愛情転生奇譚

浅月庵

***

 家に帰ると、普段は冷蔵庫のモーター音よりおとなしい妻が、俺の浮気に気づいて激昂した。


 ずっと石ころだと思って踏みつけていた無機物に反抗された気分だ。

 逆上した俺はダイニングチェアを引っ掴むと、彼女の頭めがけて勢い良く振り下ろした。何度も何度も何度も。

 頭から血を流して床に伏す妻は、この世界と繋がる糸を断ち切られたように、ぴくりとも動かなくなった。


 俺は彼女の身体をレジャーシートでグルグル巻きにすると、ロープで厳重に縛り付けた。

 時刻は深夜0時を過ぎていたが、車のトランクへ乱暴に死体を押し込むと、俺は車を峠まで走らせた。


 適当な場所で停車するとヘッドライトを頭に巻き、彼女を担ぎ上げて山奥に入った。

 木々の少ない開けた場所で立ち止まると、片手に持っていたスコップで俺は、地面に穴を掘り始めた。

 この世に生まれてきてから今までで、一番無駄な時間を過ごしていると思った。


 ーー空はとっくに白んでいた。


 再び車を走らせ、俺は自宅に戻った。

 結婚したときに、妻の両親がくれた一軒家だった。


 玄関扉を開け、俺は家の中に入った。

 リビングに進むとーーなぜかそこに殺して埋めたはずの妻がいた。

 彼女は平然とした顔で、自分が死ぬ原因となった椅子に腰掛けていた。

 心なしかその顔は、いつもより血色が良いように感じられた。


「お前……何で生きてんだよ!!」


 事態を飲み込めるわけはなかったが、気づけば俺はロープの余りを妻の首に回していた。すぐに彼女の死の手応えを感じた。


 俺は尿意を催した。

 トイレで用を足し、リビングに戻るとーー


 ーーそこにはまたしても生き返った妻がいた。


〈ゲームじゃないんだから。何度私を殺しても、レベルなんて上がんないよ〉


 と、彼女は冗談まで言う始末だ。


「うるせーな……早く死ねよ!!」


 俺は妻の頬を張った。

 小さな爆発音が彼女の顔面で鳴ると、妻は膝を曲げて丸くなった。


〈ちょっと! 痛いってば! 何すんのさ!!〉


 彼女の反抗的な眼が許せなかった。

 俺は妻の肩を蹴ると、彼女を仰向けに転がした。俺は親に菓子を買ってもらえないガキのように、妻の腹の上で地団駄を踏んだ。


 俺はキッチンから包丁を持ち出した。

 特に負荷もなく、包丁の刃はさくさくさく、と、妻の体内に滑り込んだ。彼女はすぐに絶命した。


 俺は死体の両脚を持ち、その身体を浴室に引きずり込んだ。

 車を走らせるのはもうごめんだった。

 何か人体を解体できる道具が無いか、家の中を探し回っていると、不意に後ろから肩を叩かれた。妻だった。


〈殺される度に私! 元気になるの! あなたと出会った頃の自分に戻ったみたい!〉


 やたらと上機嫌な彼女に反して、俺の額は燃え上がるような熱を帯びていた。


「何がどうなってるんだよ……」


 観念した俺は、ほとんど気絶するようにベッドで眠った。


 ……瞼を開けると時刻は夕方になっていた。


 せっかくの日曜日なのに、ほとんどを家で寝て過ごした。

 夜中から今朝にかけて起きた妻にまつわる不思議が、すべて夢だったら良い、と思った。

 だが残念ながら、それらのすべては現実のようだった。


〈おはよう! もうご飯食べれるよ!〉


 妻は夕食を作って俺を待ち受けていた。

 しばらく忘れていた、彼女の晴れた笑顔がそこにはあった。

 最初に妻と出会った日も、彼女はこんな表情をしていた。


 ふたりは婚活アプリで知り合った。

 俺も向こうも20代後半で、俺に至っては親に早く結婚しないのか小言を言われるのが苦痛で、そのためだけに相手を探していた。

 彼女と結婚したときには俺は三十路で、彼女は29だった。


「あなたに会えるのが楽しみで1時間も早く着いちゃった!」

「実は俺も1時間前から、近くの喫茶店でスタンバってたんだよね」


 初めて会った日に、俺たちはこんなバカップルのようなやり取りを交わしていた。

 事前に電話やメールで頻繁に連絡を取り合っていたので、お互いキャンプや読書が趣味で、音楽の好みも似ていることは知っていた。

 妻は他愛もないことでよく笑う人だった。結婚まで1年ほどでトントン拍子だった。これから俺たちの元に、幸せな未来が待っていると信じていた。


