ささくれ立った手を掴む人

九十九

ささくれ立った手を掴む人 

「いたっ」

 針で刺したような痛みが指先に走る。

 咄嗟に手を握りしめ、痛みが落ち着いたところで開けば、人差し指の指先にささくれが出来ていた。

「いつの間に」

 ささくれだった皮膚を撫でれば、棘が引っ掛かるような不快な痛みが走る。昔の癖で歯で噛めば、余計に傷が広がった感覚がした。

 ささくれの痛みを覚えるのは久し振りだった。昔はよく指先に出来ていたが、ここ二年はそう言えば見ていなかったと気が付く。

 そう気がついて、己の手に丁寧に保湿クリームを塗っていた大きな手を思い出した。

「んー、俺がしたいからしてるだけなんだよねぇ」

 人の手に塗るのは億劫ではないか、と尋ねれば、鼻唄でも歌い出しそうな声音で男はそう言った。

 己の手は厚くて、がさついていて、とてもじゃないが女性の綺麗な手では無かったから、触っていても楽しくないだろうと言えば、男は眉を寄せて何かを言いたげにじっとこちらを見つめていた。いつも口に出してしまってから、男の視線に困ってしまって目を逸らす。

 始まり方は男の熱を解放させるだけの関係だったように思う。抱きたい、と請われて、他の見知らぬ人間を抱くよりは手が出やすいのだろうと頷いた。男の事を好きか嫌いかの二択に押し込んで、大きく分別すれば好きの枠に入ったから、別に良いかとそれ以上は考えなかった。最初からずっと、白いシーツの上で絡まった縄を解くような優しさがあって、四肢を、舌を熱く絡め取られて、酷く戸惑ったのを覚えている。

 気づけば情に絆されて、後は居心地の良さに離れがたく思ってしまって、もう少しだけと随分長い間一緒に居たように思う。距離だけは一定に保ったまま、踏み越えぬと言い聞かせて、臆病に男の隣に立っていた。男のとろりと溶けた目には気づかない振りをした。それは己に相応しくない、と。もっと良い人が居るだろう、と。

 親指で人差し指を撫でれば、引っかかったささくれがじくりと痛んで、弄っちゃ駄目だよ、と眉尻を下げた顔を思い出す。

 あの時の綺麗な手に戻る事は二度と無いのだろうな、とぼんやり思いながら、爪で摘んでささくれを引き抜いた。痛む指先の傷が広がった。


 男の手を離したのは今年の春だ。窓から見える桜が散り始めた頃だった。

 愚かにも耐えられなかったのだ、男の優しさに。夜の中、可愛いと花が綻ぶように呟かれるその言葉に。きっと他の誰かと同じなのだ、と考えて止められなくなった。己の勝手な卑下を相手にも背負わせた。

 喧嘩、と言えるかどうかも分からない一方的な拒絶だった。白いシーツの波の中で、己なんぞにその言葉は相応しくないのだと、器の中に注がれ続けた水が溢れるように耐えられなくなって、胸を押した。

 それが終わりの始まり。本当はとっくに終わりは始まっていたのかも知れないし、そもそも始まってもいなかったのかも知れない。

「可愛いって言われるの嫌?」

「いやだ」

「じゃあ、もう絶対言わないから」

「もう、だめ」

 そこに来て、離してあげられないと気がついた。ここで手を離さなければ、離れたいと言われても縋ってしまうと気がついた。

 男の目がこちらを覗き込む。目の奥に痛みが見えた気がして、それは己の都合の良い幻覚だと目を瞑る。再び目を開けた時には、そんな色どこにも無かった。

「終わりにしようか?」

 軽薄に見えるように笑って男の下から這い出れば、男は何も言わなかった。

「やっぱり別れるの?」

「うん」

「そっか」

 目が覚めれば、男はこちらの髪を梳いていた。

 ぐらりと揺らぐ何かを抑えて、問いに頷けば、男も静かに頷いた。そうして少しの沈黙。

 男はもう一度、そっか、と呟いてあの何か言いたげな目でこちらを見ていた。

 けれども結局、何を言いたかったのかは分からない。


 結局、男と別れてから碌に眠れなくなった。

 隣に温度がない事に寒気がして、男の夢を見る度に現実との境目で吐き気がした。仮に眠れたとて、朝一人で目を覚ませば、夢の続きを見ようとする。自分から手を離した癖に図々しい話だと分かってはいる。

 次第に食欲も失せて、手の手入れなどしないから結局、指先のささくれは増えていった。

 男には知られたくない惨状は、けれど冷静になれば知られる筈がないと自嘲する。


 眠れぬベッドの中、日が落ちてから暫く、時計の針は十九時を差している。気怠さに呑まれ昼間から横になっているが、微睡むばかりで意識が落ちてはくれず、気が付けば夕飯の時間になっていた。

 今日は夕飯も食えぬかも知れないと、ぼんやりと天井を眺めていれば、ベッドのサイドボードに乗せた携帯が鳴る。

 着信先を見れば、友人からだった。男と同じ仲間内の一人、その名前に一瞬躊躇してから応答ボタンを押す。

 聞こえて来たのは賑やかな音。何人か集まっているらしい背後の音の中心に通った友人の声が響く。

「やっほー、今大丈夫?」

「うん、平気」

「明日、集まって飲み会しようよ。お酒は飲まなくても良いから、美味しいものいっぱい食べてさ。ね。いつもの居酒屋に集合で」

 いつもの居酒屋。男と別れてから、顔を出していないお決まりの集合場所だ。逢瀬の待ち合わせ場所は大体そこだった。いつもいる訳ではない、そこで会えれば逢瀬を始める。そう言う使い方をしていたけれど、結局己は三日と空けずに行っていた。

