わらわと魚

ゆーき

わらわと魚


      1


 雨上がりの森が朝日に照らされ透き通っている。

 森は静かで風もなく、獣の声もまだしない。そんな穏やかで静謐な空間にわらわはいた。

 自然に溶け込むようにひっそりと。世界と調和するかのようにゆったりと。

 やがてわらわは、ひんやりとした空気をゆっくりと吸い込んだ。清浄な空気が胸を満たし、それは次第に頭の中を透明にする。何度かそれを繰り返すと、空気が全身に行き渡り、寝ぼけた体を呼び起こした。

 最後にもう一度息を吸う。

「あたらしいあさがきた」

 わらわが呟くと、沈黙を守っていた森が動き出した。

 木々が風に揺られ、小鳥たちが枝に止まる。獣がガサゴソと薮を揺らして、虫の声が響き始めた。

 森の朝は、わらわを中心にのんびりと、しかし確かに始まった。

「お腹空いたなあ」

 わらわは緩慢な動作で目を擦ると、のそのそと森から消えていった。


      2


 軽い朝食を済ませたら散歩の時間。わらわのいつものルーティン。

 のどかな空気に豊かな自然。と言えば聞こえは良いが、元は田んぼや畑だったそれらに繁茂した草花が、この土地が今や人の手を離れてしまった事実を示している。

 それでも見渡す景色にまばらに生えた住宅には細々と生活を続ける人の姿があり、手が加えられた現役の田畑もあちらこちらに見て取れた。

 わらわは、そんないつもと変わらない景色をお決まりのコースでのんびりと歩く。

「わらわちゃん、おはようございます」

 すれ違った老爺が挨拶をする。

「おはよう」

 挨拶を返しながら気付く。

 老爺の服は軽装で、朝も早いと言うのに土に汚れていた。

「畑かの」

「ああ、昨日の雨でな、変わりがないかちょっと見てきたんでさ」

 見れば靴の端々にも濡れた土がこびりついていた。

「おかげさんで、野菜もすくすく育っとりまさ」

「そうか」

 老爺の言葉をわらわは淡々と返す。

「畦で滑らんようにの」

 そう言うと、わらわは濡れた地面に視線を向けて、水の流れを辿りながら再び散歩のコースに戻っていった。


      *


 雨水の染み込んだ地面から溢れた水を辿ると、流れの終着点となる水溜まりに行き着いた。

 1mほどの円を縁取ったその水面は、ここに至るまでに不純物を取り去ってきたかのようで、まるでこの場に存在していないかのような透明さを感じさせた。

「…………」

 しばらく水溜まりを見つめていたわらわは、白い着物の袖口を探り手のひら大のがま口を取り出すと、ぱかっとその口を開いた。

「ふむ」

 がま口の中身は雑多で、小銭や飴、古い映画の半券などが入っており、持ち主の性格をよく表していた。

 わらわは、あれでもないこれでもないとがま口を物色すると、小物や紙類に紛れるように入っていたそれを指先で摘んで取り出した。

 暖色を基調とした薄い包装がされたそれは、市販の紅茶パックだった。

 わらわは紅茶の包装をぺりぺりと剥がし中身を取り出すと、糸の繋がったパックを自身の目の前にぶら下げて、それをそのままゆっくりと水溜まりに沈み込ませた。

「…………」

 水面に小さな波紋が生まれた後、じわりと紅茶のパックが水に侵食されて色合いを深めていく。

 沸騰したお湯とは違い、水を吸った茶葉からすぐに色が滲み出ることはなく、パックはただ乾いたスポンジのように水を吸収していった。

「…………」

 じわりじわりと重みを増す指先を、わらわはただ黙って見つめていた。

 その様子は傍から見れば、水溜まりに釣り糸を垂らしているような奇妙な姿に見えるだろう。もしくは根気よく獲物を待ち続ける釣り人のように感じただろう。

 その印象におおよその間違いは無い。

 実際、わらわは待っていた。

 それが現れるのを。

 ただ違うのは、待っている相手は獲物ではなく、来訪者であるということだった。

「……………………」

 どれだけ待っただろうか。不意に、


 ゆらり、


 と水中でなにかが揺らめいた。

