2024/05/30【後日譚】蓮堂先生のありがた〜いお言葉 (6500字)


 夏季講習。多くの小中学生が嫌う言葉だ。


 せっかくの夏休みが、気持ちよく眠れるはずの朝が、起きたら遊んで遊び疲れたら寝る計画が、机と椅子とノートと鉛筆に吸い込まれる。しかも外からは楽しげな声が聞こえてくる。


 そんな中で机に向かうのはクラス三〇人のうちとびきりの数人だ。普段は馬鹿扱いされているし、自分もそう思っているから、自分も同類だと突きつけられる。


 夏季も講習も単体では特別な意味など持たないのに、組み合わせれば嘆きが籠った邪四文字だ。


 ただし、経験が変われば話も変わる。


 あやもリティスも、クラス三〇人のうちとびきりでないほうの多数だった。より尖った言い方では、賢い側へとびきりの数人に含まれていた。夏期講習とは無縁であり、ゆえに憧憬がある。普段の授業とは流れが違うのか、脇道でロマンスがあるのでは、共に歩む中で育まれる友情など、知らないほどに空白で想像が広がる。


 午前一〇時の蓮堂探偵事務所で、たったひとりのために夏季講習が始まる。


「始めるが、だ」

「うす。お願いします」


 蓮堂の目はまずリティスへ。ノートとシャープペンがあり、辞書や検索に使うタブレットが文鎮を兼ねる。紆余曲折を経た今どきの環境そのものだ。


 その奥に座る、今どきではなく構えた連中に目を移した。


「彩はいい。隣じゃないのは机の都合だ。一緒に聞いてろ」

「いぇい。たのしみ!」

「問題はダイニングテーブルのお前ら三人だ。まずオオヤ、何を聞きにきた」


 彼は伝票サイズのクリップボードを手帳にしている。椅子を蓮堂へ向ければ卓が後ろになるので、体を捻るよりも手元に持つほうを選んだ。


「そんなの決まってるさ。蓮堂くんが語る基本の再確認、大切だろう? 復習は」

「だったらその半笑いはなんだ」

「あの蓮堂くんが先生なんて、柄じゃないと思ってね」

「探偵を舐めるな。わからない理由を見つけて、合わせた説明を出す。同じだろうが」


 目線はすぐ奥へ。こちらは卓を広く使えるのでタブレットと外付けキーボードをノートパソコン風に構えている。ご丁寧にカメラが水平に近い。


「お前もだ岩谷。長く見ても十年もないだろ。復習には早すぎる」

「そうですけどね。凝り固まるのはよくない。多様な知見は増えるほど助かりますね」

「なるほどな。そういう体だな」

「そうですね」


 リティスは敵の裏切り者で、蓮堂やオオヤも秘密を知る。岩谷にとっては監視対象だ。


「で、その隣の。まず誰だお前は」


 服装から岩谷の仲間らしい、初対面の若い男がいた。彼は立ち上がり、深く礼をして話した。


「初めまして、僕は石田と申します。つい先日より岩谷さんの部下として配属されました。ここには皆様との親睦を深めたくてお邪魔しています」

「そういう体だな。念のためだが今日の主役はリティスだ。邪魔だけはするな。お前ら全員だぞ」


 岩谷は黙って頷いた。

「もちろんです」と石田が、

「誰も邪魔なんかしないさ」とオオヤが、

「そうそう」とあやが。


 まあいいが、と言って始めかけたとき、階段を登る音が聞こえてきた。感覚から急ぎの様子で、本日休業の看板をどけて、ノックの後に扉が開く。


「飛び入りお願いします!」


 彼女は吉田友美よしだ・ともみ、あやが剣道を習った師範であり、その縁はかつて蓮堂がストーカー事件を解決したと日まで遡る。


 あやと手を振り合う様子を横目に、蓮堂は打ち解けた粗雑さで言い捨てた。


「どこで聞きつけたか知らんが、席はないぞ」

「お邪魔します」


 吉田は応接用の席に座った。乗りださずには蓮堂の手も見えないが、同時に蓮堂からも見えない。呆れ顔の蓮堂は今度こそ始めようとした。さながら情事に耽る小娘のように、階段の音を気にしながら。


「この日本で元気に生きる上で、覚えておくべきものが三つある。民主主義、資本主義、そして根性だ」


 リティスはノートに書き写す。記憶は脳だけでは足りず、指にも覚えさせる。芯が削れる感触と手を動かす感覚の合わせ技が、うろ覚えのまた聞きを経験に紐づく記憶へ変換する最初の一歩となる。


