ささくれた日々(中編)
オレのささくれは悪化の一途をたどっていた。配属先の研究室では毎日実験が行われている。院生の手伝いがメインなので作業自体は楽なのだがとにかく時間がかかる。夕食後も続くのは当たり前。酷い時は深夜に及ぶこともある。
バイトのある火曜と木曜は途中で帰らせてもらっているが、そうでない日は最後まで付き合わないと決まりが悪い。3年の時より自由時間が減ってしまった。
「これじゃまた単位を落としそうだ。それに公務員試験の勉強もできない。こんなに忙しいなんて予想外だったな」
「うふふ。苦境にあえぐお兄さんって素敵ね。それそれ頑張れ頑張れ」
ただでさえイラついているのに、さらにオレの神経を逆撫でするのがこの女神様だ。オレの右手にしがみついたままどこにでも付いて来る。
それだけでもウンザリするのだが、事あるごとに無駄口を叩いてくるので煩わしいことこの上ない。
おまけにその無駄口はオレにしか聞こえていないから、うっかり反論でもしようものなら意味不明な独り言をつぶやいている変人と思われてしまう。人目につかない場所でしか言い返せないのでストレスは溜まる一方だ。
「ずいぶん楽しそうじゃないか、ささくれちゃん」
「それはそうだよ。お兄さんのささくれが悪化すればするほどあたしは元気になれるんだもん。これからももっと苦しんでささくれを増やしてね」
「ささくれの女神なんだから、人間のささくれを意のままに操れる能力とか持っていないのか。貧乏神は住み着いた家をさらに不幸にするって言うだろう。オレのささくれが悪化しているのはささくれちゃんのせいなんじゃないのか」
「それは大間違いだよ。あたしにはそんな能力ないから。あくまでもささくれから元気を貰うだけ。お兄さんのささくれが治らない原因はあくまでもお兄さん自身にあるんだよ。まだまだ頑張りが足りないってこと」
「そうなのか。十分頑張っているつもりなんだがな。これ以上頑張ったら心が折れそうだ」
「あたしが応援してあげるから挫けずに努力しようよ。お兄さんならきっとやり遂げられると信じてる!」
女神様とは言ってもこんな幼女に応援してもらうことになろうとは、オレも落ちたものだな。だけど少しだけヤル気が湧いてきたような気もする。
「ああ、応援ありがとう。忙中閑ありって言うし、忙しさに負けずにやれるだけやってみるか」
「その意気その意気。あっ、それからあたしの応援はささくれを悪化させるように頑張れって意味だからね。誤解しないでね」
なんだよ、応援の方向が真逆じゃないか。感謝の言葉なんか言うんじゃなかった。
それからもオレはささくれちゃんの真逆応援に負けることなく自分のノルマを淡々とこなしていった。しかし運命の女神様ってのは残酷なものである。状況はまったく改善しない。
「まだ決まらないのかね。レポート提出期限はとっくに過ぎているんだぞ」
「すみません。早急に取り掛かります」
卒論のテーマを決めるレポートがまったく進まない。これを提出しなければ実験を始めることもできないのだからお手上げだ。さらにバイト先でも、
「悪いが水曜日も出てくれないか。1人辞めちゃってね」
「えっ、でも今大学の方が忙しいので、ちょっと」
「頼むよ。新しい子が入るまででいいから」
「……わかりました」
店長に頼まれて週5日出勤になってしまった。どうしてきっぱり断れないんだろうな。頼まれると嫌と言えない自分の性格が恨めしい。
「うわあ、右手だけなく左手までささくれてきた。見ているだけで痛々しいよ。頑張れ~!」
衰退していくオレの元気と反比例して、ささくれちゃんの元気は増大していく。しかもささくれは治るどころか左手にまで拡大してしまった。今のオレの心は草木1本生えぬ荒野だ。ささくれた心を吹き抜けるのは乾き切った北風ばかり。