 揺らぎは水面に小さな波紋を作り、水際にしゃがみこんだわらわの足下まで一筋の波を届かせた。

 それを合図にわらわが紅茶のパックを揺すると、水の染み込んだ茶葉から薄い色彩が滲み出した。色彩は、水かごに絵の具を垂らしたように、ゆっくりと清水の中を広がった。

 すると、さっきまで透明だった水溜まりの中に、ぼや、と影のようなものが映り始めた。

 それは魚の影のように見えた。大きさは小ぶりな鯉くらいのものだろうか。

 しかし、その認識にはどこか違和感があった。

 幅の広い水溜まりには違いないが、その深さは精々、手の爪が隠れる程度だ。とても魚が泳げるような深さではない。

 だが現にその魚───のような影は、まるで池の中にいるかのように悠々と水溜まりの中を泳いでみせた。

「今回は思ったよりも早かったの」

 わらわの言葉に魚影が応えた。

「泥土であれば、もっと早くに気が付きますよ」

「せっかくの晴れ着を汚しとうないのじゃ」

「そうですか」

 魚はわらわの言葉に素っ気なく返事をする。

 その姿はやはり透明で、着色された水の中にいなければそこに存在していることにも気付けないだろう。

 そして魚の形をしているということ以外はどんな種類の魚なのか、元がどんな色のどんな鱗をしているのか、皆目見当がつかなかった。

 ただ、魚であるのは確かなようで、それは紅茶色に染められた水溜まりから外に出てこようとする気配はなかった。

「前回は緑茶で、今回は紅茶ですか。次はコーヒーが私の色になるのですか」

「リクエストがあれば応えてやらんこともないぞ」

「では濁りの強い甘酒を」

「甘酒は嫌いじゃ」

「結局あンたの好みじゃないですか」

 魚は不服そうに口をパクパクとしてみせた。

「そう言うな。わらわとて、なけなしの供え物を使うてお主に会いに来ておるのじゃ」

 嘘ではなかった。現にこの村に住む者はもはや両手の指で数えられるほどで、わらわが祀られている祠も既に信仰が失われたに等しかった。

 それでもわらわがこうして現世との繋がりを保ち続けていられるのは、ひとえに『散歩』と称した地域の人々との交流によるものだった。

 周囲の村々から断絶されたこの土地において、土着の信仰は比較的受け入れられやすいものである。加えて、現世のものではない常世の存在が現実に目の前に現れて、かつ自分たちを見守ってくれているという事実は、その存在を信仰の対象とするのにあまりに自然な成り行きだった。

 とは言え、その対象である当のわらわは、ただ自分の庭を散歩しているだけなのだが、村人たちはその行いを好意的に捉え、わらわを祀る祠にもお供え物を欠かさないのである。

 それらは決して多くはなく、豪華でもなかったが、供物に込められた想いは確かにわらわに伝わっていた。

「寂しいものですね」

 紅茶の水溜まりから魚が言う。

「かつては信仰や供物など吐いて捨てるほどあったというのに、今では他人の供物のおこぼれを頂かねば、こうして誰かと会話することもままならない」

「……時代じゃよ」

 わらわは出涸らしになった茶葉から水気を抜くと、元の包装紙に包み直した。

「だからこそ今あるものに感謝して、今いる者たちに報いるのじゃ」

 伏せた瞳の奥にあるのは達観か、それとも諦観だろうか。

 そんな綺麗事にも感じる意見に魚が不服を唱えた。

「…………感謝などしても、いずれ人はいなくなります」

「だから無為である、などとわらわは思わんよ」

「あンたも私のようになれば分かる。誰にも見られず、誰にも気づかれず、誰にも顧みられることのない、そういう存在になって初めて気付く。私たちは誰かに既定されなければ己の形すら保てないほどに透明で空虚な存在だということに。

 そうなってしまえば、どれだけの敬意も畏怖も意味は無い。いずれ消えゆく人の子に感謝など、ただ虚しいだけだ」

「…………」

「あンたもこちらに片足を突っ込んでいると分かっているでしょうに。形こそ維持していても、既に名前も無きものに等しい。まさか『わらわ』などと本気で名乗っている訳ではないでしょう」

