかもしれません、そう言ったんだ」
別にオカシイことは無い。俺を訪ねて女性がやって来るってこと以外は。
しかし、このTomyさんのモノの言い方には、何やら少し問題を孕んでいることが読み取れる。
「それで?」
「それがさ、彼女、『待たせて貰います』って言ってからここ小1時間、何も頼まないで、すっと本を読んでるんだ。 しかも、それが英語の本さ。 いや、英語かどうかも分からない。 ひょっとしてフランス語かイタリア語かも知れない。 でも兎に角さ、アルファベットが並んだ何かを読んでいるんだよ」
そこで俺はやっとそれが誰なのか理解した。
「ああ、なるほど。 分かりました、彼女が誰なのか」
「そう? それなら良かった。 私はちょっとマズい人かもなんて思ってしまって、だから先に声を掛けたんだ。 知り合いなら問題ないさ。 克己くんが来るまで注文を待っていただけなんだね、きっと」
それまで硬い表情だったTomyさんの頬が少し弛んだのだが、俺は右の片目をワザと引き攣らせながらこう答える。
「いえ、マスター、恐らくそういう訳じゃ・・・」
◇◇◇◇
「こんばんは、松坂先生」
俺はそう言いながら松坂尚美の席の隣の椅子を引いた。
何故だか彼女は少しムッとしたような表情を浮かべ、それから俺を避けようとしてか、それとも俺が席に着きやすいようにか、何気に俺から遠ざかるように身体を
松坂尚美は同じ高校の英語教師で、歳は俺よりひとつ上だったが、勿論正規の教員だ。
臨時採用の教師は、俺ともう一人、古典のお爺ちゃん教師だけだった。
そして、そんな彼女と俺は、この約2年半、殆ど会話らしい会話なんてしたことが無い。
確かに初めて会った時、その容姿の美しさには正直、驚かされた。
それは認める。
身長は恐らく170cm近くあり、細身のスタイルながらメリハリのあるボディライン(しかもそのボディラインを強調するかのように、いつもタイトなスーツを着こなしていて)、顔立ちは西洋人とのハーフみたいに二重瞼で鼻筋は細くて高い。
性格はというと・・・、それはよく分からない。
まぁ考えてみると、話したこともないのだから当然といえば当然なのだが、俺とは違ってもの凄くドライな感じは伝わってくる。
ドライといっても、冷たいという印象ではなく、生徒たちに人気も有りそうだったし、進路指導などでも生徒や保護者、それに校長、教頭からの信頼は厚いものがあった。
若くして教科主任、自立してサバけていて、格好が良く、他人に
傍から見ていると、そんな感じだ。
しかしながら、どうも俺は彼女が苦手だった。
苦手というより、あまり相性が良くないと感じる部分が多かった。
いつの頃からか、皮肉と嫌味な冗談しか言わないやさぐれた性格になっていた俺は、そんな俺を相手にしてくれる女も居なければ、ましてやこんな美人で真面目で出来る女を絵に描いたような女性と、会話の糸口を見付けることさえ難しいと思っていたし、話し掛けてあからさまに鼻で笑われ嫌われるくらいなら、最初から関わりを持たない方が身の為だとも思っていた。
実際に今だって、あまり俺のことを良くは思っていなさそうな素振りだし。
それでも、何かしらの用事があってここに来た訳ではあるのだろう。
「ええと、それで、何か俺に御用でしたか?」
恐る恐る訊ねる俺に、彼女は溜息を吐きながら自らのバッグからクリアファイルを取り出して、俺に渡してきた。
「片岡さん、これ。 月曜日提出の科目成績表。 机の上に置きっ放しでしたよ」
言われて思い出した訳ではない。
月曜に提出しなければならないことは覚えていた。
明日土曜日か、明後日日曜日にやれば良いと思っていたのだ。
ただ、持ち帰るのを忘れていた。
それだけのことだ。
しかし、明日でも明後日でも、部屋で鞄を開け、持って帰るのを忘れたと気付いた時点で、学校まで取りに行けば済む話ではないか。
溜息を吐かれてまで、届けて欲しいものではない。
それでもそこは大人らしく振る舞わなければ、角が立つのは間違いない、それくらいのことは俺にだって分かる。
「ああ、それは済みませんでした。 わざわざこんなところまで来て頂いて、申し訳ございません。 でも、ありがとうございました、助かりました。 お礼と言っては何ですが、何か1杯お飲みになりますか? 俺、奢りますよ」
「いえ、いいんです。 それでは、私はこれで」
そう言って席を立とうとする彼女に、俺は面食らった。
だってそうだろう、何も注文せずに1時間居座った挙句、用が済んだらそのまま帰るって、そんなこと有り得るか?
