胸のロケット

匿名の匿

胸のロケット

 今時ロケットを胸に下げている女性というのも珍しいのだけど、それがたまに古風な気分を出してみようというオシャレの一環ではなく、いついかなる時も肌身離さずということになるとさすがに怪しすぎる。そういう思いが僕の彼女に接近する理由の一つになったのだが、それにしても世の中の多くの人は見る目がないらしく、彼女に接近しようという男は結局、彼女と出会ってからの五年間、ただ僕一人だった。

 もちろん僕だって彼女と人間的に触れ合いたいと思って接近したわけではないので、その意味で「見る目」があったわけではない(他の意味では確かに目は利く方だったのかもしれないが、これについては後々詳細が明らかになる予定だ)。僕にあったのはただの好奇心、人とは違う特徴や振る舞いが生じるところに間違いなく存在している何らかの特別な意味を追求して、もしそこに隠したい秘密があるのならあえてそれを暴いてみたいと思う気持、それだけだった。ある意味ではこれは、恋をした相手をすっぽり包んでいる衣装をすべてはぎ取って、その下に息づいている肉体をその目で見てみたいという、そんな欲望よりもいっそう品のない欲望だったかもしれない。何しろ彼女はそのロケットを、時々胸に押し付けては、ふっとため息を吐くのだ。切なそうなその態度にエロティシズムを感じなかったとは言えないし、ますますそこに秘密の影が色濃くなるのに、僕はいてもたってもいられなくなったのだった。こんな欲望のあり方は倒錯しているとまでは言えないにしても、あまり健全な心の働きとも言い難いだろう。週刊誌的な窃視趣味から他人のプライベートを丸裸にしようとするよりは、裸の姿を想像する方がずっと罪の等級は低いのではないだろうか。

 僕は考えと行動とのラグが少ない方だ。これが多いと、考えの方が肥大化して、そのうち行動をブロックすることになる。そういう性格の持ち主であったなら、僕は彼女に直接アプローチするよりも、彼女に対する大いなる妄想を物語として発展させることに熱心になっていただろう。そうすれば、僕はこんな報告をする必要はなく、もっと人を楽しませる話をすることができたはずだ。それにまた……なんといってもフィクション程罪のないものはない。しかし僕は実際に行動に出ることで、僕が大人しくしていれば防げたはずのすべてのことを、現実に変えてしまった。

 五年間と先ほど書いた。この五年間、僕は休みなくアプローチを続けたのだった。このことが意味するのは、つまり、五年もの間彼女は僕を拒み続けたという事実である。彼女は言った。自分はそんな好意を向けられるのに慣れていないから、どうしていいのかわからない。自分はそんな情熱に値する人間ではない。何かあるんじゃないのか。僕はその度に違った愛の言葉をさえずった。自慢じゃないけれども、僕はその方面での経験が浅いわけではなかった(その頃僕は十代で、そのことで多少得意げになっても許される歳だった。今となっては、得意げな顔をすることすら虚しいぐらい、当たり前の経験に過ぎないわけだが)。けれども彼女はなびくそぶりも見せなかった。そのために彼女はその頃通っていた学校で、立場を失っていったのだった。不思議なことに、彼女が僕にアプローチされているということに、ヘイトを溜める同級生がいたのだ。しかもさらに不思議なことに、そのヘイトは彼女がそのアプローチを拒むことで、ますます激しくなったらしい。なぜ人は、自分にチャンスが回ってくるかもというような、前向きな発想をすることができないのだろう。もっともその同級生に関しては(実を言えば一人ではなかった。こういう時、日本語は単数複数の区別がないのでありがたい)、僕は直接のアプローチを受けた時に、一言二言できっぱり拒絶したのだけど。ともかく彼女は、いつも肌身離さず持ち、時にその指で愛撫したり、ため息と共に胸に押し付けたりするロケットのために、クラスという子ども時代の大半を過ごすことになる空間で、居場所を失ったのだった。今でも申し訳ないと思っている。