 無理だと思った。けれど同時に、今のままでは駄目になるとも分かっていた。良い加減区切りを、自分の責任のけりは自分で付けなければならない。

「うん、行くよ」

 嬉しそうな友人の声が電話越しに響く。そう言えば最近会っていなかったと気が付いた。

 何言か交わしてから、それじゃあ明日、と言い残して電話を切る。

 沈黙した携帯にアラームを予定の時間を設定してから、再びサイドボードに放り出して毛布の中へと包まった。


 久方ぶりに顔を出した居酒屋は今日は仲間の貸切らしい。馴染みの店主はこちらを見て一度瞬いたけれど、何も言わずに、奥へと案内してくれた。

 奥の座敷、既に仲間内は皆集まっていた。己が一番最後だったらしい。

 男の姿もそこにはあった。すぐに何でもないように視線を逸らして、電話をくれた友人の隣に座る。男がこちらを見ていたような気配がしたが、それも直ぐ逸らされた。

「遅くなった」

「いや、全然」

 友人は顔を見た瞬間、口を噤んだが、すぐににっこり笑って酒ではないおそらくジュースの入ったグラスとおつまみを差し出して来る。

 おつまみに視線を移せば、鰹節と生姜の乗った湯豆腐だった。これなら食べられそうだと受け取る。

「えっ、何これ」

 友人の大きな声に驚いてそちらを向けば、友人もこちらを見つめていた。視線の先にはグラスを持ち上げた手がある。

「何これ、すごい酷いささくれじゃん! 手も荒れてる! クリームは!? 付けてないの!?」

 友人の手の中に収まった己の指先には確かにささくれがある。随分と増えてしまったささくれは、引き抜いたものも加わって、酷い荒れようだ。手もまたがさついた荒れた手で触り心地は悪いだろう。

「あー、これは」

 曖昧に笑って、どう誤魔化すべきかを考えるが、良い案は何一つ出てこない。

「あ」

 不意に友人が声を発した。己の手から視線を上げて見れば、背後を見ている。その視線を追って振り返ろうとすれば、傍から腕が伸びて来た。

 腕はささくれだった手を掴むとぐいと引っ張る。大きな手、知っている手。心臓が大きな音を立てて鳴った。

 引っ張られて視線が上がった瞬間、腕の持ち主、男と目が合う。男はにっこりと笑って、こちらの体を引き上げた。

「借りてくねー」

 妙に間延びした声。こちらが声をあげる間もなく、ぐいぐい手を引っ張られ、気がつけば居酒屋の扉を潜っていた。


 酔っ払いよりも店の暖簾を潜る人間が多い時間帯の道を、引っ張られて歩く。

「保湿クリーム、残して来たけど使ってないんだ?」

 男の顔は見えない。じんわりと響くような声が懐かしく感じて、指先に熱が灯る。

「うん、使ってない」

 思っていたよりもすんなりと声は出た。

「そっか。俺を思い出しちゃう?」

「そ、れは……」

 途端に言葉が詰まる。

 男が振り向いた。表情が上手く読み取れない。

「そっか」

 別れた時と同じ声音で男が言う。向かい合いこちらを見つめる視線に目を逸らす。逃げられないように、もう片方の手も握られた。夜の中、白いシーツの上、男が両の手をぎゅうと縫い留め掴む時の温度に似ていた。

「君と一緒に居られるなら、勘違いでも何でもいっかって思ってたけど、やっぱり駄目だった」

 男の長い指がささくれ立った指先を労るように撫でる。ぐらり、ぐらりと何かが揺れて、何かを口走ってしまいそうになる。

「ねえ、やっぱり俺達さ、一緒に居るのがお似合いだと思うんだ」

 手が痛いくらいに掴まれる。声に顔をあげれば、泣きそうな顔が目の前にあった。そんな顔をさせたかった訳じゃないと、心臓を掻きむしりそうになる。多分、こちらも男と同じような顔をしていた。

「ねえ、俺と居てよ。幸せになるのが怖いなら、一緒に不幸にだってなるから。俺一人を独りで不幸にしないでよ」

 じわり、じわり、熱が指先から伝わる。男の視線から目が離せなかった。白いシーツの上で見ていた、熱の籠った目がこちらを見る。とろりと溶けた瞳と視線が絡まって、息が出来なくなった。

「俺に、またクリーム塗らせて。好きなんだ、君の事が、ずっと」

 ぼろり、と己の目尻から雫が溢れた。ずっとあった、卑下だとか、くだらない怯えだとか、きっと無理だと引いた線が崩れていく。

 熱くなった思考よりも体はずっと正直で、気がつけばうん、と頷いていた。次いで、体の反応に心が追いつく。じわり、と腹の底から熱い温度が広がる。

「一緒に居て」

 乞えば、男は眉尻を垂らして、だらしなく笑った。


 ささくれは保湿クリームの下、いつの間にか消えていた。

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