ささくれた日々(後編)


 不思議だった。さかむけ様が左手に取り憑いてから事態が好転し始めたのだ。


「よし、このテーマで実験を始めよう」


 なんとか書き上げたレポートは一発で教授の審査をパスした、ようやく卒論実験に着手できる。心のささくれがひとつ減った気がした。


「君、シフトを減らしてほしいって言っていたよね。来週から土日だけでいいよ」


 バイト先では抜けた1人の穴埋めとして3人の増員が決まった。余裕ができた分、オレの平日は完全に自由になった。

 こうなれば勉強にも身が入る。オレが目指しているのは地方公務員。地元に帰って女手ひとつで育ててくれた母に親孝行したいんだ。


「うん、手ごたえあり! だな」


 6月の1次試験は満足できる出来だった。これなら突破できるだろう。何もかもがうまく行っている。ささくれちゃんの真逆応援に挫けることなく頑張った甲斐があった。


「最近ささくれが減ってきたね」

「そうじゃのう。右手からも左手からも発する元気が少なってきたわい」


 2人の女神は相変わらずお喋りなのだが、オレに対してではなく互いに会話することが多くなってきた。

 両手のささくれもだいぶ良くなってきている。以前は全ての指がささくれていたのに今は7本だけ。荒んでいた心も平穏を取り戻しつつある。ただ気掛かりなのはそれにつれて2人の元気がなくなってきたことだ。


「なあ、もしオレの手からささくれが完全になくなってしまったら、2人はどうなるんだい」

「そうなる前に他のささくれを探してお兄さんの元を去るよ」

「うむ。さかむけのない人間に取り憑いていても仕方ないからな。この世にはさかむけが溢れておる。わらわたちの行き場は無限にあるのじゃ」

「そうか。その日が早くやって来てほしいものだな」


 そう言ったオレではあったが心の底にはわずかな寂寥感があった。数カ月ではあったが24時間同じ時を過ごしてきたのだ。別れが寂しくないと言えばウソになる。できれば卒業まで一緒にいたいものだ、そんなことを考えていた。


 7月、1次試験の結果発表があった。合格だった。2次試験は8月。夏休みでもあるし、バイト先にお願いして3週間ほど実家に滞在することにした。母親は驚くべき言葉でオレを出迎えてくれた。


「これからは毎月仕送りをしてあげるよ」


 驚いて理由を訊くと宝くじに当選したと言うのだ。とは言ってもジャンボ宝くじではないし1等ではなく2等なのだが、それでも我家にとっては大金に違いない。


「当選金は全部おまえのために使ってやるよ。卒業までバイトはしなくていい。これからは勉強だけを頑張りな」

「ありがとう母さん」


 オレの心は凪いだ海のように平穏だった。両手のささくれも今では3本の指に残るだけだ。そして2人の女神は最近眠ってばかりいる。ささくれから貰える元気が減っているためだろう。別れの日が近付いているような気がした。


「やった、合格だ」


 8月下旬、最終結果の発表があった。オレは母と手を取り合って喜んだ。後は無事卒業するだけだ。

 帰省最後の夜、オレは布団の中で幸福を噛み締めていた。ほんの数カ月前までのオレとは別人だ。ささくれちゃんとさかむけ様。今のオレがあるのはこの2人のおかげかもしれないな。ささくれちゃんのお喋りは耳障りではあったがオレにヤル気を植え付けてくれた。そしてさかむけ様が来てからは全ての出来事がオレに有利な方向へ働いてくれた。2人には感謝すべきかもしれない。


「ねえ、お兄さん、まだ起きてる?」


 布団の中からささくれちゃんの声が聞こえてきた。


「ああ。何か用か」

「お兄さんのささくれ、もうほとんど治っちゃったでしょう。だからあたしたちそろそろおいとましようかと思うんだ」

「そうか。今までありがとう。短い間だったけど楽しかったよ。新しい人間のささくれが早く見つかるといいな」

「そうだね。じゃあ、さよなら」


 それきり声は聞こえなくなった。オレは目を閉じて眠った。どれくらい経っただろう。また誰かがオレに話し掛けてきた。だが、ほとんど眠りかけていて口を開くのが億劫だったので返事はしなかった。