 だけど、そんなに大事なロケットには一体何を入れているのだろう? 昔の人は、愛する人の髪の毛をロケットに入れて持ち歩いたりしたという。そんな関係にある相手が、彼女にはもういるのだろうか。それとも、親族の、ひょっとしたら両親のどちらかや両方、あるいは早世した兄弟や姉妹の写真が、そこに入っているとか? だけど今時写真なんて、わざわざ現像して持ち歩くだろうか(そういえば写真を現像するというのも、一体どこでどうやってやればいいのか僕は未だにわかっていない)。まさかアイドルの写真なんかだったら興ざめだけど――だけどそれはそれで、彼女がその程度の人間だったと露呈させるわけで、独自の快楽がないわけではなかった。まあいずれにせよ言えるのは、僕が最低の人間だったということだ。

 それにしても奇妙だったのは、誰一人として彼女のロケットのことに注意を払っていないことだった。僕は度々「あいつの何がそんなにいいんだ」という類の質問を受けたけれど、その都度ちゃんと正直にロケットのことを答えるようにしていた。だけどロケットと聞いてピンと来る同級生は一人もいなかった。だから何なの、という反応もあったし、そもそもロケットという単語自体を理解できない生徒も多かった。飛ばす方のロケットだと考えて、「金正恩みたいなのが好きなの?」と他愛のないボケ方をする生徒もいた。これもまた奇妙なことなのだが、僕はロケットのことが気になるあまり、彼女の容貌については正確な認識ができていなかった。あくまでも彼女はロケットを下げた女の子、でしかなかったのである。「確かに金正恩に似てるからな」という反応をした生徒もいたのだが、僕としては金正恩の容姿に対して肯定的な評価も否定的な評価もするつもりはない。とはいえ彼に似た女性にアプローチをかける男性が、変わった趣味の持ち主であるかもしれない可能性については、きっぱりと否定できる自信もない。

 ともかく僕は、彼女へのアプローチを挫折したまま五年間を過ごしたのだった。それぞれに進学した大学は示し合わせたように同じであり、この偶然を僕は喜んだ(彼女がどう思ったのかはわからない)。狙ったわけでもないのにゼミに出席すれば同じ教室にいて、サークルも地味な映画研究会(撮る方には一切関わることなく、ひたすら観ることと論じることに専念するという生産性の乏しいサークルだった。しかも部員の殆どは撮影用機材の名前も扱い方も知らないのに、映画の技術的な要素に対して一方的な断言を躊躇しない立派な口を持っていた。つまり、人間の共同体から煙たがられる性質を醸造するサークルだったのである)で、二人そろって幽霊部員をやっていた。そのうち僕と彼女は誰からも二人一組で見られるようになって、僕はといえば彼女に気のある素振りを絶やしたことはなかったのだが、彼女の方はそうした僕の素振りを断固として拒み続けた。ただ、この頃には普通に友人付き合いぐらいはするようになっていて、お互いの部屋に寝泊まりしたこともある。けれど言うまでもなく(大学生としてはあろうことか、かもしれない)二人はプラトニックな関係どころか、プラトニックを云々する段階にすら到ることはなかったのである。

 事態が進展したのは、お互いに就職をしてからのことだ。彼女は地方のメディアに勤めることになって、僕はというと一旦は図書館司書に収まり、その後なんとなく退屈したこともあって大学院受験を志し、隙を見つけてはの猛勉強の最中だった。これもあまり自慢するようなことではないが、その時の僕の勉強ぶりは凄まじいものだった。そうした僕の勉強ぶりをみて、好奇心の対象が移ったと安心したのだろうか、それとも彼女自身ビールを浴びるように飲みながら愚痴ってみせたような、メディア業界の地獄のデスロードに、彼女のまともな判断力が犠牲になってしまったからだろうか、ふと、彼女は酒の席で僕に言ったのだ。「まだ気があるなら、付き合ってみる?」と。

 僕は二つ返事でOKを出した(結局、OKを出すことになったのは僕だったのだ。本当は僕が、彼女からOKをもらうことをずっと待ち望んでいたというのに)。それから数時間後には僕はもう、先にシャワーを浴びて彼女のことを待っていた。そういう空気になるのが早過ぎないかと思いもしたけれども、五年も待ったのだし、彼女は僕が待っていたことを知っていたのだし、僕は僕が待っていたことを彼女が知っていたことを知っていたのだし、彼女は僕が待っていたことを知っているのだと僕が知っていることを知っていたに違いないのだ。つまりそれほどまでに相互の理解が進んだ五年間だったのなら、後は互いの肉体のことぐらいしか知るべきこともの残されていなかった――というロジックがその瞬間僕の中で構築されたのだが、その時ふと思い出したのは、それよりも知りたいと思っていたことの存在だった。なぜか僕は彼女に告白が受け入れられ(というより、彼女の提案を僕が受け入れたのだが)たことで、五年間もの間自分に育っていた好奇心を、一時忘れてしまったのだ。