「待て、三つの主義じゃない。根性は主義じゃない。文字を書く手間をケチるな。より大きな手間になるぞ」

「そうなんすか」

「特に最初はな。手間の相場がわからないのに手間を減らすと、より大きな手間を払っても見落としちまう」


 リティスの顔色は、あやの席からは見えないが、蓮堂の目線を見ればおおよそ検討がつく。リティスの顔と手元を往復して、答えを出したように手元の資料を並べ替えた。


「順番を変えよう。根性の話を最初にしてやる」


 パワーポイントを示しながら話が始まった。


 根性について、勘違いするなよ。負けないことでも、投げ出さないことでも、逃げ出さないことでも、信じ抜くことでもない。情緒は脇に置いておけ。


 っこのさがと書いて根性だ。聞いたことあるだろ、負け犬根性、奴隷根性、お客様根性とかだ。捻くれた考えの奴は何も成し得ない。


 自己成就的予言じこじょうじゅてきよげんといって、どうせ失敗すると思って決めると、成功させられるはずの手段を見落としちまう。経験があるな? 成功するかもと思ったから手を尽くした、手を尽くしたから成功した経験が、記憶に新しいな? とある友達が、成功するかもと思って手を出してみた。その様子を真正面から見てきたはずだ。もしどうせ失敗すると思っていたら、手を抜くほど楽だが、それで成功するものはひとつもない。


 根性以外のすべては根性を節約するためにある。技術も工夫も勉強も、限りある根性を使って初めて意味を持つ。


 面倒でやれないなら、簡単になる方法を組み立てろ。組み立てるのが面倒なら、組み立てるのが簡単になる方法を組み立てろ。「根性を入れ替える」のは無理だ。根性の使い方なら替えられる。


 元手となるひとつは分けてやる。私も、彩も、オオヤも、岩谷も、最初の一歩は何度だって助けてやる。二歩目から先は自分でやれ。


「蓮堂さんそれって、もし元手が手に入らない生まれだったらどうなるんすか」

「どうなるだろうな。日本なら小学校や中学校で教育を受けられるが、算数を知らなかったら騙されても気付けないし、理科を知らなかったら騙されても気付けないし、国語を知らなかったら騙されても気付けないな」


 これは修辞学、言葉が持つ印象が文章の読み取り方を左右する。蓮堂は「騙されても気付けない」を繰り返した。現実はいくつもの面を持つが、言葉にできるのは時間や空間の制約を抜けた範囲だけだ。読み飛ばすか、読み飛ばさないか、選べるのは現実を生きる人間だからだ。どれを読み飛ばすかを決めて、どれを読み飛ばさないかを決めた結果が言葉になる。


「うちって、これでも恵まれてる側だったんすね」

「間違いとまでは言わんが、大事なのは十分か不十分か、だぞ」


 もし他人と比べて決まるなら、東京と深圳シェンチェンとカリフォルニアを核ミサイルで焼き尽くすといい。七〇〇〇万人が死に、世界中で電子機器に頼ったすべてが破綻する。一方で、影響を受けない地域や文化圏もある。絶対値は明らかに下がるが、相対的には確実に上がる。それをよしとしないならば、他人と比べるのはやめたほうがいい。


「はいはーい、蓮堂、しつもーん」


 あやが手をあげた。


「どうぞ」

「さっきの根性を入れ替えるあたりの話ってさ、あたしが無い脚を生やそうとしてもうまくいかないけど、義足を使い始めればうまくいくって話だよね。ここでダサい車椅子が出てきてもまた別の結果になるだろうし」


 きっと気を遣って言わなかった話は、自分から言っていく。


「言ってみれば、そうだが」

「おっけ、すっきりした」

「本当にそれでいいのか、彩は」

「今日の主役はリティスでしょ。脇役は置いといてさ、ね」


 蓮堂は頭が痛そうな顔をしているが、使える例は使う。サイボーグ・ジョークは生存戦略でもある。誰にでもある違いの範囲を拡張する。ほくろの位置や爪の形は話題になる。骨格タイプや肌の色も話題になる。蓮堂が高校生の頃は性的指向がまだ語りづらかったと聞いているし、嗜好との混同もあったらしい。ならば手脚の有無だって、その延長上に持ち込む。半端に気を遣われるより、互いの不足を笑い合えるほうがいい。楽しさは仲間になり、仲間は強さになる。憐れみの顔で見下す連中を押し返す。


