3
地下室の扉は、何故か開いていた。その中から鼻を突くような強烈な腐敗臭が漂っている。三階建ての船の最下層にあるこの場所は、殆ど海の中のような匂いがする。潮の気配を気の壁や床の先に感じ、僕は身震いを覚える。だが、用意した容器を落とすわけにはいかず、そのまま何食わぬ顔で開いている扉をくぐり、中へと入った。
鉄錆の匂い。この、ただ一人の囚人の為だけに用意された特別性の牢獄は、とても奇妙な姿をしている。何が奇妙なのか、僕にも分からないのだが、とにかく囚人は年代物の鎖によって天井から両手を縛られた格好で吊るされ、両足には人間一人では持ち上げることが不可能な鉄球へと結ばれた鎖が繋がれていた。男は——いや、少年の姿の人間は、伸ばし放しの髪を俯きがちの顔から前へと垂れ流し、表情は窺い知ることができなかった。
僕は容器の匙で錆の浮いた鉄格子を三度叩き、囚人の注意を引こうとした。「よお」と言ってみた。だが囚人はぴくりとも動かない。既に死を迎えてしまったかのように、冷たい沈黙のうちに沈んで見える。だがそれは嘘であると知っている僕は、一つしかない鉄格子の扉を合鍵で開け、中へと入る。僕がズカズカと侵入しても、ただ一人の住民は文句も言わない。木の壁の奥では、まだ嵐と荒れ狂う波の質量の音が響いている。
僕は匙を容器の中のスープに入れて掬い、それを囚人の目の前に持っていった。だが囚人は動こうとはしない。俯いた分厚い前髪に覆われた頭部が、物言わぬ壁と化したように、拒絶の意思を示しているかのようだ。だが、それも嘘だと分かっている僕は、囚人の汚い前髪を持ち、顔を持ち上げた。囚人の顔がそこではっきりと伺えた。
「久しぶりだな。最後に来たのは、何週間も前だった気がするが」
「その間の世話は、他の人間がやってくれたんだろう? 感謝するんだな」
「俺のことを忘れたのかと思ってた」
「忘れるわけがないだろう。俺とお前の仲じゃないか」
男はくっくっ、と笑った。すかさず僕は笑っているその口元に匙を勢い良く突っ込む。男は一瞬驚いた表情を浮かべた後、スープにむせて咳き込んだ。「汚いな」と僕が言う。それを僕は見ている。
「気のせいかな」
男は口から液体を垂れ流しながら、僕の事を上目遣いに見つめてくる。「いつものよりも臭い気がする。シェフが変わったのかな?」
「これは僕が作った。滋養強壮の効果がある、薬膳スープなんだ。内の故郷の母が僕が病気になった時によく作ってくれた。初めはエグ味が気になるかもしれないけど、じきに慣れる」
男はまたくっくっ、と笑った。僕はその笑い方が気に食わない。殴り倒したくなる。
男が言う。「君は俺を元気にさせてどうしたいのかな?」
僕は胸を張りながらこう言った。決まってるじゃないか、と言い添えながら。
「お前に元気になって貰いたいのは、また物語を話して貰いたいからだ。それはお前の義務だろう? 僕はいつだって、お前の物語を期待して待ってるんだからな。さあ、その為にも元気を出せ。この薬膳スープで、とびきり面白い物語を聞かせておくれ」
「お前のお母さんは」
少年の姿をしている男が下らなそうに言う。「化け物を作ってしまったんだな。お前を見てると、何も出ないのに吐き気がしてくるよ」
「吐くなら今ここで吐いてしまえ。僕の前では吐くなよ。失礼だからな」
「何を言ってるのか分かってるのか? お前に聞かせる物語などないよ。帰りたまえ」
僕はまた胸を張りながらこう答える。
「そうはいかないな。こっちはその為にわざわざ遠くからスープの素を取り寄せて、作ってやったんだ。作り損は性に合わない。さあ、話せ。僕は物語を聴きたくて、さっきからウズウズが止まらないんだ」
「干からびて死んでしまえ」
「物語を聴き終えてからね。それにどの道、この嵐では誰一人として生き残れまい」
「この嵐が」
少年の姿の囚人が、また俯きがちになり、聞き取れない声量で何かを言ったような気がしたが、気のせいかもしれなかった。やがて再び囚人は重たげに顔を上げると、僕に向かって言った。何故か微笑みを浮かべながら。
その微笑みに僕は少し戸惑ってしまった。たじろいだ、と言った方がいいかもしれなかった。何にせよ男は、そのまま僕の瞳をじっと綺麗な黒曜石のような真っ黒な瞳で見つめながら、言うのだった。
「じゃあ、最後に一つだけ物語を聞かせてあげよう。僕にはもうあまり時間がないんだ。だから出来るだけの事はしておこうと思う。自分の為にね。何、自分がどこに送られているのか、分かっているさ。魔女の島だろう? まあ、それはいい。君がそんなに望むのなら、僕の物語で君をあっと言わせてあげよう。その位の力なら、君のこんなにも臭いスープなしでも出来るからね。まあ、座りたまえよ。ゆっくりリラックスした姿勢で聞いてくれたまえ。じゃあ、話すよ……これはこんな出だしで始まる、こんな物語だ……
魔女はどこへ消えた?」
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