2024/09/01【後日譚】解体予定地 (およそ4700字)

 夏休みも終わりが近い。彩とリティスは『レディ・メイド』でもうすぐ新学期だと話題に出しているし、オオヤと岩谷は金勘定や今後の計画を進めている。ハマカンは新たな広告塔のおかげで忙しくなり始めた。


 手隙の蓮堂は網を張っていた。誰の依頼でもなく、助手もつけず、個人的に。根拠も信用もなくほとんど願望に近い考えで、しかし半ば確信して、ただ一人を待った。


 とある集合住宅の地階、路面店となるテナント。


 ここ二十五年で六回目の、会社が立ち退いて誰もいない期間だ。荷物も什器もなく、不法侵入に適したいまなら可能性があるから、そいつが現れる日を蓮堂は待ち続けていた。今回は建物の老朽化による解体も決まっている。最後の二ヶ月だ。


 裏口が開いた。電池式の耳が蓮堂の手元へ囁く。充電式の目が中にいる人物を見せる。キャリアウーマン風の一人、画質は粗いが間違いない。蓮堂はパソコンを閉じて隠れ場所から動いた。


 タイトスカートにパンプス、いかにも無害な関係者を装っているが、蓮堂の目は誤魔化せない。彼女と同じく用意していた合鍵で扉をくぐった。


 パンツスタイルの蓮堂もやはり、先んじて下見に来たホワイトカラーらしき顔で振る舞う。善意の第三者が見れば社風を異にする幹部が共同で認識をすり合わせるように思わせる。


 実態は、その女と話をしたいだけだ。床は白く染まり、壁と柱と段差だけの空間で。


「来ると思ったわ、あんたなら」


 彼女は兎田卯月とだ・うづき、蓮堂の元恋人にして、今は裏の住民。


「邪魔か?」

「当然。けどこの場だけは、あんたがいてこそな趣が」兎田は部屋の隅を眺めた。「あるわね。認めたくないけど」


 そりゃよかった。蓮堂は奥の、L字の段差に座った。ベンチのようにちょうどいいのは高さだけで、場所も長さもベンチとはかけ離れたこの段差を、誰も改修しなかったらしい。あっても困らない事実が半端さに拍車をかけている。


 斜めに向き合う場所を促すと、兎田も座った。あの頃よりは遠い位置に。


「変わらないよな」名前を呼ぶには勇気がなかった。「綺麗なままだ。よくご主人様の許しが出たな」

「あんたこそ変わらない」名前を呼びたくもなかった。「ストーカー紛いはやめろって言ったはずでしょう」

「覚えてる。お前が迷ってた頃だ」

「私は、迷ってないから」


 取り繕ったつもりの間があった。蓮堂なら些細な息遣いも見つけられる。相手が兎田なら心拍数までわかる。客観的にはたかだか三年にも満たない付き合いでも、主観的には多数の要因のおかげで深く長い記憶になっている。お互いに。


「もう二十二年前か。お前が消えてから」

「そうよ。大学までと同じ。高校で三年だけのあんたより、ずっとずっと長い」

「大学、どこだよ」

「東大。知らなかったの?」

「傷心してたからな」

「意外と小心者なのね。気味が悪い」


 兎田の背後は壁で、蓮堂の背後には空間がある。エスコートと同じ、背後の気配を壁だけにして安心させ、壁を遠くに見せて閉塞感を和らげる。蓮堂には染み付いた習慣であり、兎田には久しぶりの感覚だった。


 口では気丈ぶっても、態度は柔らかなままでいる。人は相手に合わせて振る舞いを変える。蓮堂と向き合うペルソナは今でも同じ、敵対よりも痴話喧嘩に近い。


 蓮堂と別れてからの兎田は相手を転がす側だった。バニーガールとして、ナンバーワンとして、暗殺者として。蓮堂と会う前もクイーンビーとして、いつでも主導権を握り続けてきた。