「彩への話は後でたっぷりしてやる。民主主義の話いくぞ」


 パワーポイントのページを進めた。


 民主主義について、勘違いするなよ。多数決でも声がでかい奴の勝ちでもない。全体主義や権威主義は脇に置いておけ。


 自分の意見を言える奴が強いと思われているが、実際はその裏だ。誰もが意見を言えるお膳立てを維持している中で、勝手に気後れして自分の意見を言えなくなる奴が弱い。欲しいものを欲しいと言え。嫌なものを嫌だと言え。何も求めない者には何も与えない。


 だがここで注意だ。求めるには手順がある。意見はただのお喋りとは違う。行動で示せ。コンビニで買い物をするときに世間話から始める奴はいないよな。商品を取ってレジへ持って行ってお金を出す。服を買いたいならコンビニではなく服屋へ行く。あまり知られていないが、買い物は無言でもできるぞ。求める方法がわかっているからだ。


 デモやストライキは、聞き覚えくらいあるな。数を集めて、手続きをして、意見を示す。SNSで息を巻いてるのは意見じゃない。まずは手続きがあるとだけ覚えておけ。詳しい内容は次回だ。


 あちこちの王様が集まって協定を結ぶのはイメージできるだろ。穏和な王がいる。義理堅い王がいる。遊び呆けたクソ王がいる。それぞれが同盟を組みたい相手と同盟を組む。


 民主主義は誰もが王様だ。意見の通し方を知らない王は属国になり、八方美人な王は通り道になり、乱暴な王は孤立する。世界史の授業で聞いた話が自分の身にも起こる。


 戦争も起こる。例えば選挙は誰も死なない戦争だ。


 本物の戦争は数が多い側が勝つ。少ない側は数をせいぜい時間稼ぎしかできない。だから一時的にでも数を数を増やす。同盟国を頼るとか、傭兵を雇うとかな。だが扱いが悪いと傭兵は敵側へ流れる。乱暴者は同盟国にも傭兵にも逃げられて負ける。


 もうわかってるな。選挙も同じで、傭兵を多く集めた側が勝つ。勝って意見を通すか、負けさせて意見を通させないかだ。死なないから安心して傭兵になるといい。もし勝ち馬に乗りたいだけの一般人なら、どんな重税でも受け入れろ。


「はいはーい、蓮堂、しつもーん」


 蓮堂のシワがまた増えた。


「誰もが王様なら、臣下や民もいるよね。名産品を作るとかの」

「そうだな」

「蓮堂のことだから、手脚が工房になるって言うでしょ」

「もう見えてきたぞ。彩は次に機械の兵団と言う」

「あたしの場合は女王に仕える機械の兵団だ。ハッ!」

「次いくぞ」


 リティスのノートには文字と空白が並んでいる。後で理解を深めるごとに書き加えるまで想定している。黙っていてもわかる。行動で示した。この改行はデキる書き方だ。


「資本主義、これも勘違いするなよ。資本は金って意味じゃない」


 金じゃないなら何が資本か。答えは持っているすべてだ。金も、道具も、知識も、経験も、健康も、友達も。すべてが資本だ。体が資本とか文化資本とか、あれは比喩でなく事実だ。


