リストランテ・トラウマの裏メニュー
柴田 恭太朗
めくるめくトラウマ料理
三月、それはすなわち年度末を意味する。
鬼も過労ですすり泣く地獄のシーズンだ。
ただでさえ心がささくれ、ヘトヘトになったオレをさらにムチ打つものがある。それは空から襲いかかりくるミクロの悪魔。通称、花粉。
オレは花粉症という名が誕生する前から花粉症にかかり続けてきた。いわば自他共に認める花粉症のエキスパートなのである。今年は早くも二月から花粉にいたぶられ、三月になるともう、目も鼻もノドも真っ赤でズビズバだった。
呼吸は苦しいし、頭は鉛がギッチリ詰まった防災頭巾をかぶったように重く回らない。
この世から花粉さえなくなれば、きっとそれはパラダイス。このうえなく住みやすい世界になるのに、とオレは夢想する。
その晩、疲れた足を引きずるように帰宅していたオレの目の前が燦然と輝いた。輝いたといっても突然発光したわけじゃない。ただオレが下を向いて歩いていたから、それまで気づかなかっただけの話だ。
花粉でかゆい目を凝らすオレ。煌々と灯りを放っていたのは、ブロックの一角にただずむ美しいレストラン。店の真新しい看板には、気取った飾り文字で『リストランテ・トラウム』とある。それは南欧風デザインの洒落た料理店だった。店の前に立てられた旗に『あなたの生活に
「こんな店あったかな。いつの間に誕生したんだ」
オレは疲れていた。開店というべきところを誕生と言ってしまった。思考が回らないせいだ。
疲労に加え、空腹だったオレは迷うことなくリストランテのドアを押した。
「いらっしゃいませ」
ドアの内側で待ち構えていたウェイターが声をかけてくる。イタリア語ならウェイターではなくカメリエーレとかいうんだっけ? まあ呼び名はともかく、こざっぱりとしたユニフォームに身を包んだ姿勢の良いウェイターがこちらを見て微笑んでいる。そこまではいい、一つ異様なのが顔につけた黒マスク。彼も花粉症なのだろうか? オレはその黒マスクが気になった。
異様な黒マスクウェイターの先導で、すぐにテーブルに案内される。席についたオレはメニューも見ずに男に尋ねた。
「花粉症に効果のある料理ってありませんか?」
オレはもう花粉でズビズバなのである。ありとあらゆるチャンスにかけるのである。
「花粉……でしょうか?」
黒マスク男は眉をひそめ、しばしためらった。マスクのせいか、やや滑舌が悪く聞こえる。
「ありませんよね、そんなもの。忘れてください」
オレはすぐに後悔し、先ほどの質問を打ち消した。世の中そんなにうまい具合に運ぶわけがない。
「いえ、ございます。アレルギーに効く
薬膳だって? オレは耳を疑った。あらためて店内を見回す。イタリアンで洒脱なデザインのリストランテに、どう考えても漢方料理は似合わない。
「ただし裏メニューですので、他のお客様には口外なされませんように」
黒マスクのウェイターは声をひそめて念押ししてくる。オレは深くうなずくと、一も二もなくその料理を注文した。なにせオレはこれ以上ないぐらいのズビズバだからして、なりふり構ってはいられないのである。
やがてテーブルに並べられた料理にオレは目をむいた。それは何の変哲もない和風の鶏肉料理であった。薬膳らしさは微塵もない。
「あのー、これは何という料理ですか?」
オレはおずおずと尋ねる。
「『鶏のささくれ煮』、でございます」
黒マスク男は気取った調子で言う。それは呪文の詠唱のごとき洋風料理『プロヴァンス風太陽を感じるトマトとバジルの香り漂う自家製パスタ ロケットとイタリアンパセリの風味を纏ったオリーブオイルソースを添えて』みたいな料理にこそ似合う口調だった。
オレは料理をしげしげと観察する。煮込んだ鶏肉の上にパラパラと千切りにしたショウガのようなものが振りかけてある。これはいわゆる『しぐれ煮』ではないか? オレは疑問をウェイターにぶつけた。