 勝ち慣れた者は負けられる相手を求める。兎田には主導権を空け渡せる相手が生涯で二人だけいた。その間は心身を休めていられた。


 一人は蓮堂、もう一人は今のご主人様。


「ご無沙汰じゃないか?」

「何? 口説き直す気?」

「居ないんだよな。とある男が。誰の目にも映らない歩き方ができるか、日本のどこにもいないか」

「探偵のデモンストレーションね。私の口には滑り止めがついてるから」

「残念だ。が、こうしてると思い出すね」


 蓮堂は記憶を見て空間を指した。


「あそこにゴミ箱、冷蔵庫、冷凍庫、スナック菓子、特価コーナー、そして動画撮影席」

茣蓙ござで遊ぶ子もいたわね。本棚も」

「だな。床が緑の頃だ」


 二人が初めて話した夏に、この場所でゲームをした。

夏休みも、新学期も、秋休みも、新学期も、冬休みも。遠くのイベントや旅行へ行く計画さえここのテーブルを借りた。


「あの子のことだけど」


 リティスの話だ。


「うまく使ってやってよ。こっちには着いてこられないみたいだけど、あんたなら」


 裏切られてさも計画通りのような言い方は、改めて兎田の側へ戻る可能性を警戒しろと言うようなものだ。気づかないような間抜けでもなし、蓮堂はひとまず信用しておく。


「負け惜しみ、でもなさそうだな」

「情が移るって他人事だと思ってたけど。たくさんの子供に囲まれてると変わるものね」

「お前らなら殺処分くらいできると思ったが」

「できても、あえてしないのよ」


 追求は控えた。手間が大きいのは知っている。人間は巨大な動物であり、生命活動によって安定を維持している。五〇キログラムもの塊を処分するには、高温で焼き尽くすか、圧力鍋などで溶かすか、動物に食わせるかになる。そのどれもが広大な設備を必要とする。不自然なく用意するには条件が多い。


「それにあの子が本当に、友達を百人も作れたなら、あんたも誇っていいわ。教育の賜よ」


 つい先日の話が伝わっている。遠回しだがリティスは本当にスパイではないと言いたいようで、すなわち言いたい理由がある。


「耳が多いな」

「石田って子にはアプリの見直しをさせた方がいいわ。私たちの手先でもないのに、便利な踏み台よ。自分で気づいてないけど」


 スマホが普及してから言われ続けていた話だ。小さな箱の中ではどんな手順で何を処理しているか、人々は何も知らず関心も持たずに任せきっている。大抵は規約に書かれているが、さらに大抵は読み飛ばして合意している。そのくせトラブルが起これば乗っ取られたと言い始める。本当は自主的に合意して差し出した加害者なのに、自分自身さえも騙して被害者だと嘯く。


 加害者になれば改善できるが、被害者気取りの者は自分の粗相から目を背け続ける。自称被害者は最悪の加害者だ。怠惰と善良の区別を失い、持てる知識と技術と交友のすべてを責任転嫁に注ぎ込む。


 蓮堂は久しぶりに味方に回したくない者を招き入れた。蓮堂には石田を追い出す選択肢もあった。目先の講義に気を取られての失敗だ。兎田とリナと彩が奇跡的に有能続きだったために感覚が麻痺していた。人間の九五パーセントは救いのない無能で、残り五のうち四は必死に頑張ればどうにか滑り込める程度の凡夫だ。


「その顔、あんたの考えがよくわかるわぁ」

「聴いてたなら、感想も聞かせてもらおうか」

「ただでは起きない抜き打ちテストね」

「あいつらは『タメになった』しか言わん。役立たずどもが」


 兎田が満足げに微笑む。おちょくっているだけかもしれないが、蓮堂には貴重な付き合える相手なので、それも心地よかった。


 昔の蓮堂は尖ってた、と言われる。今は丸くなったとも。垣根をこえてストレス源と触れる機会が減ったからだ。特にこの五年は探偵事務所の客さえなくして、閉じた人間関係と書類だけを見てきた。


「やっとわかったわ。蓮堂のその顔がいちばん好き」

「私はいつもこの顔だが?」

「違うのよね。すべてに苛立ってるような、自分だけが人間で他は家畜のようなその顔から久しぶりに人間を見た瞬間みたいな顔」


 つまりは、野心家の顔。思い返せば兎田との仲が徐々に冷え始めた頃は苛立つ機会が減っていた時期と重なる。受験勉強と称して努力ごっこに勤しむ連中が蓮堂の前から姿を消した。残ったのは怠惰ゆえに何も見せない虚無の連中と兎田だけの快適な頃だった。