百歩譲って、俺のことが大っ嫌いで隣に座るのも一緒に何かを飲むのも嫌っだとして、それならそれで、こんなところまでそんなつまらないものを届けに来なければいいだけの話である。
まぁいいだろう、どうせ教頭か誰かに言われて、ここまで届けにやって来たのだろう。
教頭には2回ほど、店の前でバッタリ遭遇し声を掛けられたことがある。
その時につい、ここの店に入り浸っていると口を滑らせ、本当のことを言ってしまっていた。
嫌なお使いをさせられた、そんな彼女に腹を立てても仕様がない。
そしてそれ以上何の言葉も見付からない俺は、ただ黙って彼女を見送るしかなかった。
彼女が席を立ち、歩き出そうとした瞬間、一瞬彼女の視線が、俺の鞄と先ほど買ったLPレコードを置いた彼女と反対側の隣の椅子に向いたような気がしたが、特にその時は気にもしていなかった。
「あれ? 彼女、帰っちゃったの?」
「ええ、なんかスミマセンね。 お騒がせしちゃって・・・」
「いや、君が謝ること無いし、別に大した騒ぎになった訳でもないよ。 ただちょっとお店がピリピリしただけさ。 注文を取りに行った店の子にもさ『結構です』しか言わなかったみたいだし、ちょっと変わった子なのかな?」
「いや、変わってるっていうか・・・」
俺は何と答えて良いか分からず、言葉を濁すことしか出来ない。
「ああいう子って、何だろう、ストレスの多い生活をしてるか、それとも昔のトラウマかなんかで、心を閉ざしてるか、そういったことが多いんだよね・・・。 まぁ、どっちにしても、寂しがり屋で繊細なんだけど、それを自分で理解してるから、却って余所余所しい態度とか取ったりしがちなんだよね。 周りから見るとさ、ちょっとささくれてるみたいに見えちゃうけど、本当はそんなことないんだよ、ああいう子って・・・」
「なんㇲか、マスター。マスターって心理学者か何かですか?」
「あ、言ったこと無かったっけ? 私、元々、大学では心理学専攻。 といっても、落ちこぼれでねぇ、指導教官のお情けで卒業できたんだけどね、ははは。 さて、ところで、今日は何飲む? いつもの生ビールで良いのかい?」
「あ、いや、今日は、ジャック・ダニエル、ストレートで、チェイサーも付けてください。 それにしても、マスターが心理学専攻だったなんて、俺、初めて聞きましたよ。 でも、言われてみると、何だかそれっぽいですよね、分かる気がする」
「そうかい? 言ってなかったか。 だけどさ、ジャック・ダニエル、ストレートなんて、ええっと・・・3年ぶりかい?」
「よくそんなことまで覚えてますね。 でも、確かにそうですね。 そういえばマスター、話、全然変わりますけど、ここって確か、レコードプレーヤーって有りましたよね? 掛けて欲しいLPレコードあるんですけど、良いですか?」
俺は買ってきた松原みきのアルバムを袋から取り出し、Tomyさんに手渡した。
「懐かしいねぇ、どうしたのこれ?」
俺はジャケットに一目惚れしたとは言えず、「ただ何となく目に留まって買っちゃいました」とそれだけ答えておいた。
「そっかぁ、にしても懐かしい。 これならここでも掛けられるよ。 元々彼女ってジャズやってた人だし、歌唱力は抜群だったし。 でも残念ながら・・・」
「残念ながら?」
「なんだ、本当に知らないで買ったんだね。 彼女、もう亡くなっちゃってるんだよ」
「えっ、そうなんですか?」
俺は驚いて訊き返した。
「まぁ、いいや。 ウィスキー注いだら、直ぐ掛けるよ」
レコード特有の少しばかりくぐもった音質が、如何にもノスタルジックな雰囲気を醸し出す。
そして松原みきの歌声は、確かに素晴らしかった。
ちょっとばかりハスキーながら、それでいて伸びのある高音は透明感があり、アンニュイと爽快な感じを心地好く行き来している。
その歌声は、その洗練された懐かしくも新しい楽曲、そして鼻を抜けるジャック・ダニエルの甘みとほろ苦さも相まって、何とも甘美な酔いの世界へ俺を誘ってくれるのだった。
