秋の日②
それなりの時間をかけて買ってきたコーヒーだが、実のところまだ前のが少し残っている。豆の種類も全く同じ、いつものチェーン店のフレンチロースト。酸味が少なく、苦みだけを感じられる豆だ。以前のも開封してからそう日数は経っておらず、実感できるほど味も変わっていないだろう。しかし、今のぼくには新しい豆が必要だった。
理由はもちろん手紙に由来する訳で、臆病な男に少しの勇気を与えるための、言うなれば一つの儀式のようなものだ。
買ってきたコーヒー豆の封を切る。保管用の容器に移し替えながら、一緒に今回使う分も取り分けておく。
使う量はきっかり 7 グラム。豆の大きさによってばらつきがでるため少し多めに挽いて、粉にしてから誤差なく合わせる。それに対して、水が 110ml。こちらも誤差は許されない。
細かく決められた工程は、既に何百回と繰り返してきたもので、目をつぶってでも問題なくできるくらいだ。
事細かに、手を加えることが許されないくらい堅牢に定められたコーヒーのレシピは実のところ人からの受け売りだ。そして完璧なコーヒーのレシピというものが存在するのだとしたらこのレシピだとぼくは思っている。それほどまでに彼女の作るコーヒーはおいしかった。しかし、何百回とぼくが同じレシピで作っても彼女のそれに近づくことはできない。記憶の中のあのコーヒーには遠く及ばない。
彼女とは、ぼくがまだ大学生だった時に出会った。当時、ぼくには良く世話を焼いてくれる先輩がおり、彼女は先輩と交際している 2 つ上の女性だった。先輩は、ぼくを地元が近いというだけで見つけ出してきて、授業のこととか生活のこととか、何かと面倒を見てくれた。最初は酔狂だとおもったが、気の良い彼に、人付き合いがあまり良い方ではないぼくもだんだんと気を許して、次第に私生活での交流も増えていった。そして、当然先輩の交際相手である彼女と出会った。
彼女も先輩と同じくらい気が良く酔狂で、そしてかなりの変人だった。
先輩が俗に言う優等生。常に一本筋の通った、明瞭快活な人間である表現すると、彼女はその真逆。問題を抱え、引き寄せるトラブルメーカーであり、よく笑いよく泣き、時に詭弁を弄して事態をかき乱す。そういう女性だった。ぼくと先輩が彼女に巻き込まれた数々の事件を紹介できないのが残念だ。それでも彼女は間違いなく周囲から愛されていたし、それは彼女の数々の奇行が結局は困っている誰かを助けるためにしていたからであって、そういう面では間違いなく彼らは似合いのカップルだった。
彼女には様々なルールやこだわりがあり、かろうじて人に理解されるものから、彼女の世界でのみ完結しているものまで幅広く生活の中に溶け込んでいた。コーヒーの淹れ方もその一つだ。
先輩と一緒に暮らしているその部屋で、彼女はよくコーヒーを淹れてくれた。
珈琲を飲むことよりも淹れることが好きなようで、コーヒーを飲まない先輩の代わりに、よくぼくがごちそうになった。
実のところ、ぼくは少し、いやかなり、彼女のことが好きだったのだと思う。
よく読む小説の好みは合っていたし、聴く音楽もかなりセンスが良い。食事の好みだけは合わなかったが、淹れてくれたコーヒーはおいしかった。そして何より、誰かのために行動出来て、他人のために泣いて笑える彼女の生き方がぼくにはとてもまぶしかった。
だけど、それと同じくらいぼくは先輩に恩があったし、先輩のことが好きだった。高校生の頃は人嫌いで通っていたぼくを懐柔したのだから、先輩もたいがい罪な人だと思う。彼らは互いに支え合っていたし、理解し合っていた。そばにいることはできてもその間に入るなんてことはぼくにはできない。
結局ぼくは思いを伝える事はなかった。自分では吹っ切れたと考えていたのだけれど、青年の淡い恋心は行く場所もなく残り続けていたらしい。今になってようやく気付くことができた。
気が付くと、とっくの昔にコーヒーは淹れ終わっていた。容器には、いっぱいに黒々とした液体が溜まっている。思ったよりも長く物思いにふけっていたらしい。相変わらず時間の流れは速い。だけど、なんだか今はその時間と一緒に進めそうな気がした。
一杯分コーヒーをマグカップに注ぎ入れる。機材の片づけはあとにしよう。それよりも今はやらなくてはならないことがある。
コーヒーを携えて、改めて手紙に向かい合う。
その手紙は結婚式の招待状。先輩と彼女の連名で出されたもので、つい先日ぼくにも送られてきたものだ。長らく交際を続けていた彼女たちもようやく結婚するらしい。同封されていた写真の笑顔はとてもまぶしくて、やっぱり彼らが一番お似合いだと思う。子供みたいに意地を張って、未練がましく返事を書きあぐねていた。だがそれも今日で終わり。
いい加減ぼくも前に進もうと思う。
一番お気に入りのペンを出して、はがきに丁寧に〇をつける。
もちろん出席の欄に。
シャムが足元に来てご飯をねだってきた。やることはたくさんある。シャムにご飯をあげなければならないし、コーヒーを淹れた機材を片付けなければならない。仕事もまだ残っている。長期的には結婚式に行くための準備も必要だ。よし、と気合を入れてとりあえず一口コーヒーを飲んだ。
口をつけたコーヒーは同じ手順で入れたはずなのに、何だかいつもよりおいしい気がした。
珈琲の思い出 あかのあと @akanoato
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