ささくれた竹刀とわたしのこと

藤光

ささくれた竹刀とわたしのこと

 出場できなかった市民大会が終わり、だれもいない道場に戻って剣道の防具を点検していると、竹刀しないの中程がささくれているのに気がついた。試合はしていないので、練習で打ち合っているうちに竹が傷ついたのだろう。


「わざわざ予定を変えてまで大会に出ることにしたのに怪我をするなんて、馬鹿馬鹿しいわ」


 妻が計画していた家族旅行をキャンセルしてまで参加することにした剣道大会だ。足をくじいて試合には出られませんでした――では、妻も納得してくれないだろう。更に――


「無理しなくてよかったんですよ」


 もう若くないんだからと、道場の仲間は冗談めかして慰めてくれたが、ベテランはもう試合しなくていいよというのが、若い剣道仲間たちの本心なのだろう。練習に使った竹刀が傷つくというのは、無駄な力が加わっているということなのだし。

 わたしは裏口の沓脱くつぬぎに腰を下ろして、竹刀を四本の竹に分解した。ささくれた竹を抜き出し、手に持った小刀でそのささくれを除いてゆく。ゆっくりと丁寧に、確実に。



 ずっとむかし、わたしがまだ子どもの頃に同じようなことがあった。たしか、雨の降る日曜日だった。雨だし練習には行きたくないと母親に言ったら、習い事を雨で休むだなんてズル休みと同じです、行ってきなさいと剣道の練習に送り出されたのだ。雨の中、自転車を漕いで、いまはもう無くなってしまった、町道場に顔を出すと、H先生がひとり竹刀の竹を削っていた。剣道着姿で沓脱に腰を下ろして、いまのわたしがそうしているように。


「こんにちは」


 道場は真っ暗でだれも練習にきていなかった。やっぱり、こんな雨の日に剣道防具を積んだ自転車で練習に来るような子はいないんだと、暗い気持ちになった。わたしは親に言いつけられて始めた剣道が好きではなかった。


「やあ、Fくん。よく来てくれた。だれ来なかったら帰ろうと思ってたんだ。きみが来てくれたらおかげで練習できる」


 剣道が大好きなH先生はうれしそうに言って、わたしにも竹刀を見せるように言う。竹刀袋から取り出したわたしの竹刀を改めると、自分のものと同じように竹のささくれ除きはじめた。普段の練習では怖い先生と、こんなふうに話をしたのは初めてだった。わたしは言葉もなく、小刀に削り取られた竹の屑が、はらはらと三和土たたきに舞い落ちていく様子を見守っていた。


「むかし、ぼくが子供のころに同じようなことがあったよ」


 H先生は話しはじめた。


「ある日、道場へ行くとぼく以外だれも来ていなくてね。そのとき、当時の先生が言ったんだよ、Hくんが来てくれたから、先生も稽古ができるって。ひとりじゃ剣道はできないから、稽古相手がいることに感謝しようってね」


 H先生は、竹についた削り屑を払って竹刀に組み直すと、それを一振りして立ち上がった。


「これでいい。ふたりきりだけどはじめよう。Fくん、今日は道場に来てくれてありがとう。きみが来てくれたおかげでぼくも剣道ができるんだよ」


 その日、雨に降り込められた道場で、わたしは先生とふたりだけで剣道の練習をした。剣道のことは好きではなかったけれど、なんだか自分がとても良いことをした特別な日として、その日のことを記憶している。



「あれ、Fさんも道場へ来たんですか」


 道場の裏口に剣道仲間のIくんが顔を出した。中学校で剣道部の顧問をしているわが剣道クラブの若手で、今日の大会でも大活躍していた。


「挫いた足大丈夫ですか。それにしてもFさんは熱心だなあ、大会が終わった後も道場で竹刀の手入れをしてるだなんて。よほど剣道が好きなんですね」

「いや……。わたしはそんなつもりは」

「あはは。つもりはなくても、見てれば分かります。早く足を治して道場に来てくださいよ。待ってますからね」


 そう明るく言うと、Iくんは自分の防具を倉庫に片付けて道場を出ていった。今夜は、剣道大会の打ち上げと称して飲み会が行われるらしい。わたしもIくんから誘われたが丁重にお断りした。この足の怪我だ。わたしが行くべきは居酒屋ではなくて病院だろう。


「さて」


 Iくんの言うとおり、わたしはあまり好きではなかった剣道のことが好きになっているのだろう。竹刀のささくれを取る作業は、わたしにとって剣道が好きなことを再確認する作業なのだ。

 わたしは沓脱から腰を上げると組み上がった竹刀を宙にかざした。うん、すっかりささくれが取れて竹刀がきれいになっている。

 病院へ行こう。そして、足が良くなったらこの竹刀を持ってここへ来よう。わたしを待ってくれる仲間たちとまた剣道をするんだ。


(了)

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ささくれた竹刀とわたしのこと 藤光 @gigan_280614

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