ささくれた日々

沢田和早

ささくれた日々(前編)

 悪いのが自分だってことはわかっているんだ。3年の時に単位を取りこぼしたりしなければ、4年になった今こんなに苦しむこともなかっただろう。

 だけどひとつ言わせてくれ。金がなかったんだ。オレの家は貧乏だ。父は幼いころに亡くなり兄弟姉妹もなく、親しく付き合っている親類もいない。頼りになるのはパート勤めの母だけ。こんな状況にもかかわらず大学進学のために親元を離れるつもりのオレを、もちろん母は引き止めようとした。


「都会の大学に行きたいって言われても仕送りなんかできないよ。地元の大学にしておいたらどうだい」

「地元の大学にしたって自宅から通おうと思えば片道2時間、交通費だけで月5万円かかる。都会の安いアパートに住んで自転車通学してもたいした違いはないよ」

「そうかい。なら好きにおし」


 この選択に間違いはなかったはずだ。自宅通学でもバイトはしなければならなかっただろうから。

 しかしバイトで生計を立てながら理系の学部で単位を取る難易度はオレの想像を超えていた。

 バイトの出勤は土日10時から18時まで。平日は火曜と木曜で17時から22時までというわりと緩めの勤務状況なのだが、それでも疲労度はかなり大きい。

 本来勉強に割り当てられるはずの時間や気力や体力を金稼ぎに費やしてしまった結果、いくつかの単位を取りこぼしてしまった。


「もっと楽なバイトを探してみるか。いや、でも今日までずっと続けてきたバイトだしなあ」


 バイト先は全国チェーンの中華料理店だ。バイトするなら飲食店と決めていた。まかない食は半額で食べられるし店で提供していない料理も食べられる。そしてキッチン担当になれば接客の必要もない。


「ホールの仕事はできません。不器用なので盛りつけも満足にできません」


 面接でそう言ったら洗い場担当になった。それから今日に至るまでずっと食器洗いだ。

 ゴム手袋は支給されている。しかし洗い終わった食器は濡れた手袋では触れないから素手で棚に収納しなければならない。忙しい時はいちいち手袋を付けたり外したりしていられないので結局手袋を付けないまま洗いに入ってしまう。肌が弱い人にとっては最悪の職場と言える。


「このささくれ、いつになったら治るんだろう」


 オレの手の皮膚は面の皮と同じく分厚いので手が荒れることはないが、どういうわけか指にささくれができてしまっている。4年になってからは特にひどい。


「心がささくれているから指もささくれるんだろうか」


 それはあながち間違っているとも思えなかった。4年になってから心のゆとりがなくなってきたのだ。

 取りこぼした単位の修得。配属先研究室での卒論準備。公務員試験の勉強。不合格だった時のための就活。まるで台風のような暴風が次から次へとオレに吹きつけてくる。これまでは穏やかだった水面に大きな波が逆立ち荒れ狂っている。それが今のオレの心だ。

 病は気からの格言通り、心の平穏を取り戻せば指のささくれも治るのかもしれない。だがそんな日は無事に卒業できるまでやって来そうにない。


「さて寝るか。明日は早出の9時出勤だし」


 金曜日の夜、オレは寝床に入った。4月下旬ともなれば夜でもさほど寒くない。布団1枚で十分だ。


「うわあ、ひどいささくれね」


 急に布団の中から声が聞こえてきた。女児を思わせる声だ。ひょっとしてもう夢を見始めているのか。


「住み心地も良さそうだし、貰える元気も多いからかなり頑張れるかも」


 オレは目を開けた。違う、まだ眠ってなんかいない。これは夢じゃない。現実の声だ。何者かが布団の中に入り込んで喋っている、そうとしか考えられない。


「誰だ!」


 オレは布団をはね除けて上半身を起こした。信じられないことに幼女がいた。オレの右腕の上に座っている。


「な、何だ、おまえ」

「あれ、あたしが見えるの? 驚いた」

「驚いたのはこっちだ。おまえは何者だ。どうしてこんな所にいるんだ」

「あたしはささくれ。ささくれの女神様。ささくれちゃんって呼んでね」

「ささくれの女神様、だと」


 最初に思ったのは、やはりこれは夢ではないかということだ。そこで頬っぺたをつねったり、目をこすったり、時計の秒針を眺めたりしてみたのだが、つねった頬は痛く、こすった目には相変わらず幼児が見えており、時計の秒針は規則正しく時を刻んでいた。現実だという確証は持てないが夢であるという確証も持てない。