曲に耳を傾け、アルコールに浸りながら、携帯のウィキペディアで『松原みき』を調べてみると、確かに既に20年近く前に亡くなっていた。
そうとも知らずLPレコードを購入し、今こうして彼女の曲を聴きながらお酒を飲んでいるのは、どうにも不思議としか言い様が無かった。
LPの曲が1巡すると、俺はもう一度掛けて貰うようにTomyさんにお願いをして、2杯目のジャック・ダニエルを注文した。
そして、2巡目最後の曲を聴き終り、2杯目のグラスを綺麗に空けた俺は、ここ数年感じたことのない幸せな気分で、帰途に就いたのだった。
翌日、目覚めると直ぐに楽天市場でレコードプレーヤーを購入した。
翌日曜日、プレーヤーは自宅に届いた。
21,800円、也。
この先、レコードを買い漁ることになるかも知れない、そう考えると、ボーナス直後とはいえ、先が思いやられる・・・。
◇◇◇◇
月曜日の朝、自分が担当する化学のクラス担任それぞれに、2学期の成績表を手渡して回った。
そして最後に、2年3組の担任である松坂尚美の席に向かい、先週末と同じ台詞で、しかし出来る限り抑揚無く「ありがとうございました、助かりました」と、それを渡した。
金曜日の晩のことを根に持っていた訳ではない。
単純に関わりたくなかった。
今まで通り関わらなければ、波風も立つ訳ではなく、どうということは無いのだから。
成績表を手渡し、その場を離れようとしたその時、以外にも彼女から呼び止められる。
何か小言でも言われるのかと思ったが、そうではなかった。
「あの、片岡さん、後で少しだけ、時間、頂けないかしら?」
「はい?」
「ですから、お時間の都合、付きますでしょうか?」
「ああ、良いですよ。 昼休みとか゚放課後で良いですか?」
「出来れば放課後に少し・・・」
「わ、分かりました。 では放課後、声掛けてください。 多分今日も4時過ぎには職員室に戻ってますから、その時に」
「はい、そうさせて頂きます」
俺は1限目の授業の為、そそくさと職員室を後にした。
冷たい廊下を化学室に向かいながら思った。
やっぱり放課後に小言を言われるのだろうか・・・。
放課後、予告通りに彼女に声を掛けられ、職員室の隅の方へ引っ張り出された。
「片岡さん、ひとつ、お伺いしたいことがあるのですが、宜しいでしょうか」
「は、はい、何でしょうか?」
ほぉら、来た。
俺の返事如何では、そのことで詰められるに決まっている。
「この間あのお店で持っていらしたあのレコード、あれって『松原みき』かしら?」
「へっ?」
思わず声が裏返って、可笑しな発声をしてしまう。
俺が変な声を上げたものだから、彼女は周りを気にするように職員室を見回したのだが、他の教員たちは学期末、最終進路指導の慌ただしさで、こちらに気を留めている者は一人も居なかった。
「ええと、仰る通り、あれは確かに『松原みき』のLP盤ですけど・・・、それが何か?」
流石に俺も、レコードをネタに小言を言われる想像はつかないし、話の方向性が全く読めない。
すると彼女は、今度は少し弾んだ調子の声で、
「お好きなんですか? 松原みき。 それとも、シティポップ好きなんですか?」
そう訊ねてきた。
「ま、まぁ、好き、ですねぇ。 松原みき、良いですよね」
俺は、
嘘は吐いていない。
3日前から好きになった。
何ならレコードプレーヤも買ってしまって、古いレコードアルバムもこれから買い集める気満々だ。
いや、それよりもだ。
いったいどこに向かっているんだ、この会話は・・・
そして、訳も分からず、向かった先、それは、
Tomyさんのお店だった。
◇◇◇◇
彼女の方から言い出したのだ。
先週のあの店に連れて行って欲しい、と。
彼女を酔わせてどうにかしようなんて、そんなことはこれっぽっちも考えていなかったし、今もそんなつもりは微塵もない。
彼女が勝手に酔っ払ってしまって、何故か今、彼女は俺の部屋のベッドに横たわっている。
いったい彼女は何を考えているんだろうか。
腹立たしくさえ思えてきた。
俺が手を出さないとでも?
