珈琲の思い出

あかのあと

秋の日①

なくなりかけていたコーヒー豆を買い足して、僕は自分の家へと帰ってきた。


外の世界では、木々がまとった葉を手放し、地面に色をつけはじめていた。秋の存在感がだんだんと薄くなり、今年も冬の気配が近づきつつある。

薄暗く肌寒い秋の日には、見飽きた玄関にも少し安心するものだった。


一人で暮らしているこの家は、とある地方都市のそのまた郊外の住宅街に、特に主張することなく建っている。広くはないし、あんまり冴えた部屋じゃないけれど、ここでの暮らしを僕は気に入っていた。生まれ故郷とは違う街なので、だれか知り合いが訪ねてくることはない。都会の喧騒もここまでは届かない。そして何より、シャムと僕以外にはこの空間には何も存在しない。車を持たない僕にとっては、移動手段が乏しいことだけが玉に瑕だが。


シャムは、窓の近くで日に当たって寝ころんでいた。この時期の白く弱弱しい日の光を、できるだけ体に取りこもうとしているのか、手足を大きく伸ばして全身で日の光を受け止めている。こういう姿を見る度に、実は猫という生き物は光合成をしているのではないかと、僕は考えてしまう。そして、猫と植物が進化の過程で道を違えた経緯と物語、そんな空想に刹那の間沈んでいく。こういう思考は何度繰り返しても興味深い。


シャムに手を伸ばすと、彼は拒絶することなく受け入れてくれた。短く手触りのよい毛皮を撫でると、大きく喉を鳴らして体をくねらせる。こうしてシャムを撫でている間は、僕はシャムと一体化しているように思えた。しばし幸福な時間が続いたが、しばらくするとにゃあと言ってどこかへ去ってしまった。人間へとサービスしてくれる時間は終わりのようだ。名残惜しかったが気まぐれな彼を引き留めることはできない。仕方がないので僕は人間の世界へと変えることにする。


テーブルに荷物を置くと一枚の紙が目に入る。それは、少し厚く手触りの良い手紙。ここ数日の僕を苦しめる悩みの種だった。

悩みの種といっても、手紙の内容が変だということでない。手紙によって脅迫されている訳でも、僕の人生が大きく変わる訳でもない。特別だがありふれていて、僕がするべきなのは「Yes」か「No」かの決断だけ。ただ、その決断によってほんの少し、僕の生き方を変えるだろう。そんな些細な変化をひどく恐れている臆病な男が僕で、こうして手紙はテーブルの上に置いたままになっている。


手紙の問題をまた後回しにして、僕はとりあえず、コーヒーを淹れることにした。

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