まず、魔女はすぐには出てこない。お話の初めは、ある高地の大きな城に住んでいる、『叔母』と呼ばれる姫様だ。


 姫様とは言っても、もう年は四十後半で、古い幼馴染で大恋愛の末に結婚した領主の息子である夫と、とある戦争に従軍したことがきっかけで死別し、その後はよくいる、美しくも不幸な未亡人として生きることになった。


 ある時、その『叔母』は病に臥せった。重く厳しい病で、名のある医者達が世界各地から呼び集められたが、容体は一向に回復しなかった。叔母はまた頑なで、一度呼びつけて失敗した医者は二度と呼ぼうとはしなかったから、自然と彼女の元に集まってくる医者の数は日毎に減っていって、気づけば彼女を見舞うのは下女であるメイドだけになった。


 メイドが扉を叩く。入って良いという返事は聞こえず、今は彼女達の判断で部屋へ入ることを半ば許されていた。彼女はそうして、いつもの通りに部屋へと入った。


 尿瓶を床に置いて、お茶を用意しながら、メイドの一人は言った。


「お加減はいかがですか、姫様」


 その顔を憎たらしげに見つめるのが、叔母と呼ばれる姫様だ。彼女は憤怒を目の奥で火のように輝かせながら、若く美しいメイドの一挙手一投足をまるで瞳の奥に焼き付けるかのように見つめながら、か細い喉の奥から、深いため息を漏らして言った。


「あなたは美しいわね……いいわね。本当に羨ましい……」


 メイドは尿瓶を持ち上げて叔母を殺してしまおうかと一瞬思った。金は有り余っている癖にメイド達に満足な給料を払っていないことを、このメイドは恨んでいた。だが手は空を切り、はだけた毛布を持ち上げ、叔母の肩まで上げてやりながら、慈愛のこもった口調で言うのだった。同じく病気で臥せっている最愛の父親と、一瞬だけ姿を重ね合わせながら。


「大丈夫ですよ、姫様。私もじきに歳を取ります。あなたの病気が良くなるのと同じように、自然とそうなりますよ」


 恨みがましい瞳はまだメイドの端正な白い細顔へと向けられている。臭いの強い息が乾いた唇から漏れて、姫様は言った。


「そういう言葉が、私は一番嫌いなんですよ。これまで何人もの医者が訪れてきては、私に『じきに良くなります』と言った。本当は何もこちらが信じられる技術も薬も持ってきてはいない癖に、安静にする薬を置いて、代わりに金貨を持っていく。私は、もう疲れた……もう美しくも、健康にもなれないのなら、もういっそのこと……」


 メイドはちら、と再び尿瓶の方を見たが、その言葉がメイドの事を試しているのは明白だった。姫様はこうしてよく、本当に命を絶って欲しいといった言葉を口にする。だがそれはいつも、目の前の美しいメイド達を、人間の道から踏み外させ、その美しい体と魂に少しでもいいから汚れを撒き散らて死んでやりたいという、心の底からの身勝手さが由来だった。彼女は枕元からいつも、美しい、煌めくような輝きを放つ、自身が直々に面接して選んだメイド達の細面を見て、ため息をつくのだった。その美しさと、自身の醜さや衰えを比較しながら。


 メイドは彼女の尿を取るために姫様の下半身を少しばかり持ち上げて、彼女の尿意を軽くしてやった。幸いなことに、便は出なかった。メイドはそれをありがたいと思いながら、努めた様子で姫様の体を拭き、それから出口の所で軽く礼をしてから、その臭い立つ部屋を後にした。


 そのメイドが去っていった先は、食堂で、今はハルスレン侯爵が一人でナプキン姿で昼食をとっていた。メイドは——〈なあ。お前が良いなら、ここからは、『メイド』ではなく『私』で語りたいのだが、いいか……? いや、スープはもういい。もう充分だ。もういい。もういいって……いい、いい……。分かった。飲む、飲むよ……臭い ……。ああ、もう元気だ。続きを話すとも。少し黙っていろ。ええ、と、どこまでだったか……そう、くそったれ侯爵が一人で昼食を食べているところだったな……この忌々しい……〉


 メイドは部屋へと入った。入る時の扉の音が嫌に大きく響いたので、私は少し不快に思った。遠くに一人で座っている侯爵が私の方を見ながら、もぐもぐと汚い口を揺らしている。


 嚥下する前から、彼は話し始めていた。


「君、姫君の容体はどうかね? 少しは良くなっているのかね?」


 私は恐れながら、という意思を示すために、二秒ほど頭を下げてから答える。


「姫様は相変わらず、弱っておいでです。医者が処方してくれたどんな薬も効果はなく、日々衰弱していくように見えます」


 侯爵はナプキンで口元を拭いながら、気取った物言いで答える。


「それは君にとっては都合がいいのではあるまいかね。ジェシー君、だったかな」


 私は頭を下げたまま答える。


「いいえ。そんな事はございません。お金に困っていた私を救って下さった姫様は、私の恩人でございます。……あの、何故私の名前をご存知なのでしょうか? 私は名乗るような無礼な真似を致しましたでしょうか……?」


 ふん、と侯爵は鼻息を荒くしながら、勢い良くその場に立ち上がり、私に向かって言った。


「聞かずとも分かるだろう。メイド長のワルダに聞いたのだ。それに君は、印象的な特徴を持っているからな」


 私は出来るだけ馬鹿っぽく見えるように取り繕いながら、答える。


「印象的な特徴、ですか……?」


 侯爵はまたふん、と鼻息を荒くしてから、椅子も戻さずに歩き始めた。去り際に私の方を卑しい目で見ながら、こう言うのだった。


「……君は他のメイド達と違って、うなじの毛が唯一金色なのだよ。自分の特徴ぐらい、覚えておきたまえ」


 私は信じられないぐらいの身震いを侯爵の瞳を見て覚えながら、去っていった彼の足音を聞いていた。私は逆だった自分の毛が落ち着いてから、侯爵の食べ散らかした食器類や食べ残しを片付けにかかった。他のメイド達はおらず、私は自然と自分のうなじに手をやっていた。彼の卑しい目つきを思い出し、また毛が逆立つ。


 私は金色のうなじだったのか。食器を片付けながら私は思い、その部屋を後にした。

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