「ごめん……俺のせいだ」

「結婚する前に調べた方が良かったかもね」

「それを知っていたら結婚してなかった、って言いたいの?」

「別に……」


 俺たち夫婦はなかなか子宝に恵まれなかった。

 原因は俺の無精子症だ。治療をしても一向に改善は見られなかった。


 妻はわかりやすく落ち込んだ。

 俺とまったく口を利かなくなった。

 無言で俺の“非”を責めているようだった。


 俺の親も向こうの両親も、路上に落ちている吐瀉物から目を背けるように、俺たちに期待しなくなった。

 俺は自分の“どうしようもなさ”と“どうしようもならなさ”に、腹の底から怒りが込み上げてきた。酒に溺れた。浮気を繰り返すようになった。気に入らないことがあると、彼女に手を上げるようになった。

 もうそこに、かつての俺と妻の関係性は無かった。


〈いってらっしゃい! 気をつけてね〉


 生き返った妻は一体どういう心境なのだろうか。

 彼女は彼女自身が感じているように、出会った当初の妻に内面が戻っているようだった。外傷も消えていたので、肉体も、か。

 俺はその豹変?ぶりについていけなかった。

 極端に俺は口数が少なくなった。浮気相手の元に逃げ込む気力さえも失った。ふたりの立場が逆転したかのようだった。生気をどんどん彼女に吸い取られている気分だった。


「何だよこれ……」

 仕事が終わって家に帰ると、ローストビーフにパエリア、グラタンなど、様々な料理が食卓に並んでいた。


〈あら、あなた忘れちゃったの?〉


「何が」


〈今日は私たちが初めて出会った記念日じゃない。さぁ、早く座って!〉


 妻に促されて席に着いた。

 言われるがままに、グラスに入った赤ワインで彼女と乾杯した。


「本気かよ……」俺はワインをぐーっと飲み干すと、聞いた。「お前、俺に殺されたんだぞ。しかも一度じゃなく、二度……三度も」


〈そうだね〉


「そんな相手にお前……どうしてこんなに優しくできんだよ」


 妻もワインをひとくち口に含むと、寂しげに笑った。


〈今までのこと謝るね。私あなたに殺されて、三回目で完全に昔の自分の気持ちを取り戻すことができたの。ちゃんとあの頃の私って、あなたを心から愛してた……だからごめんなさい〉


「おいおい……冗談だろ……」


〈この言葉に嘘偽りはないよ。子どものことなんて、今となってはどうだっていい。あなたとやり直したいの〉


「……」


 気がつくと俺はぼろぼろ涙をこぼしていた。

 自分が最低で最悪な人間であることを痛いほど自覚した。

 そして妻の愛が、こんなクソッタレな俺さえも包む込むほど、巨大で強大なものであることに感動を覚えていた。


〈あなた、泣かないで〉


「ごめん……本当にごめんなさい……俺、心を入れ替えるよ……本当に……本当に……!」


 ーー突然、こめかみの辺りで激しく脈打つ感覚があった。


 もうすでにワインのアルコールが回ってしまったのだろうか。

 猛烈な眠気が俺を襲った。コンタクトがずれたように、突如として視界がぼやけた。


〈あなたも心からそう思ってくれて、私ホントに嬉しい!〉


「……あぁ〜?」この睡魔は異常だ……まさか酒に睡眠薬が混ぜられていたのだろうか。


〈私があなたに殺されて初心に返ったように、あなたにも私への愛情を取り戻してほしいの〉


「すよ……もどすゅ……」


〈最初に私たちが心を通わせたあの日のように……最初に私たちがお互いを大切な存在だと確信したあのときみたいに……また新たなスタートを切りましょ?〉


「……あ……」


 俺が彼女と同様に、生まれ変われる保証なんてどこにもなかった。

 それなのに妻の声色は、出会った当初のように、底抜けに明るかった。


〈何回目で初めのあなたに戻るのかな。あなたが寝てる間に、ちゃちゃっと済ませちゃうからね。痛いと可哀想だから〉


 ーー俺のすぐ側で、買った覚えの無い電動ノコギリが、轟音を鳴らし始めていた。




〈了〉


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愛情転生奇譚 浅月庵 @asatsuki-iori0214

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