 慇懃な物言いをわらわは黙って受け止める。

「信仰を失い、かつての姿に縋る我々が行き着く先は自然そのものだ。私は川や沼地に潜む魚に、あンたは野山を駆ける狐に、そういう取るに足らない存在になるんだ」

 とても耐えられない。そうこぼさなかったのは、魚が己自身を保つための矜恃に違いなかった。

 わらわは知っている。

 この魚もかつてはこの一帯の水害の象徴として畏怖という信仰を一身に受けた存在であったことを。恐怖され、平伏され、崇められ、供物という名の贄を捧げられ、そして技術の進歩で水害が過去のものとなるにつれ、その存在を忘れ去られていったことを。

 今ではわらわの他に彼を顧みる者はいない。また、それが出来る者も既に、わらわただ一人になっていた。

「……………………」

 二人の間に沈黙が下りた。

 互いに言葉を発することはなく、いずれは乾いて消える水溜まりのような儚い存在でしかない自分を、俯瞰するようにただ見つめていた。

 しばらくの時間が過ぎ、沈黙が僅かな痛みを帯び始めた頃、わらわがぽつりと呟いた。

「ただの魚となるのは嫌か」

「?」

「ただの魚であることに意味は無いのか、と聞いている」

 魚は言葉の意味を量りかねた。

 ただの魚になるということは、意思と自我を失うということだ。それは己を見失い、白痴となるに等しかった。そんな存在に意味があるとは到底思えなかった。

 しかし、続けられた言葉は、そんな思いに反するものだった。


「わらわは、ただの狐になってもよい」

「!」


 ありえない発言だった。

 少なくとも魚にとって、一度得た己の存在を手放して、どこにでもいるような取るに足らない生き物に身を堕とすなど考えられなかった。

「わらわ達もかつては炉端に転がる石のような存在だったではないか、それが元の在り方に戻るだけ。なんの不都合があろうか」

「そんな、そんな愚かな考えがありますか。意思を捨て、自我を捨て、己を捨てるなど正気とは思えません。元はと言えば我々に形を与えたのは人間ではありませんか、それを───」

「───捨てればよいのじゃ。信仰などいずれは消えるか、そうでなければ元の形を失う。そんなものをよすがにただ怯える日々を過ごす事が正気の沙汰であるのなら、わらわは狂人でよい」

「…………!」

 言葉を失った。

 黙り込んだ魚を見つめるわらわの瞳はどこまでも透き通っていた。


 荒れ狂う濁流の中を暴れ回り、ことごとくを破壊し、あまねく全てを喰らい尽くす大竜魚。人間が水害に絶望する最中に垣間見たのがそれだった。

 当然そんなものはどこにもいなかった。だが、それは人間たちの共通認識となった。彼らはそれに意味を与え、形を与え、畏怖の象徴として祀り上げた。


 それこそが私だった。


 意味を与えられ、形を与えられ、己の意思とは無関係に祀り上げられた。それが自分という存在であり、己の存在価値だった。

 そこに疑問を持ったことはない。生まれた瞬間から自分はそういう存在であり、そういうものであると認識していた。

 たとえその正体が大竜魚などとは程遠い、ただの魚であったとしても。

 だからこそ、己を捨てるというわらわの言葉は、自身の存在意義を否定するものだった。

「それは…………!」

 溢れ出る怒りのまま、罵声のような反論を投げつけようとして言葉に詰まった。

「それは…………」

 それは、なんだと言うのだろうか。

 私の存在理由は初めから人間に与えられたもので、今やそれを求める者もありはしない。失われた意味に固執し、忘却の果てに消えゆく我が身に苛まれ、その末路が無関係な狐への激情に駆られた八つ当たり。