「蓮堂さえよければ、こっちに来てもいいのよ」

「これまでのすべてを捨ててか?」

「コンコルドの誤謬、好きでしょう?」

「こっちはこっちで、有用な繋がりもある」

「どうして百人も友達を作るのよ。一人の友達がいれば、それで百人の友達を盗めるのに」


 兎田によると、諜報活動と船旅の繰り返しで、探偵の技術もプログラムの扱いももう一人いれば大助かりだ。電子機器がいくらでもあるし、供給網も安定している。何より有能な者だけが揃っている。話が合う相手を求めるのは互いに同じだ。


「考えておく」

「今年の十月十日、午前八時一分七秒に同じ場所で飛び込んで」

「は?」

「わかるでしょ?」


 わからないなら、いらない。実力主義の選別だ。答えを間違えれば死ぬ。技術と自信と根気のすべてを計る。


「わかるが」

「よかった。楽しみにしてる」


 時間はたっぷりある。考えられるし、準備もできる。


 話を終えて沈黙を愉しむ。たまに車が通ると風が起こり、シャッターが音を立てる。ずっと昔から変わっていない。


 変わらないといえば、この場所の認識も。書類を見る場所だった時期があるし、連絡の取次をする場所だった時期もある。蓮堂と兎田にとっては、遊び場だ。


「どうだ、久しぶりにひと勝負でも」

「持ってきてるの?」

「レガシーだ」

「奇遇ね」


 出会いは蓮堂の趣味に付き合う形だった。解体を前にして最後に訪れるなら持ってくると思っていたし、持てる数に限りがあるなら長く使えるひとつを選ぶ。


「『汚染された三角州』から『Volcanic island』、『秘密を掘り下げる者』だ」


 先攻は蓮堂で、快調な滑り出しを見せた。兎田はその出鼻を挫く。


「『血染めのぬかるみ』から『Volcanic island』、そして『稲妻』ね」

「奇しくもミラーマッチか」

「どうでしょうね」


 互いに口車には乗らず、似たカードで始まっても別の姿のデッキを見せ合った。蓮堂は小粒の攻撃力と妨害の山で削り続ける戦法、対する兎田は防御力と息切れ防止で優位を得てから巨大な攻撃を叩き込む戦法だ。


 そうとわかってからも攻防は続き、どこで傾いてもおかしくないスリルを愉しむ。素直に対処すべきか、それとも対処を誘って本命を通すつもりか、どんなに些細な情報でも使って答えを出す。直前までの行動との整合性を見て、あるいは整合性がありすぎる点を不審に見て、主導権を奪い合う。


 決定打がない攻防に、ゲームの外からの干渉があった。


「ごめん、蓮堂。終わりみたい」

「だな」


 窓の外からの足音へ目を向けた。このテナントの窓は、内側に倒す形で開閉する。子供やこそ泥の出入りを防ぐ設計だが、技量があれば理論上は出入りできる。


「お楽しみの所、失礼します」


 窓から飛び込んだ彼女は黒田凛丹くろだ・りんに、先日の作戦では突入の気配を嗅ぎ取り見事に逃げ仰せた相手だ。上質な和服と短く揃えた髪は一見するとお上品でも、汚れ仕事への躊躇がないと調査から推測している。


「ラビさん、時間です」

「わかってるわよ。もう出る」

「そして蓮堂さん、この度は協力ありがとうございました。二名は無傷です」


 蛍火の術だ。蓮堂が裏切り者かのような情報を握らせようとしている。録音があり知識不足なら騙せるが、蓮堂はどちらでもない。


「ご丁寧に。相手は選べ」

「未熟者ゆえ、皆様から教わるばかりです」


 凛丹は恭しく頭を下げたら、同じ窓から飛び出した。どこにも掴まらず飛び越えて、角度を窓枠に合わせて。その和服に埃はつかないし、窓枠の埃は偏りなく薄く積もっている。


 同じ動きで兎田も出て行った。蓮堂だけが解体予定地に残った。手袋をつけて、窓を閉じて、出たら鍵を閉める。


 白昼夢のようなひと時だった。一瞬の確かな現実は後味を濁す前に飛び去った。余韻に浸るには広すぎて、いつまででも閉じこめられそうな吸引力があった。


 尻が貼り付く前に歩く。太陽はまだ高い。

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