 彼女が戻ってきた時、裸の胸にロケットはかかっていた。その時、僕は彼女の胸を見ていたのだが、それは彼女の顔と同じように、何らかの印象的な像を網膜の内側に結ぶこともなく、ひょっとしたら網膜の中には機械的に結ばれていたかもしれない像を脳が認識するようなこともなかった。つまり僕は胸の方に視線を向け、ロケットだけを見ていたのだ。

 女性は自分の胸が見られている時、その視線をはっきりと察知できるという。僕は女性になったことがないからわからないが、その話を聞く度にそんな超能力を持って生まれなかった自分を内心少し喜んでしまったのも確かだ。しかし、そんな能力があるのなら、もちろん自分に向けられた視線が何を捉えているかも、女性は理解できるのではないかと思う。彼女もまさしくそうだったのだろう。彼女は僕の視線が自分の胸に向けられてはいないことを理解していたのだろう。その時というのは、目を向けてはいけない時ではなく、むしろ向けるべき時だったというのに。僕は自分の好奇心の大きさを呪った。ほら、好奇心よりは下心の方が、何倍もましじゃないか。僕の言った通りだろ?

 彼女の容貌を僕は認識できないから、彼女がその時冷たい目をしていたのかどうかわからない。彼女が口を開いた時、その調子に冷たいものがあったのかもわからない。彼女はただこう言った。「なんだ、結局これなんだ」と。ロケットを掴みながら。それが胸の前で揺れていた。それから彼女はため息をついた。

「最初から気づいてたよ。君の目に入っているものが何で、何でないのかは。でも、長い時間をかけて、ようやく私の方にも目を向けてくれるようになったかなって、少し期待しちゃった。まあ、無理だったね。最初からそういう期待をすること自体、間違ってたのかもしれない」

 僕は今になって彼女の言った言葉をこんな風に全部再現できる。だけどそれは、その時彼女に対して申し訳ない思いがあったからではない。むしろこの時、僕の頭の中を占めていたのはばつの悪い思い、それだけだった。まるで悪戯を母親に見つかったような、というよりは、ベッドの下に隠したり、スマホの中にこっそり保存した、ゾーニングされるべき図像を親に見られてしまったような――だからその後に起こったことがなければ、僕はこんな風に彼女の言葉を再現することはできなかったに違いない。

「別に君が悪いわけでもないんだ。悪いのは私の成り立ちと、諦めの悪さだと思ってる」と彼女は言った。それから彼女はロケットの鎖を引きちぎって、僕にその中身を開いて見せた。そこに何があったのか。それは彼女のハートだった。僕が奪おうとしたすべてのもの。けれどももっと具体的で、直視を拒む性質の。

 そのハートはロケットの中で脈打っていた。血を流していた。どす黒い血を流しながら、生きた組織だけが感じさせるおぞましさを小さなロケットの中で輝かせていた。ゴキブリの脈動する腹をじっと眺めているような嫌悪感。残念ながら美しいものではなかった。

「幼い頃、悪い風邪をひいて死にかけた時、母が連れてきた祈祷師が、私をこんな姿に変えたの。これが私の本体、赤ちゃんの時の心臓が私の本質。言ってみればこの肉体は、ここから映し出されたホログラムのようなもの。魔術によって動くはりぼて。だけど、祈祷師は母にこう告げたの。この子は死んだ肉体で育つから、いずれは世にも醜い姿になる。それでも彼女を愛する人がいるなら、その心を愛によって得ようとする者が現れるなら、この心臓は再び肉体の中で脈打って、彼女は本来の姿を取り戻すことだろう。私は君を動かしているのが好奇心だってのは気づいてた。だけど、好奇心だけで五年も、私に付きまとうことができるとは思わなかった。だから、期待しちゃったんだよね」

 僕も自分が好奇心だけで動いていたのか、この時疑わしくなったが、それは単にその方がばつが悪い思いをせずに済んだからだろうか?