 これではまるで、

 『祟り』ではないか。


 クフッ、クフッ、クフッ────


 喉の奥から得体の知れない笑みが零れた。

 何に対する笑いであろうか。

 決まっている、私自身に対してだ。

 存在価値を失ったことに気付きながらも、そこに縋り続ける愚かで哀れな己を嘲ることしか今の私には叶わないのだ。

 せめて思慮をかなぐり捨て、感情に任せて祟りを振り撒くだけの気概でもあれば、邪神や呪霊としてこの世に留まり続けられたのであろうか。


 クフッ、クフッ、グブ、ゴブ────


 乾いた笑いは次第に自身の内に潜む妄執に飲み込まれたかのように、粘性を帯びたおぞましいものに変わっていった。

 最早、己の意思とは無関係に溢れる笑い声に魚は恐怖を感じていた。

 吊り上がったまま硬直した口の端から痙攣するように漏れ出す気味の悪い笑い声を、なんとか理性で抑え込もうとするが、体は全く言うことを聞かなかった。

 まるで己の体が気付かぬ内に何者かに支配され、しかし意識はそのまま体の中に取り残されているかのようだった。

 それは生きたまま内臓を抜き取られ、全く別の生き物とすげ替えられるような冒涜的で耐えがたい感覚だった。

「どうした」

 今にも叫び出しそうな心中とはまるで正反対の、淡々としたわらわの声が響いた。

「恐ろしいのか」

 ともすれば無関心かと思うほどの声色に、縋り付くように掠れた喉を引き絞った。

「お、おそろしい……」

「ただの魚になることがか」

「いえ、いえ、己を見失うことがです。己が何者かも忘れ、周囲に憤懣を撒き散らし、あるべき姿を失うことが恐ろしいのです」

 まさに今の自分のように。

「そうか」

 わらわはただ一言そう応えると、目を閉じて黙考した。

 気付けば、水溜まりは時間とともにその体積を大気に放出し、外周を狭めていた。土と水の境界線が薄らと、濃淡のある紅茶色の縞模様に染まっていた。

 沈黙の後、魚は逡巡を巡らせながら消え入りそうな声で呟いた。

「私には出来ない」

 恐慌は既に去っていた。沈黙の中で取り戻した冷静さを支柱に、内心を吐露する。

「正気のまま己を失うことなど、私には出来ない」

「正気を失わせればよい」

「まさか、誰もがそうなれるわけでは……」

 呆れたとばかりに息を吐く魚。

 しかし、続く言葉に思わず呼吸が止まった。


「案ずるな、お主がただの魚になったならば、その時はわらわがお主を食ろうてやろう」

「………なんですって?」


 何を言っているのか分からず、ぽかんと惚けた顔のまま固まる魚を置いてけぼりに、わらわは続ける。

「そんな風に苦しみながら生きてゆくのは辛かろうて。わらわとて、そんなお主を見ていたくはないのじゃ。それならばいっそ、一思いに食ろうてやるのが、せめてもの情けではないかの」

「ま、待て、どういう、一体なにを……」

 うんうんと納得するように頷くわらわを慌てて制止する。

 突然何を言い出すのだ。私を食らう? せめてもの情け? これでは「お前を殺す」と宣言されたようなものだ。

 自棄の心に満たされていた魚もこればかりはたまったものではない。

 この狐は一体なにを考えているのだろうか。正気のそれとはとても思えない。それともやはり、自己の喪失という焦燥に耐えきれず、私よりも先に狂ってしまったのだろうか。

 否、そうではなかった。わらわは至って正気であった。

 それを示すように、わらわは魚の動揺を汲み取ると改めて口を開いた。

「だからの、お主が取るに足らない魚になったなら、同じく取るに足らない狐となったわらわがお主を食ろうてやろうと言うのだ」

 おどけた雰囲気のない、真摯な眼差しだった。

「ただの魚と狐同士であれば不思議はないであろう。お主は被食者で、わらわは捕食者。わらわは必ず水中に潜むお主を見つけ出し、我が身の糧としてみせよう。お主はその命ある限り、わらわとの邂逅に脅えるのじゃ。そうしていつの日か、お主はわらわと出会う。そしてその面白味のないただの狐の牙にかかり、その命が消え去る最中にふと気付く。己を失うとか、あるべき姿でなくなることなど、この一瞬に比べれば些事であった。かつてそんなつまらぬことで悩み苦しんだ時もあった、とな。