そう、俺は手を出さない。
彼女の話を聞いて、手を出せない・・・。
彼女が『松原みき』に出会ったのは、4年ほど前に遡るらしい。
就職して1年目で、大学卒業の時に別れた彼氏とのことを引きずっていたと、彼女は言った。
英語教師の彼女は、海外のYouTubeサイトなんかもよく視るそうで、そこで初めて視聴した『真夜中のドア Stay with me』という曲に衝撃を受け、涙したらしい。
まるで自分のことを歌っているみたいな歌詞だと。
そして、今でもその曲を聴くと、まだあの頃の思い出を引きずっているのだと、でも、この曲が好きで堪らない、そうも言った。
当時海外、特にアメリカを中心にして、80~90年代初頭の日本の音楽、所謂シティポップが流行り始めていたそうだ。
そういえばここ最近、国内のSNSシーンでも、そういった曲が流れていることが少なくはないことは、俺も何となくは知っていた。
しかしそんなに以前から海外で流行っていたとは思いもしなかったし、海外の反応と比べると日本国内での需要は、せいぜい懐古主義に似た懐メロ程度の扱いに過ぎない。
その後、松原みき『真夜中のドア』以外のシティポップと呼ばれる曲を聴き漁った彼女は、そのメロディの懐かしい筈なのに新鮮で、描写が過ぎるほど繊細な歌詞に魅了され、いつしかその歌詞を英語翻訳したいと思うようになったと言う。
日本語の歌詞を、そのニュアンスが伝わるように英訳するのはかなり難しいらしいが、彼女はそれを学校以外でのライフワークにして日々を過ごし、因みにまだ完璧とはいえないまでも、8曲を英訳したそうだ。
英語なんてものは、化学記号のアルファベット以外は全く分からない俺にとって、彼女の取り組みは尊敬以外の何物でもないし、いつまでも彼女を縛り付ける『真夜中のドア』という曲と昔の彼氏に、少なからず嫉妬の念を覚えてしまった。
おや? 嫉妬って・・・
Tomyさんが、今週も俺が来店することを見越して、昨日自宅から持ち込んだという『松原みき』『角松敏生』『竹内まりあ』『稲垣潤一』『杏里』『阿部恭弘』・・・その他色々なアーティストの曲を収録したオリジナルCDを流してくれると、彼女のアルコールの摂取量は俺の制止も聞かずに勝手に増えていき、饒舌になり、時に涙し、嬉しそうに笑い、そして遂には・・・、こともあろうに、酔い潰れてしまったのだ。
やはり、印象的だったのは、『真夜中のドア Stay with me』を聴くときの彼女の横顔・・・。
何処か遠くを見詰めるような、彼女の潤んだ瞳には、いったい何が映っていたのだろう・・・。
そして思う。
ささくれてなんか、いないじゃないか。
酔い潰れてしまった彼女は、俺が何度自宅の住所や電話番号を訊いても教えてくれない。
答える気が無いのか、答えられる状態ではないのか、それは分からない。
ホテルで休ませることも一瞬考えたが、やっぱりそれは止めにした。
俺が正気を保てる保証はどこにもない。
自宅アパートの味気も色気もないLED電球に照らされた部屋の方が、却って安全に決まっている。
翌日の仕事のことも考えず、バカみたいに飲み過ぎて2人、俺の部屋に辿り着いたのは、深夜1時を回っていた。
部屋に入り直ぐさまエアコンの暖房と加湿器を起動させ、彼女を俺のベッドに寝かせて毛布を掛けてから、俺はコタツに潜り込む。
この様子では、俺は何とか出勤できても、彼女の方は無理・・・、だろうな。
さて、どうしたものか・・・。
そんなことを考えているうちに、俺にも睡魔が襲ってきて、力なく、俺は堕ちていった。
煌々と照らされたLED電球の下、気を失う寸前に彼女の呟くような掠れた声を聞いた。
「ケン ゴ・・・」