「別にこの姿で不自由はなかった。誰にも言い寄られないって、全然嫌なことじゃなかったし。時々ごみを見るような目で見られるのは平気とはいかなかったけど、概ね悪くない人生だと思ってたよ。でも、人間忙しくて心が弱ってくると、耐えられることも耐えられなくなるんだね」

 連日の過重労働で睡眠も四時間しか取れないのに、常に斬新なアウトプットを求められることに疲れ果てていた、と彼女は言った。それと同時に、仕事もできないのに目も愉しませられないのか、という態度を上司に取られ続け、その結果彼女の心はぽきりと折れたてしまった。この顔で採用されたのだから、期待されている役回りが目を愉しませることじゃないのは、彼女も当然視していたし、周りもわかっていたはずだ。それなのに結局、自分に、というよりは自分の性に求められるのはそれなのか。思えば生まれた時からずっと、私のこの性は、この顔と身体と最悪の相性を示し続け、それによって多大な不利益を被ってきた。いずれも好きで選んだわけではないのに、いつでもそれが私自身の獲得したものよりも重く見られるのだ。その時僕の顔が浮かんだらしい。「本来の姿」を取り戻せば、こんな思いをしなくても済むのか。私はもう、十分に努力してきた。それがこの姿のせいで認められないのなら、あとはもう姿を変えるしかない。もちろんそうなれば別の厄介ごとを招くことになるに違いないが、それよりも今、この瞬間の苦痛をなんとかしたかった。それに、僕と付き合うことも、そんなに悪いことではなさそうだったし。

 彼女の話を聞いている内に、僕は自分の中に良心が目覚めていくのを感じた。不純な動機から始まったことではあるが、彼女のことが人間的に嫌いなわけではなく、むしろ長い時間をかけて、好ましいと思うようになっていた。もし彼女を救うことができるのなら、その手助けになりたいという気持も確かにあった。僕は彼女にそう申し出た。これからは二人で生きよう。僕は君のためなら何でもする。本当に何でもする覚悟があるよ、と。すると彼女は僕の耳に唇を近づけて、そっと息を吹きかけるようにこう言った。「もう手遅れ。多分ね」

 彼女の息は鼻を覆いたくなるほどの匂いを僕の脳みそに運んできた。するともたれかかっていた彼女の身体がずるずるとした感触に変わったのを、僕は感じた。僕はそして、彼女の相貌を始めて認識した。認識しはしたけれども、だからといって彼女への幻滅が訪れるということもなかった。僕は彼女に唇でキスをした。その晩はそのまま、二人で並んでベッドに横になって夜を明かした。

 もしあの夜あの瞬間に、彼女の身体がずるずると腐って崩れ落ちていくような奇跡でも起きていたら、彼女との関係はある種の聖性を帯びたものとして、僕の中に記憶されていたに違いない。しかしそんなことが起こるのは、残念ながらフィクションの中だけなのだ。彼女は僕の腕の中で死んだ。けれどもそれは、この出来事があってから三か月後のことであるし、死因は単に、過労による心臓発作だったらしい。

 彼女が息を引き取った夜は、ちょっとした騒ぎにはなった。まだ若い女性が、既往歴の診断もないというのに、自宅で亡くなり、しかもそこに男が居合わせたのだ。ニュースで知れば、やじ馬は間違いなく事件性を疑うような状況だろう。けれども検死の結果死因ははっきりとして疑いの余地がなかったし、僕の側には動機らしきものはかけらもない。認めたくないことだが、警官たちの口ぶりから察するに、僕は彼女のような相貌の女性とある意味最後まで添い遂げたのだから、それだけでも罪を犯す可能性は彼らの頭の中からすっかり排除されているようだった。別に僕は彼女に同情したわけでも、彼女に仕えていたわけでもないのだが、警官たちは何かしらそこに、不均衡なものを見出したらしかった。彼女が亡くなった夜、僕は警察に連行され、それなりに不快な取り調べを一晩受けはした。けれどその時の無礼そのものの警官の振舞と言葉も、最後に僕に向けた奇妙な同情や崇拝やあるいは軽蔑の視線ほどには不快ではなかった。彼女の遺体は実家に引き取られ、近親者だけを集めてささやかな葬儀を行ったらしい。僕は招待されなかった。彼女の言っていたことのどこまでが本当なのか、怪しげな祈祷師の話や彼女が死にかけたという逸話が実際のものなのか作り話に過ぎないのか、僕はとうとう確かめることができなかった。もっとも、それが作り話であったとしても、そのことを暴いて一体どうなるだろう? 僕はあの告白があってから数か月、彼女と初めて心を通わせることができたような気がした。だからそれで十分だ、それ以上を望む必要はどこにもない、と思っていた。