「あ、もしかして夢だと思ってるんじゃない? 夢ではありません。現実です」

「現実だとして、おまえはどうやってこの部屋に入った。どこから来た。ここに来た理由は何だ。ここで何をしている」

「もう、いきなり質問攻めかあ。心がささくれ立っている人ってこれだから嫌い。それからそのおまえって言い方はやめて。あたしにはささくれちゃんって名前があるんだから」

「ああ、すまなかった。で、ささくれちゃん、質問に答えてくれないか」

「では答えてあげましょう」


 少し不満な様子ではあったが、ささくれちゃんは丁寧に説明してくれた。貧乏神、疫病神、トイレの神様など、この世には人や場所に取り憑く神様がたくさんいる。彼女もまたそれらの神様と同様で、取り憑く相手はささくれができた者らしい。


「じゃあ、オレの右手にささくれができたから取り憑いたって言うのか」「そういうこと」

「取り憑いて何をするつもりだ」

「ささくれから力を貰うの。ささくれって痛いでしょ。その痛いって感情があたしの元気のみなもとなの。お兄さんが痛がれば痛がるほどあたしは元気になる。だからたくさん痛がってね」


 とんでもない話だな。しかしそれだけなら実害はなさそうだ。


「つまりオレのささくれがなくなればささくれちゃんはいなくなるんだな」

「そういうこと。ささくれというエサがなくなれば取り憑いていても仕方ないもんね」

「わかった。こんなささくれ、すぐ治してやる」

「そう簡単にいくかなあ。お兄さん、心までささくれているでしょ。心のささくれを治さないと指のささくれも治らないんだよ」


 むっ、さすがはささくれの女神様。オレの心の中までお見通しか。それにしてもこの女神、言われないとただの幼児にしか見えんな。年齢は3歳くらいか。笹の柄の着物に笹の紋が入った帯。白足袋、草履、まるでこれから七五三参りに行くみたいな恰好だな。奇妙なのは頭にのせている折れ曲がった笹の葉だ。何か意味があるのだろうか。


「なにジロジロ見てるの。もしかしてあたしに惚れちゃった?」

「いや、幼女はさすがにオレの守備範囲外だ。見ていたのはあまり女神っぽくないなと思ったからだ。何も言われなければ神社へ参拝に行く幼稚園児と変わらない」

「ああ、そういうこと。お兄さんには着物姿に見えているんでしょ。あたしの姿は見る人によって変わるの。西洋のドラマが好きな人はドレス姿に見えるし、海が好きな人は水着姿に見える。お兄さん、時代劇とか好きなんじゃないの」


 オレの好みが反映されているのか。変な性癖がなくてよかった。


「頭にのせている笹の葉も見る人によって変わるのか?」

「これは変わらない。あたしのトレードマークだもん」

「トレードマーク?」

「そう」


 ささくれちゃんは説明してくれた。ささくれとは「さささくれ」の意味だというのだ。決れとはしゃくれ、すくったように上がっていること。指の皮膚がめくれている状態が、笹の葉をしゃくったように見えるので笹決れ、ささくれになったと言うのだ。本当かどうか疑わしいが、そもそもこいつの存在自体が疑わしいので真偽を詮索する必要もないだろう。


「それで、ささくれちゃんはこれからどうするんだ。さっきからオレの右腕に座っているが、ずっとそのままでいるつもりなのか」

「そうだよ。この右手のささくれは今のあたしの住処なんだもん」

「それじゃ邪魔になるし右手も疲れる。人に訊かれたら説明しないといけないし、なんとかならないのか」

「あたしは女神なんだよ。お兄さんしかあたしを認識できないし重さもない。おまけに実体もないから存在していないと同じ」


 実体がないだと。本当だろうか。オレは左手を伸ばしてささくれちゃんの頭を撫でようとした。だが、左手には何の感触もない。ささくれちゃんの体をすり抜けるだけだ。そう言えばささくれちゃんの尻がのっている右腕もまったく重さを感じていない。どうやらこの女神様の言葉は本当のようだ。


「ねっ、わかったでしょ。日常生活には何の支障もないから安心していいよ」


 安心できるわけないだろ。トイレも風呂も幼女と一緒なんて、オレのプライバシーはどうなるんだ。


「どうあっても右手から離れないのか」

「一度取り憑いてしまったら、ささくれが治るまで離れられないのよねえ。運命だと思って諦めて」


 くそっ、なんてこった。こうなったら一日でも早くささくれを治さなくては。









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