昔の彼氏の名前だろうか・・・、いや、きっとそうなのだろう・・・。
◇◇◇◇
朝目が覚めて、着けっぱなしだった腕時計を確かめると、時計の針は丁度6時を指していた。
目覚まし時計のセットも無しで、あの状態からこの時間ピッタリに起きれるなんて、正に奇跡だ。
・・・・・・・・・
残念ながら彼女にはそんな奇跡は起きなかったらしい。
俺はコタツから這い出ると、静かにシャワールームへと向かう。
シャワーの音がしないように、しっかりとキッチンと部屋を隔てる引き戸を閉め、それから熱いシャワーをサッと浴びた。
シャワーから上がり、出勤用のスラックスとワイシャツに着替えても、彼女が目覚めることは無かった。
ピクリとも動かない彼女のことが心配になり、少し顔を近付けてみると、どうやら呼吸はしているようで安心した。
俺はメモ帳と部屋の鍵をテーブルに置いて、部屋を出る。
『おはようございます。
昨夜は遅くまで、お疲れ様でした。
学校には勝手ながら、
俺の方から松坂先生の実家のお父上のフリをして、
今日、娘は自分で電話も出来ないくらいの体調不良だから休ませてもらうって、
そう電話しておきました。
目が覚めたら、シャワーは適当に使ってください。
バスタオルは、リビングのタンスの引き出しに入っています。
これも適当に使ってください。
使った後は、そのまま脱衣所の洗濯機に放り込んでおいてくれれば良いです。
それから、帰る時は鍵を掛けて、その鍵は、郵便受けに入れておいてくれれば結構です。
それでは、行ってきます』
昼休み、案の定、彼女から俺の携帯に電話があった。
――ほんっと、ごめんなさい。 私ったら、もう、ほんとに、なにやってるのかしら、ご迷惑おかけしちゃって・・・。
この慌てぶりからすると、今しがた起きたようだ。
「いえ、迷惑だなんて、気にしないでください。 それより、俺の方こそ、ご自宅まで送り届けられずに、そんなむさ苦しい俺の部屋なんかに寝かしてしまって、申し訳ない。 まだ部屋ですよね? シャワーでも浴びたら、コーヒーくらいは有りますから、キッチンの戸棚から取り出して貰って、ゆっくりしてから帰ってください」
――い、いえ、そんな・・・。でも、そう言って頂いて、ありがとうございます。
「良いんですよ、俺の方こそ、楽しくて嬉しかったんです。 何だか久しぶりに人と話をした気がして」
――そう、なんです、か?
「ええ、そうなんです。 だから、明日、また元気にお会いしましょう。 それから、また今度一緒に、Tomyさんの店に行ってもらえませんか? あ、でも次は程々に、それか週末に」
俺は自分で自分の言葉に感動していた。
電話口とはいえ、Tomyさん以外の人と、ここ数年まともに喋ったことが無かったのに、しかも相手は女性なのだ。
女性相手に、『また今度、一緒に――』なんて言ってる俺が、自分で自分を信じられないくらいだ。
――こんな迷惑な私ですけど・・・、私も楽しかったから、もし私なんかで良ければ、また、ご一緒させて貰って良いかしら・・・
「はいっ、もちろんっ」
◇◇◇◇
気付いたんだ、俺。
前にTomyさんが言ってたこと。
俺が何者かなんて、そんなことはどうでも良い。
彼女の目に、俺は映っていたんだ。
ほんの少しだけかもしれないけど、彼女は俺のことを見ていてくれた。
だから俺は確かにここに居るんだよ。
ケンゴさんにはまだ敵わないかも知れないけれど、
君の瞳にもっと、
俺が映るようになったら良いな。
◇◇◇◇
昼休み終わりのチャイムが、響き渡る。
おしまい
やさぐれ男と、ささくれ女 ninjin @airumika
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