 しかし、すでに書いたように、何といってもフィクション程罪のないものはない。謎のまま秘しておくべきことは秘され、暴かれるべきことだけが暴かれる。現実はそんな風にはできておらず、むしろその反対だったりするのだ。僕は彼女の死から数か月後、大学院に合格した。英文学の研究をするその院には同期で入った学生が一人いて、僕より一つ年下のその女の子と僕は出会ってすぐに仲良くなった。同期が二人しかいなかったこと、互いの専門が同じで共通の話題に欠くことがなかったこと、そして彼女に異性経験が少なかったことが、おそらく要因なのだと思う。そういう条件だけで他人と付き合うことを決められる人生最後のチャンスということも、お互いにあったのだろう。ともかく彼女は僕の家に遊びに来るようになり、次第に彼女の荷物が僕の部屋に増えるようになった。運んできたものを置くために僕の荷物を整理している時、彼女はどこからかあのロケットを見つけてきた。持ち帰った記憶などまったくなかったのに、さも当然という顔をして僕の部屋に入り込んでいたらしい。「これ、『分別と多感』に出て来るやつみたい」と彼女は言った。「ひょっとして、前の彼女の髪の毛とか入ってたりして」

 制止する間もなく、彼女はロケットを開けてしまった。すると「なにこれ」と彼女は言った。僕も出て来たものを見て、同じ感想を持った。僕の記憶では、そこに収まっていたのはあの人の心臓、子どもの頃のまだ小さな心臓であるはずだった。けれどもそこに収まっていたのは、単に古い血を吸って赤黒く染まった、脱脂綿の切れ端としか言いようのないものだったのである。

 彼女の「なにこれ」は僕のニュアンスとは微妙に異なった「なにこれ」だった。彼女はこれを経血を吸ったナプキンの切れ端だと考えたらしく、突然激怒して僕を散々、「気持ち悪い」といった類の言葉で罵倒して出て行った。数日かけて彼女の荷物は僕の部屋からすっかりなくなり、僕たちは必要な時以外会話をしない関係へと落ち着いた。僕は恋人の生理の跡を大事に保管するやばい人間という評価に、彼女の中で確定したらしかった。もちろんそんな桁外れの誤解は、解こうとすることで事態をますますややこしくする。だから僕は抗議も反論もすることなく、そうした評価に甘んじることにした。結局のところ、そうしたすべてが僕の人生に何らかの大きな影響を及ぼすこともなく、僕は大学院を修了すると、結局地元の図書館司書に収まった。生活が苦しいこともあって実家に出戻り、今では朝晩両親の嘆き節を聞き流すことを日課にしている。その中には「いい加減結婚を考えないのか」というのもあり、これにはどう答えたものか頭を悩ませている。経済的不安、それはもちろんだが、そんなことを言い出せば、二人の嘆き節は悲嘆と愁嘆の執拗な反復音形となってとどまることなく鳴り響き、僕の自尊心は跡形もなくえぐり取られてしまうはずだ。では、心を決めた人が胸の中にいる? 言うまでもなくあの彼女とのことはそれほど大きな思い出になっているわけではなかったが、あのロケットを捨てられないでいる以上、僕は自分の考えに反した心の現実を認めなければいけないのかもしれない。

 くどくどと言い訳をしてしまったが、簡潔に言えば、どこの世界に血の付いた脱脂綿を大事に保管している人間と、結婚まで考えようとする人がいるだろうか? そういうことだ。仮に何かしらの偶然が再び僕を誰かとの絆に導いても、破局はいつも同じように、同じ形で訪れるに決まっているのだった。

 そうそう、これを書きながらずっと頭の中に浮かんでいたことわざがある。「好奇心は猫をも殺す」だ。僕の好奇心は誰も殺しはしなかったはずだが、ひょっとすると何か、大事なものをどこかで殺してしまったのかもしれない。これもまた言い分けじみているようだが。

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