「眠ったようじゃな」

「そうだね。さかむけ様、今日までありがとうございました」


 二人の会話が始まった。意識は薄れているが二人の声ははっきり聞こえる。


「いや礼には及ばぬ。この男、そなたのような青二才が相手にできるような人間ではなかったのだからのう。無事にさかむけを治癒できて何よりじゃ」

「はい。これで思い残すことはありません。あたしの最期を看取ってくれるのがさかむけ様で本当に良かったと思います」

「うむ、迷わず消滅するがよい」

「ちょ、ちょっと待て!」


 オレは慌てて布団をはね除けた。何だよ今の会話は。


「なんじゃ、起きておったのか」

「お兄さん、起きていたのならちゃんと返事をしてよ」

「そんなことはどうでもいい。それより説明してくれ。ささくれちゃんの最期って何だよ。消滅って何だよ。オレのささくれが治癒したら新しいささくれを探して旅立つんじゃないのかい」


 2人はしばらく顔を見合わせていたが、やがて観念したようにささくれちゃんが話し始めた。


「ごめんなさい。ウソを言っていました。あたしはささくれの女神なんかじゃありません。ささくれの妖精なんです」


 それからは2人が交互に説明してくれた。ささくれの妖精は女神の使い。人間のささくれを治療するために女神が人間界に解き放つ。そしてその役目を終えた時、妖精は消滅するのだ。

 本来ならささくれちゃんだけで治療せねばならないのだが、ささくれがひどくなる一方だったので女神であるさかむけ様に助けを求めた。降臨した女神の偉大なる霊験によって事態は一気に好転し、ささくれはほどなく治癒してしまったというわけだ。


「じゃあ、オレのささくれが悪化するように応援していたのはウソで、本当はオレのささくれを治すために頑張っていてくれたのか」

「そうじゃ。ささくれがウソをついたのも自分を悪役に仕立てたのも、別れる時にそなたを悲しませたくなかったからじゃ。通常、ささくれの妖精は人間の目には見えぬ。よって誰も我らの存在には気づかぬし消滅したとて悲しみもせぬ。しかしそなたには見えた。そこでささくれはウソをついたのじゃ。許してやってはくれぬか」

「ささくれちゃん……」


 オレは右腕に座っているささくれちゃんを見つめた。笹の柄の着物に笹の紋が入った帯。頭に笹の葉をのせた3歳児が悲しそうな表情でうつむいている。この子が間もなく消滅してしまうのだ。そんなこと、許せるはずがない。


「ひとつ確かめさせてくれ。オレのささくれが治癒しなければささくれちゃんは消滅しないんだな」

「そうじゃ。妖精はささくれから元気を貰って生きておるのじゃからな」

「わかった。だったらオレは一生ささくれを治癒させない。一生ささくれちゃんと一緒にいる。バイトもやめない。仕送りも貰わない。心もほどほどにささくれ立たせて生きていく」

「いいのか。ささくれは痛いぞ。痛いのはつらいぞ」

「痛みのない人生なんてつまらないだろう。凪いだ海で帆船を進ませることはできない。かと言って暴風の海では沈没する。ほどほどに風が吹いている海が一番いい。心もそれと同じだ。ほどほどにささくれ立っているほうが張り合いがある」

「そうか、ならば好きにするがよい。わらわはこれで帰るぞ。ささくれ、後はそなたに任せる」


 さかむけ様が消えた。残されたささくれちゃんが上目遣いでオレをうかがっている。


「あの、本当にいいんですか。あたしのこと、嫌っているんじゃなかったんですか」

「最初はそうだった。だが数カ月一緒にいてわかった。ささくれちゃんの無駄口こそオレにヤル気を起こさせてくれる原動力なんだと。だからこれからも一緒にいてくれ。その無駄口でオレの尻を叩き続けてくれ」

「ありがとう、嬉しい!」


 ささくれちゃんが抱き付いてきた。受け止めようと思ったが実体がないので素通りしてしまった。振り返ったオレに向けてささくれちゃんがにっこりと笑う。


「あ、それからもうひとつウソをついていました。ささくれを意のままに操れる能力がないって言いましたけど、あれウソです。あたし、取り憑いた相手のささくれを治療することも悪化させることもできるんです。そして悪化させる方が治療するより簡単なんです」

「な、なんだって」


 予想外の告白に驚くオレ。しかしさかむけ様の説明を思い出せばそれは当たり前のことだった。ささくれちゃんは人間のささくれを治療するために女神が送り出した妖精なのだから。治療できるのなら悪化させることも可能なはずだ。


「だからあたしと一緒にいる限りささくれが治ることは絶対にありません。安心してくださいね。そしてもしあたしを怒らせるようなことをしたらどうなるか、わかってますよね」

「くそ、早まったか」


 後悔先に立たず。だがまあいいだろう。人生は飴と鞭の繰り返し。幼女の鞭で尻を叩かれながら走り続ける人生も悪くないのではないか。








  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ささくれた日々 沢田和早 @123456789

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