自分が金色のうなじを持っていたことなんて、ずっと昔に忘れていた。今、私はその事実について思いを馳せながら、かつての、あってはならなかった出来事についても思い出そうとしている。それは人間界にはあってはならなかった出来事だった。彼女が魔女であり、私がそのすぐ側で、ずっと彼女のことを見ながら生きてきたという事も。


 私は貧しい高地の生まれだった。今勤めている姫様の城よりもずっと高い、霧の濃い、空気の薄い村だった。その村では何がしかの言い伝えが幾つかあって、私は結局その内の一つしか聞く事は出来なかったけれど、その一つには、女児は大きくなれば村を出て、勉学に励んでからまたこの村に戻り、そして家庭を育むのだと、確かそんな風な内容だったと思う。よく覚えていないからあやふやだが、言い伝えるのだから、最後の方には最もらしい御高説が付け加えられていたに違いなかった。


 私はその村で幸せだった。幼馴染の初恋の男の子だって出来た。けれど、男児は牧畜を継ぎ、女児は外へ出て何かしらの分野で研鑽を積む慣わしになっていたから、間も無く私とその彼とは疎遠になった。物理的にも、時間的にも。


 私が学校へ行く事に決まった時も、皆おめでたい気分であると言う訳でもなく、通過儀礼をこなそうとするただの一人の娘という見方をした。私は別にそれでも構わなかった。ただただ、彼のことが恋しく思われていただけで。


「いってらっしゃい。下でしっかり勉強に励むんだよ」


 家事を手伝ってくれる近所のタルヤおばさんは、いつも優しく、時に厳しく私の幼年時代を、早くに亡くなった母の代わりに見守って来てくれた。私の恩人だった。その隣には病弱な年老いた父がいて、いつもの薄い普段着で腰を曲げて私の事を弱々しい眼で見てきている。


 私は背中に特注の皮の鞄を背負い、筆記用具をその中に入れていた。私は下界のとある商業学校に入学する予定で、その試験にも既に通っていた。その日が初登校の日だった。それがあんな間違いが起こるなんて。


「行ってらっしゃい。大丈夫、お前は私と母さんの子なんだ。何があってもやっていけるよ。私が保証する。大丈夫だ」


「お父さんは自分の健康に気を遣ってよ。あんまり夜遅く出歩いちゃ駄目だからね。いくら星が綺麗に見えるからって」


 父は申し訳なさそうだが更に恥ずかしそうに頭を掻きながら、タルヤおばさんの方を伺うように見る。肩幅のたくましいタルヤおばさんは、一息ふん、と鼻から吐き出すと、勢い込んだ口調で私に向かって言った。


「大丈夫。おじさんの様子は私がちゃんと見とくからね。どこかへ行こうってんなら、ふん縛るか、それとも一緒に付いて行くかね」


 そう言いながらおばさんは太陽のような笑顔を父に向け、父はその笑顔の迫力に負けて弱々しい笑みを私に向けるばかりだった。そして、その流れで手を振って、私を見送ろうとする。私はため息を吐いて、父の頭を軽く撫でてから、扉を出て行った。


 村を歩いていきながら、背中に幾つもの視線を感じる。その中にあの人の視線も混じってくれていたらいいとも思ったけれど、この時間は山羊の放牧でいないから、多分それはない。私はまたため息をつきたくなったけれど、こんな事で一々吐いていたら先が思いやられると思って我慢した。歩いている内に、村の出入り口まで来た。そして最後に、振り返って、今後数年間帰ることができない村の事を振り返り見た。近所の、小さな女の子が家の扉からこちらを見ていて、小さく手を振ってきている。私はその子に向かって大きく手を振りかえし、それから霧の濃い村の空気を肺一杯に吸い込んでから、村の外へと歩き始めた。


 そして、私は何故か魔女見習いとなる。



「ちょっと待てよ」


 僕は展開が気に入らず、謎が中々解明されないどころか更に広がっていきそうな気配に苛々し始めていた。目の前の少年は、隠れた前髪の内側から大儀そうな眼で僕の方を見返してきている。


「この物語、ちゃんと着地するんだろうな。いきなりメイドの話を始めて。『叔母さん』はどうなった。姫様は死ぬのか生きるのか? 僕はそっちの方が気になるんだが」


「気が短いって良く言われないか。言われ慣れてないなら、俺が今代わりに言ってやるよ。お前は気が短い。まだ物語の序盤なんだぞ」


 僕は、と言いかけてから、僕はその言葉を飲み込んで、言い直す。さりげなさに気をつけて。


「あんまり時間がないんだよ。早く上に戻って船長や副船長に報告しないといけない。それに大体、いつもはもっと展開が早くて賑やかな筈じゃないか。話自体もすぐに終わる物が殆どだし。何故急に本格的な物語みたいな作りにするんだ? やけに長そうじゃないか、今回のは」


「気に入らないなら、帰るんだな。俺はお前に汚い匙を口に突っ込まれて、話せと言うから話しているんだ。お前が気に入らないのなら、物語はこれで終いだ」


「それはいやだ!」


 僕の叫びは驚くほど静かに地下の部屋の隅々へと散っていって、すぐに波の音に消されて聞こえなくなった。木の壁の中の遥か遠くから、鯨の咆哮のような音が聞こえてきた気がするが、さすがに気のせいだろうと思った。


 吊るされた少年の姿の囚人は、相変わらず頭を重たげに下ろしたままで、その分厚い前髪のシェードに隠された奥から、油断のならない鋭い瞳を僕の方へと向けてきているのを、僕は気配で感じ取った。


 少年の声が聞こえた。


「いいから、聞けよ」


 僕は黙って、遠くから聞こえてくる鯨の声と、彼の声が入り混じり始めた、奇妙な物語の続きを聞き始めていた。それはどこか異国の鎮魂歌ノクターンのような空気感を帯びていた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

魔女はどこへ消えた 転々 @pallahaxi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画