ささくれんさ

ハル

 

 職場でパソコンのキーボードを叩いていると、左の人差し指にささくれができているのに気づいた。


 軽く引っ張ってみると、予想以上の抵抗を感じた。これ以上力をこめたら痛い目に遭うに決まっている。


 爪切りで切るのがいちばんだが、


「あの~、誰か爪切り持ってませんか?」


 その問いに対する答えは全てノーだった。――まぁ、当然だろう。


 家に帰るまでの辛抱だと自分に言い聞かせて、またキーボードを叩きはじめる。だが、その後もずっとささくれのことが頭から離れず、仕事は進まないわ会議ではぼーっとしていて注意されるわで、さんざんだった。



 帰ってくると、俺はカバンを放り出して爪切りを探した。


 救急箱の中、収納ラックの中、ペン立ての中、台所の引き出しの中――どこにも見当たらない。


 といって、わざわざ買ってくるのも面倒くさい。コンビニもドラッグストアもスーパーも、うちから十五分は歩いたところにあるのだ。


 おまけに今日は寒くて雨も降っている。すぐ見つかると思って、帰り道で買ってこなかったのが悔やまれた。


 明日出勤前にコンビニで買って、職場で切ろう。


 あきらめてコンビニ弁当を温めて食べはじめたが、相変わらずささくれのことが頭から離れない。今日は奮発してちょっと高級な弁当を買ったというのに、ろくろく味わえなかった。YouTubeを観てもシャワーを浴びてもとっておきのビールを飲んでもダメだ。気づけば左の人差し指を見つめている自分がいる。


 もう寝るしかない! 


 布団にもぐりこんだが、眠気は全く訪れてくれない。頭を占めているのはささくれ、ささくれ、ささくれ、ささくれ、ささくれ、ささくれ、ささくれ、ささくれ、ささくれ、ささくれ、ささくれ、ささくれ、ささくれ、ささくれ、ささくれ、ささくれささくれささくれささくれささくれささくれささくれささくれささくれささくれささくれささくれささくれささくれささくれささくれささくれささくれささくれささくれささくれささくれささくれささくれささくれささくれささくれささくれささくれささくれ――。


 クソっ!


 がばっと起き上がって電気をつけた。生唾を飲みこんでささくれを引っ張る。


 ああ、タブーを犯すのって最高だ……!


 おおげさな感慨にひたっているうちに、三ミリくらい剥けた。アルコールのおかげか痛みは小さい。


 さらに引っ張ると第一関節まで剥けた。


 さらに引っ張ると第二関節まで。


 さらに引っ張ると指の付け根まで。


 さらに引っ張ると手首まで。


 しかも次第に剥ける皮の幅が広くなってきている。だから、傷は線ではなく非常に細長い三角形になっていた。下辺の長さが一センチくらいある、くすんだピンクの三角形に。


 無性に楽しくなって、笑いながらささくれを剥き続けた。ひじまで、肩まで、首まで。


 髪の生えぎわまで剥けてついに皮が取れたときには、太いほうの幅は十センチくらいになっていた。痛みをはるかにしのぐ爽快感がこみ上げる。


 もっともっとこの気分を味わいたい。俺は左の中指にささくれを作ってまた剥きはじめた。


     ***


 あるアパートの大家から、貸借人が死んでいるという通報を受けて現場に向かった警官は、しきりに首をひねっていた。


 遺体の皮はほとんど剥がされていて、それが死因だと思われるのだが、剥がされた皮が極めて薄いのだ。


 ふつうの刃物では、とてもこんなに薄くは剥げない。


 しかも、現場は密室だ。もちろん大家が犯人であれば話は別だが、八十歳近いと思われる小柄なこの女性が人を殺せるとは思えない。それもこんな方法で――。


 こっそりため息をついて目を落とした警官は、左の人差し指にささくれができているのに気づいた。

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ささくれんさ ハル @noshark_nolife

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