顔面最後の日

すちーぶんそん

顔面最後の日

 



 朝、訪れた役場の自動ドアが開かず、そのまましたたかに眼鏡をガラスに強打したあの日。


 皮脂で白く汚れ、斜めに歪んだ眼鏡のレンズ越し、ブルンブルン文句を言いながら、自動ドアが開いていく。


 世界よ。


 痛む鼻頭と、引き換えに得た、入場の許可をもろ手で抱えて朝っぱらからフラフラ歩く私。


 あぁ世界よ。 


 その時点で言いたい事は100在った。そのうちの108は、人間社会にある身で、『言うべき事では無い』と分かってはいたので、無言で行き足を速める。


 早々に用事を済ませ、くぐるべき出口で再び自動ドアが反応せず、急停止。吐息がかかる距離で今度こそガラスとにらみあう。


「…………」


 不動。沈黙。を、決め込んだ自動ドア。


「………………っぅ」


 ありったけの尊厳と、まだ僅かに残っていた理性を縄でくくって、歯を食いしばり、上方のセンサーと思しき黒いプラ箱をにらみつける私。

 

 こんの糞扉ぁ、わしゃ意地でも動かんぞ。


 それでも悠然ゆうぜんと私を見下ろし、一向に動かない糞扉。センサーのランプはまったくの無表情のまま――。


 この出来損ないの三流門番は言う。

「ニンゲン。通ってヨイ」


「…………キミ。ダメ」




 まさか朝っぱらから、行きがけの片面にブチくらわされて、帰りで両面リャンメンにコケにされるとは台本に無い話だ。雑に拭った眼鏡は未だぼやけていて、激流で鍛えたはずの、堪忍かんにんの大袋の鉄鎖の緒は、音を立てて散っていくのが分かった。


 ぐぬぬぬぬぬうぬんう


 いよいよ我が身が内側から爆散する! という所で、不意に目の前の畜生扉が唐突に開いた。


 あら?


 上方のセンサーは赤ランプを灯し、ニッコリと笑っていた。


「通ってクダサイ。ニンゲン」


 はぁ? ……そう? ……いいのか。


 分かればいいんだぁ。分かれば。


「ふぅぅう」

 荒い息を吐きながら、一歩踏み出す手前でようやく気付く。


「え?」


 ドアの向こうの人影。と、彼が押す段ボールが山と積まれた台車に。

 

「どうぞ」

 その彼に、紳士的に道を譲られ、「すいません」という意味の、モゴモゴしたセリフを吐きながら足早に扉をくぐり、しばらく紳士的に歩いてから、冷静になって今の出来事を反芻はんすうしてみる。



 どうやらセンサーに反応したのは、私では無かった。もっと言うと、私の対面の人でも無かった。

 自動ドアが反応したのは明らかに段ボールに対してだった。



「ニンゲン、通ってヨイ。段ボール、通ってヨイ。……キミは――」




 お天道様の下で見上げた空。それは忘れもしない青だった。


 

 あうあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ


 


 そして、冷静になって。


 先の出来事から学んだことは多い。

 あの場で暴れ散らかした所で、一体何を得るのか? ドアに了見を問いただしてどうする? 不良ロボと刺し違えるだ? 

 全く馬鹿馬鹿しい話だ。


 連れていかれたお白洲しらすで、「お前はヒトじゃねえと門番に言われました!! だから一頻ひとしきり暴れたんです!!」


 どのレベルでの争いであっても許容されない駆け込み願いだろう。


 怒っちゃダメ。意味無い。


 紳士、紳士。


「はぁ」


 つくづく感謝、感謝の毎日だ。

 