「ささくれ煮? しぐれ煮の間違いでは?」
「いえ。ささくれ煮、ございます」
「どうやって作るんですか」
「甘辛く煮つけたところへ、ささくれにしたゴボウなどを添えまして」
また、ささくれか。
「ささがきではなく?」
「はい。ささくれ、でございます。お召し上がりになると、さらに料理についての理解が深まります」
黒マスクは澄ました話しぶりで答えた。
こうなったら食べるしかない。オレは料理に添えられた箸を握りしめ、目の前の料理に取り組んだ。
結論から言うと『鶏のささくれ煮』は大変美味であった。一流の和食料理人が煮込んだような絶妙のバランスの甘辛さ、くどくなく、それでいてごはんが進む適度な味付けだった。疲れたオレの体に染みいってくるではないか、感動に思わず閉じた目の端に涙がにじむ。
この料理は、もも肉の上に振りかけられた刻みショウガが
腹が減っていたこともあって、オレはめざましいスピードで『鶏のささくれ煮』を完食してしまった。
膨れた腹をさすっていたオレは、あることに気が付く。
呼吸がラクになっていた。オレはいつの間にかズビズバではなくなっていたのだ。
これが裏メニューの薬膳『鶏のささくれ煮』の薬効だとしたら素晴らしい、効果テキメンである。
食後のコーヒーを味わっていると、黒マスクのウェイターが音もなく近寄ってきた。
「いかがですか、お客様」
「感動したよ、ささくれ煮。うまいし、花粉に効果はあるし」
「いえ、お客様。そういうことではないのです、指の状態はいかがでしょう?」
黒マスク男はオレのテーブルの傍らに立つと、手にしたツメ切りをパチリと
男に言われて意識すると、なにやら指先がジワリジワリと熱を帯びてくる。
「変だな、ツメが熱い」
オレは両手を目の前に挙げ、十本の指先を観察した。指の熱さはいまや痛みに変わっていた。それもそのはず、ツメの下の皮膚がみるみるうちに
「なんだこれ!」
一度、剥けはじめたささくれの勢いは止まることがなかった。ツメの下から指の第一関節を通過し、カールしながら手の甲へと向かって皮膚を侵略していく。オレはパニックに陥った。
「ささくれ煮の副反応ですね、失礼します」
黒マスクのウェイターはサッとオレの手を取ると、先ほどから用意していたツメ切りを操って、剥け続けるオレのささくれをパチリパチリと手際よくカットしてゆく。
――ささくれはすぐに切らないと、剥けていつまでも痛むよ。
ウェイターの手さばきを見つめながら、オレは幼い頃に聞いた母親の声を思い出していた。それとともに黒マスクの男に対する、ほのかな感情の芽生えを意識する。
きっとBLな関係って、こうして始まるんだろうな、よく知らんけど。オレは思いつつ、黒マスクの上からのぞくウェイターの長いまつ毛に魅入られていた。
「はい、今日のところはこのヘンで」
オレのささくれは完璧に退治された。黒マスクのウェイターは、切り取ったオレのささくれをガラス瓶に流し込むと、音を立ててキャップを閉じる。男はガラス瓶を振り、ささくれがサラサラ音を立てるのを確認すると目を細めてうなずいた。
「そうそう、お客様のお名前を伺えますか?」
「どうして?」
愛の告白でもされるんだろうか? いまのオレはもうズビズバではないし、気持ちの
「お客様のお名前がないと、裏メニューに出す料理の名前が決まらないのですよ」
「それって、どういうこと……」
意味がわからない。オレは戸惑った。
「実は当店のシェフの名前が
滑舌の悪いウェイターはニッコリとほほ笑んだ。
おしまい
リストランテ・トラウマの裏メニュー 柴田 恭太朗 @sofia_2020
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