「逆です」
あまくに みか
「逆です」
「セクハラじゃないよ!」
思い詰めたような声で、課長は唐突に叫んだ。
「逆だと思う」
両眉に力を入れて、課長は真一文字に口を結んだ。その表情は達磨大師のようであった。
「……逆?」
意味がわからず、私は聞き返す。
課長は達磨大師のままムンッと指をさした。その先を追っていく。
「……!!」
絶句した。今度は私の方がダルマさんみたいな目をして、顔を赤く染めていく。
右脇腹のあたり。ブラウスの洗濯表示ラベルが、白旗のように揺れていた。慌てて胸の前から下に一列で整列しているボタンを見る。
閉じられている!
一体、どうやって閉じたのだ!!
ブラウスの「前後ろ」を反対に着てしまったのではなく「表裏」を反対に着てしまっていたのだ。
頭がクラクラした。
意識が遠のいていく中、朝ベッドから起きた時の記憶を掘り起こしていた。
朝起きて、ハンガーから白い半袖のブラウスをとった。そして、きちんとボタンをして、メイクして、朝ごはんを食べて、出勤した。
なぜ、ボタンをした時に気がつかなかったのか。ある意味、手先が器用ではないか? などと少しだけ感心してみる。
表裏逆であることに気がつかない私は、ペロリンと洗濯表示ラベルを洗濯物のごとくなびかせながら駅まで歩いた。
そして満員電車に乗り込む。
私の後ろに立った人は、降車駅までずっとこう思っていたに違いない。
「こいつ、ブラウス表裏逆だな。なのに、しっかり襟を折っている」
会社に着いて、課長に挨拶をした。
いつだ。
いつ、課長は気がついた。もしかして「おはよう」の時点で気がついていたのではないか?
社長が出社して、秘書の私は社長の元へ行った。
今日のスケジュール確認と、アポイントなどの調整をその場でした。五分以上は社長の部屋にいたはずだ。
社長は気がついていただろうか。
いや、秘書の服装なんかきっとどうでもいいはずだ。会社の業績に比べたら、秘書の服装なぞとるにたらないことだ。アハ体験みたいなもんだ。きっと、そう思ってくれたにちがいない!
社長の部屋を辞した後、他部署のフロアに用件があって行った。
右側に総務部。左側に経理部。そのど真ん中に通路があり、私はヒールをカツカツ言わせながら通った。ランウェイを歩くモデルのごとく歩いた。洗濯表示ラベルをなびかせながら。
同期よ。なぜ、気がつかなかった。
いや、仕事が忙しかったのだろう。きっと、みんな仕事が忙しかった! だから、誰も気がついていないはずだ! よかった! 万歳!
そして、時刻はお昼前の現在に戻る。
課長は午前中、言うか言わないか迷ったに違いない。私が他部署のフロアへ旅立って行った時も「言うか言わないか。もしかして、そういうファッション? いや、尋ねるのもセクハラでは?」と葛藤したに違いない。
否、これは部下である私による「裏ハラ」(服を裏にして着てしまうというハラスメントのこと)である。申し訳ない。
ここまでをコンマ一秒ほどで思い出し「キャー」っと叫び出したい気持ちになったが、ぐっとこらえた。
ここで「キャー」と悲鳴をあげれば、課長がセクハラをしてしまった人のように思われてしまう可能性がある。
勇気を出して指摘してくださったのだ、堪えるのだ私!
「えー、やばー!」などギャルっぽく言えば、「あはは」の笑い事で済むかもしれない。だが、課長に対してその台詞は失礼ではないか。
頭も目もグルグルしてきた。
私はスっと立ちあがる。
何かアクションを起こさねば。
「きっ」
武士のような声が出た。
「着替えます」
武士を憑依させたまま冷静さをよそおい、私は席をたつ。トイレに入ると、スライムのごとく崩れ落ちた。
恥ずかしい! 恥ずかしすぎるぞ!
恥ずかしさのあまり、ふやけて、溶けて、蒸発して、昇天してしまいそうだ。
慌ててブラウスを脱ごうとするが、脱げない!
どうやって、朝ボタンをしめたのだ!
解せぬ! 解せぬぞ!
ぬううう、とOLらしからぬ声をあげながら上から数箇所のボタンを解除することに成功した私は、ブラウスを頭から脱いだ。
その後の記憶は、全く覚えていない。
「このアホが二度とブラウスの着方を間違えないように、永久保存してやろうぜ」
などと脳みそのどこかの機関が「へへへ」と高笑いしながら羞恥心の記憶だけを残し、その後の平和な記憶を抹殺してしまったのだろう。
逆ならば良かったのに。脳みそめ。
だがしかし、私はこの後もう一度、ブラウスを反対に着てデートに行くという失態をおかしている。
脳みそに勝利した瞬間である。
そして、彼氏はブラウスが表裏逆であることに気がつかなかった。
後の旦那である。
〈完〉
「逆です」 あまくに みか @amamika
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