────これではお主の新たな甲斐にならぬか」

 唖然とした。

 あまりにも不遜な態度に、魚は今度こそ開いた口が塞がらなかった。

 つまり、お前の悩みなどくだらない。そんなものに拘るのはやめて私を見ろ。私こそがお前の命運を握る神である。と、この女狐はふてぶてしくもそう言ってのけたのだ。

「な、どうじゃ?」

「…………………………………」

 にんまりと喜色を浮かべる彼女の表情は、まるで幼い少女のようだった。それは先ほどまでの静謐で荘厳な気配を忘れさせるほどの変化だった。


────ああ、思い出した。


 神とは、我々とは、こういうものであった。どこまでも無垢で、どこまでも残酷で。誰よりも温かく、誰よりも冷たい。ただありのまま存在し、ありのまま朽ちてゆく。それこそが我々なのだ。

 私を食らうとか、同じ立場で共にあるとか、生きる甲斐になるとか、そこに大した意味はない。ただそう出来るからそうするだけ。出来なければそれで終わり。我々はただ『そういうもの』なのだ。

 いつの日か忘れていた感情が熱とともに蘇り、その思いは蝋のように固まった悲観的な心を溶きほぐした。

 恐れることなど何もなかったのだ。私は誰に顧みられずとも、ただ私のまま生き、私のまま死んでもよいのだ。

 黙り込んで動かない魚に、痺れを切らしたわらわが再び声をかけた。

「これでは気に入らんか?」

「どうでしょう…………しかし、楽しみではあります。舌なめずりをする狐の舌にがぶりと噛み付く瞬間が」

 思わぬ返答にわらわは一瞬虚を突かれたが、すぐに笑顔を取り戻すと嬉しそうに笑った。

「言うではないか」

「どちらが食われる側か、その時になるまで分かりませんからね。私はやぶれかぶれになるまで追い詰められる鼠風情とは違いますよ」

「それは楽しみじゃな。窮鼠の心をその身にしかと分からせてやろう」

「では願いましょう、いずれあなたの夢が叶うその時を」

 互いにそのような相手でないと思っていながらも、なんだか妙に癖のある好敵手に巡り会ったような心地だった。

 二人はしばらく視線を交わした後、奇妙な空気を打ち払うようにフンと鼻を鳴らした。

 時刻は正午に差し掛かり、真上から降り注ぐ太陽によって、影の向く先も足下だけになっている。

 ふと気づけば、水溜まりも既に手のひらほどの幅しか残っていなかった。

「もう時間ですね………最後に手を出してもらえますか」

「こうか?」

 言われるままに手を差し出した。

「ええ、もう少し近くに」

 魚の頭に近付ける。

「もう少し」

「………っ!」

 手が水に触れるか触れないかのところで、指先に鋭い痛みが走り、わらわは反射的に手を引っ込めた。

 見れば指先の肉が割れ、ぱっくりと開いた傷口から赤い滴が溢れていた。

「覚えました、これがあなたの味なのですね」

 頭の先だけを水面から突き出した魚は口元を紅のように赤く染めて笑う。

「決して忘れません。私が私を忘れても、あなたを、この味を、必ず覚えています」

「お主………!」

「それではごきげんよう、また会う日まで」

 そう言い残すと魚はしゅるっ、と水面下に引っ込んだ。

 間髪入れずにわらわが飛び込む、が、

「待てこのクソッ………くぁ〜〜〜〜〜〜!!」

 水溜まりはあちら側との窓としての役割を失い、ただの色鮮やかな水に戻っていた。そして、その水もわらわの手によってすぐに泥水へと変化した。

 わらわは白い着物が汚れるのも構わず、水のすぐ下にある地面を引っ掻きながら罵声を浴びせかけるが、やがてその行為に意味が無いことを悟ると、やり場のない怒りを発散するために地団駄を踏んだ。