「心が休まるのは寝床の中だけだな」
疲れ切った体を布団の中へ潜り込ませる。何もかも忘れて眠ろう。そう思って目を閉じると、布団の中から声が聞こえてきた。
「両手にささくれとは豪儀な男じゃ。これなら2人でも大丈夫であろう」
オレの機嫌が悪くなった。布団に入ったら言葉を発しないと約束してある。これまではきちんと守ってくれたのに、どうして今夜に限って無駄口を叩くんだ。
「ささくれちゃん、約束は守ってくれよ。布団の中はお喋り厳禁のはずだろう」
「わらわはささくれではない。さかむけじゃ」
オレは布団をはね除けた。右腕にささくれちゃん、そして左腕に見慣れぬ幼女が座っている。
「お、おまえは誰だ」
「だから言ったであろう。わらわはさかむけ。さかむけの女神様じゃ。さかむけ様と呼ぶがよい」
さかむけ? そう言えば一緒にバイトしている学生が手にできたささくれに保湿クリームを塗りながら「このさかむけ、なかなか治らへんわ」とか言っていたな。
「さかむけって、ささくれの別の言い方なのか」
「そうではない。さかむけが正しい言い方じゃ。ささくれは方言じゃな」
これを聞いたささくれちゃんは直ちに反論を始めた。
「違うよ。正しいのはささくれ。さかむけが方言」
「ふっ、ささくれ風情が何を言っておる。笹の葉なんぞで由来をでっち上げおって」
「でっち上げてなんかいないもん。本当に笹決れが由来だもん」
女神同士が言い合いを始めた。オレは呆然と両者を眺めた。さかむけ様もささくれちゃんと同じく3歳ほどの幼女なのだが衣装が違う。白衣に緋袴、頭に天冠、手に神楽鈴。どこからどう見ても巫女だ。ささくれちゃんより神々しいのでさかむけ様の言葉を信じたくなってしまう。
それにしてもいつまでこの口論は続くんだ。明日もバイトがあるしそろそろ仲裁に入るか。
「はいはい。2人ともそれくらいにしてくれないか。これ以上話し合ったところで結論なんか出ないだろうし、もう十分だろう」
「うむ、よかろう。ささくれ、続きは後日じゃ」
「わかったわよ」
素直に引き下がるささくれちゃん。この2人、意外に仲が良いのかもしれない。本当に犬猿の仲ならば口も利かずに無視を決め込むだけだからな。
「それでさかむけちゃん、じゃなくてさかむけ様。ここに来た目的を教えてくれないか」
「言わずともわかっておろう。そなたのさかむけから元気をもらうためじゃ」
「オレにはもうささくれちゃんが取り憑いているんだけど」
「ささくれが取り憑いているのは右手のさかむけじゃ。わらわは左手のさかむけに取り憑く」
「あたしが取り憑いているのは右手のささくれ。さかむけなんかじゃないんだからね」
また言い合いになりそうな予感がする。さかむけ様が言い返す前にこちから質問だ。
「1人の人間に2人の女神が取り憑けるのかい」
「通常は無理じゃな。しかしそなたのさかむけが発する痛みは一人の女神が受け止めるには少々大き過ぎる。それゆえわらわもそなたに取り憑くことにした」
「別にこれくらい大丈夫だもん」
とささくれちゃんは言っているが本心ではなさそうだ。体に良い食物であっても食べ過ぎると害になるように、ささくれから貰える元気も大き過ぎると害になるのかもしれない。
「じゃあこれからは2人の女神様に付きまとわれるってことなのか。ウンザリだな」
「何を言っておる。文字通り両手に花じゃぞ。嬉しかろう」
妖艶な美女2人なら嬉しいけどお喋りな幼女2人じゃ鬱陶しいだけだ。それにしても状況は改善されるどころか泥沼にはまり込む一方じゃないか。もし足にささくれができたらまた1人女神が増えるのだろうか。冗談じゃないぞ。この両手にできたささくれを早急に何とかしないと大変なことになりそうだ。
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