 世の中はわらしべ長者で成り立ってる。持っている資本を別の資本と交換する。


 最初に持ってるのは時間だけだ。学校や図書館で時間を知識に変える。アルバイトで時間をお金に変える。本屋でお金を知識に変える。


 代表的なわらしべ一覧表は用意したから書き写しておけ。抜けてるものを自分で見つけろ。


時間→お金

お金→道具

道具→時間

時間→知識

知識→友達

友達→趣味

知識とお金→趣味

趣味と時間→経験

経験と道具→技術

技術とお金→資格

資格と道具→仕事

仕事→お金

仕事→友達

仕事→経験


 この表では、知識を友達に変えているが、ここが面白いところだ。


 知識は変えた後も手元に残る。こういう『変えたはずなのに手元にも残っているもの』がちらほら出てくるから、しっかり見つけて積み重ねていけ。


 時間をとった。あやとリティスが書き写す。遠くではオオヤも、吉田も書き写している。岩谷も静かだがキーボードを操作している様子がある。


「オオヤ、その顔はなんだ」


 どんな顔か、注目が集まった。少なくともあやが顔を上げた時点では微笑ましいものを見たようににやけている。


「あの蓮堂くんが『お金』って、かわいらしくてね」

「文字にしたら仕方ないだろ。きんと紛らわしい」

「せっかくだから、お時間、お仕事、それから──」

「おオオヤをお絞めてほしいようだな」


 初めての夏季講習は賑やかに進んだ。普段の学校と同じ、ムードメーカーがおとぼけ発言をして、笑いながら書いたり、黙って書いたりする。あやにとっては行く道だ。大人もあまり変わらないみたいで、少し肩が軽くなった。


「ここまでの話を踏まえて、宿題だ。期限は十年後」

「はい」

「彩もだ」

「お? はい」


 くすくす笑いが聞こえてくる。蓮堂の顔に梅干しが増える。


「友達を百人作れ」

「はぇ!?」

「宿題はこれだけだ。健闘を祈る」

「ちょ、多くないっすか。彩さんならともかく」

「数字をそのまま扱うから大きく見える。根性の節約どころだ。扱いやすい方法を作る実例だな」

「じゃあ最初の一歩なので、どうかお手本を! どうか!」


 蓮堂の梅干しが減った。相手の話を覚えておくのは人気取りの基本だ。


「趣味がひとつあれば友達が五人はできる。掛け算はできるな? 趣味が二〇なら友達百人だ。もしくは、趣味が五で二〇人ずつでもいい」


 目標を立てるには、行動を具体的にする。友達百人は求めている結果であり、そこへ繋がる行動を別で用意する。


「因数分解もできるな? 十かける十も、四かける五かける五も、それぞれ百だ。数字で示しているのが何かの候補を自分で絞って自分で決めるといい。その繰り返しで友達を百人作れ。百人を作れるならやがて二百人にも三百人にもなる」

「念のためっすけど、数がそんなに重要なんすか」

「付き合い続けるにはいくつもの技術が必要になる。一人に時間を取られれば他の友達がいなくなるし、ケチすぎても友達はいなくなる。片手間の空き時間でやる手段を編み出すわけだが、さてはびびってるな?」


 リティスは人付き合いが苦手な側だ。しかしあやは触れてきた。苦手な理由はまず経験にある。少しずつ重なった課題をまとめて示す言葉として、友達百人は端的に感じた。


 一人ずつの付き合いを百回なんて、誰にもやってられない。十人グループを十個なら、少なくともあやならやれる。学校の仲良しグループチャットだけで小中高あわせて三〇人がいる。蓮堂を経由したらこの場の皆がいる。吉田師範を経由したら当時の仲間がいる。


 今までやったのと同じだ。場所ややり方が新しいだけ。


「友達がいないと、友達の価値がわからなくなる。顔馴染み程度でもいい。駅や行列なんかで居合わせたときに『おっす』と挨拶を交わす程度でいい。用件があったら挨拶の後に付け足せるが、挨拶ができない奴には用件を足すチャンスもない」

「そりゃ、そうっすけど」

「今日の話の総まとめだ。資本の交換先がある。同盟を組める相手は多いほどいい。そして、難題を解決できる根性を身につけろ。逃げる以外の技術があれば成し遂げられる」


 リティスのノートにもしっかり書かれている。同盟相手があやだけではやがて立ち行かなくなる。あやの同盟相手は他にいくらでもいる。


「今日の講座はこれだけだ。オヤツにするぞ。幸か不幸か聴講生どもも食べられる量がある。冷蔵庫にな」


 続きはその後に、と蓮堂の言葉を半ば遮った。

「やったー!」とあやが、

「やったー!」とオオヤが、

「やったー!」と吉田が、

順々に立ち上がった。


 皿を出して吉田が配り、フォークを出してオオヤが配り、あやがお待ちかねの紙箱を置く。テーブルの中央にドーナツの山が築かれた。


 四人用のダイニングテーブルに強引に七人を詰め込まんと岩谷のタブレットを追い出す。示し合わせたような手際を、家主の蓮堂と主役のはずのリティスは口も挟めずにただ眺めていた。


 夏季講習の参加者は二通りに分かれる。気楽に帰る者と、げっそりして帰る者。ありがた〜いお言葉に続いてありがた〜い甘味を味わい、六人は満足して外へ飛び出していった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る