 消沈していた魚を奮起させようと煽りをかけたのは確かに自分ではあるが、このような不意打ちで先んじられたことには無性に腹が立った。

 そうして悔しさを顕にしていると、傷ついた指先が次第に脈動し、怒りで忘れていた痛みがじくじくとぶり返してきた。

 割れた指から溢れた血が爪や指の皺に沿って赤い線を引いているのを見ると、なんだかとても悲しい気持ちが胸の内から溢れてきた。

「いたぁい………」

 耐えきれずに涙を浮かべて血でべたつく指を押さえると、わらわは血と泥に汚れた着物のまま、とぼとぼと近場の民家に助けを求めて歩いていった。


      3


「………と言うわけで、わらわは強大な妖怪と七転八倒、熾烈な戦いを繰り広げ、見事勝利したのじゃ!」

 おお〜、と和室の客間に歓声が上がった。


 魚にしてやられた後、わらわは最寄りの民家に助けを求めてやってきていた。

 涙目で泥に塗れたわらわを見た住人が、あれまあと風呂をあてがい手当ての準備をしながら、わらわちゃんが来てるよと近所の面々に声をかけた所、

「わらわちゃんが来とるんか」

「また怪我しよったんか」

「ウチもなんか持っていくか」

 ということになり、わらわが風呂から上がる頃には客間は他家の者がぞろぞろとたむろする集会所になっていた。

 それに面食らったわらわが傷について聞かれた際に慌てて口から飛び出したのが、先ほどの見栄を張った与太話であった。


「いやあ、わらわちゃんのおかげでわしらも安心して暮らせますわ」

「ほんに、わらわちゃん様々です」

「ありがたや、ありがたや」

 幸い住人たちはその話を信じたらしく、わらわの労をねぎらい、手を合わせて感謝した。

「いやいや、それほどでもないのじゃ。しかし相手もなかなか手強くての、この程度の傷で済んだのは僥倖であった。ま、名誉の負傷というやつじゃな」

 自然と早くなる口調を抑えながら、事の大きさを演出しつつ、居もしない妖怪に皆が怯えぬようにと神経を張り詰める。その様子が威厳のように映ったのか、一同は固唾を飲んで聞いていた。

「ともかくこれで心配することは何も無いのじゃ」

 わらわが話を締め括ると、老女がぽつりと呟いた。

「でも怪我は心配です」

 その言葉に周囲の人間もうんうんと頷く。

「そうですわ、わしらの事を憂いてくれるのはありがたいが、わらわちゃんが怪我するのはなあ」

「そっちの方が心配だわな」

 難色を示す重たい空気に、わらわがどうしようかと慌てていると、傷の手当てをしてくれた家主が片付けを終えて客間に戻ってきた。

「まあまあ、無事でいてくれたんだからよかったじゃないですか。それより1杯どうです?」

 家主が手にした一升瓶にわらわの目が光る。

「ええのか!?」

「わらわちゃんが私らのために頑張ってくれたんですから、祝いで飲んでも構わんでしょう。ほら、みんなも飲みましょう。どうせ今日は畑もないでしょう」

 そう言いながらテキパキと準備を進める家主。最初は難しい顔をしていた者たちも、机に並べられていく酒盆を眺めている内に、まあ飲めるのならいいかという空気になってきた。

「ええんかのう、ええんかのう」

 酒宴の口実にされた当のわらわは、にんまりと笑顔を浮かべてぐい呑みを受け取っている。そして、注がれた酒を感慨深そうに見つめると全員の用意を確認し、盃を掲げた。

「では、いただくのじゃ」

 一同が掲げた酒を一息に飲み干した。

 わっ、と歓声が上がり、宴会が始まった。

 酒を酌み交わす者、近況を報告する者、わらわの話をする者、流行りの俳優について話す者、他の住人を呼ぼうと電話する者。

 わらわは盃を傾けながら、愛おしそうにそれを眺めていた。


      *


 場が盛り上がる中、部屋の隅にいた二人が声を潜めて話していた。

「あれ、本当はなんの傷なんじゃ」

「多分、畦で転んだんと違うか。指の傷も見た目ほど大したことなかったしな」

「ほうか、まあ元気でええこっちゃ」


 宴会はまだ始まったばかり。



      終



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わらわと魚 ゆーき @chonbokki

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