 鼻を低く産んでくれて、母さんありがとう。息子はおかげで、鼻を痛めに済みました。

 段ボールのようにならぬよう、育ててくれて父さんありがとう。コロコロに押されずとも息子は方々で、眼鏡を汚し、それでも無事に暮らしております。



 総括も済み、それが済んだこともあらかた忘れ、雑事を済ませ、昼飯を食って後。



 さて午後一番の外回り。


 資料を詰めたカバン片手に車を降りて、おとなった取引先の事務所の自動ドアで、あろうことか再び例の足止めをくらった。


 ほう。ほうほう。そう来るかね。


 今の私は一回り太いんだぁ、ドアよ。


 幸い、約束の時間まではまだ余裕がある。


「すいませーん」


 まずはセンサー君にご挨拶。

 何歩かその場で足踏みをしたり、上に向かってヒラヒラと手を振ってみたが一向に開かないドア。


「……あれ?」


 完全に故障していた。


「……」

 先回りしてニンゲン、非ニンゲンの禅問答をせずに済んで本当に良かった。何より得難えがたいのは経験に尽きるんだぁ。


 故障ならばしょうがない――。



「あ」


 のぞき込んだ薄暗い室内に人影を見つけた。目が合ったのは、受付の若い女の子だった。


 パントマイムで『お嬢さんドアが開きやせん、やっこさん故障中ですぜ』と、伝えると、その女の子は眉根を寄せた、いぶかし気な表情を一変し、そのままトトトと歩み寄って来た。

 

 どうしようもねぇドアに困る我が身にも、それを優しく助けようと心を配る女の子。


 やぁ助かりました。ドアが駄目でねぇ。今日はドアがどうも。

 

 やい! ドア。これ以上けが人が増える前に役場の兄弟連れて、とっとと医者で見てもらいやが――。


 そして、「パシン」と音がして、赤のランプが点灯し、スイーっと開く自動ドア。


 え?


 あえ?



 ドアを見るとそこには『押して下さい』の一文。


「……」


 嘘ぉ。スイッチの、タイプ……か。


 突如、耳の後ろで爆音を奏でだす心臓の鼓動。

 何週も回った末にコースアウトし大破した舌は、喉の奥にこべりつく。湯気で曇ら

ない事が不思議でならない眼鏡と、膨らんだっきりそこに居場所を定めた鼻の穴。


 これまでの経験全てに裏切られる。と、いう経験。


 お父さん、お母さん、どうして俺はこんなにも馬鹿なんですか?


 世界よ。あぁ世界よ。


 早く何とかなれ。


 穴が有ったら入りたい? もうここも穴だが? もっと入るの? それじゃぁ世界から出ちまう。


「……」


 止まったままの呼吸が、とにもかくにも行き場を求めておとがいを潜り抜け出たその音は――。



「ちょっと膝がぁ……」



 我が事ながら、ちっさな声だった。



 夕べ見たサッカーの影響もあったんだろう。


『膝が、痛かったんです』


 見事な瞬時のかじ取りだった。


 遅れて表情を繕い、何度か膝を曲げたり伸ばしたり。


 私がまごまごしていたのは、『膝が不調だったから。ドア? ドアって何です?』。


 よく出て来たな。今の一言が。

 完璧にリカバリーできた。

 これは完璧に『納まった』。人生の十字路で突如突っ込んできた暴走トラックを華麗に躱したその手柄。いやーよく収めた。


 ふいー。


 チラリと見上げた女の子は、いつか見たセンサーランプの無表情だった。



 あら。……そうか。そりゃそうだわ。


 扉の前で、上向きながらパタパタ踊る訳の分からないおっさんに呼びつけられて、親切に案内をしたのに、おっさんは開口一番「膝が」と一言言ってダンマリ。


 そりゃぁそんな顔になるのか。


 なるほどぉ。



 ……では、失礼します。


 もうその顔の前には居られず、一言も発せぬまま目礼して立ち去ろうとした背中に、



「私、全部見てました」



 それは機械のように無機質な声だった。



 


 刺さった。


 何か固いものが刺さった。


 刺さったそれは、ちまたで『トドメ』と言われてるらしい。


「…………そぅ」



 八転び七起き。未だ五里霧中の穴暮らしの人生。


 顔が、パンパンに赤い。


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