ササクレ様

太刀川るい

第1話

 三島祐希の名字が変わったのは小学生の頃だ。

「もうこの家は私達の家じゃないの」

 母親はそういうと、祐希を連れて実家に帰った。

 祖母の家の古い畳の上で、祐希は両親の仲が良かった頃のことをぼんやりと思い出し、寂しくなった。


 中学に上がると、状況はさらに悪化した。

 母親は気分の浮き沈みが激しく、激昂したかと思うと、次の瞬間にはめそめそと泣き続けるような人だった。別れてからはさらに酷くなり、祐希は毎日母の顔色を伺って生きていかなければならなかった。


 祐希がササクレ様を手に入れたのは、そんな時だった。


 ある日の放課後、家に帰りたくないなと思い、公園のブランコに一人座って時間を潰していると、

「何をしているの?」

 見知らぬ人がいつの間にか隣のブランコに座っていて、祐希にそんなことを聞いてきた。

 祐希は正直に答えた。家のことも母親のことも。

「母が、もっと優しくなってくれれば」

 そう最後に祐希は呟いた。


 すると、その人物は、どこからともなく取り出した小さな箱を祐希に手渡した。

「なら、これを君にあげよう」

「なんですか? これ」

 祐希は、渡された木箱を振ってみた、500ミリのペットボトル程度大きさのものが入っている感覚があった。

「これはササクレ様さ。名前を唱えて開ければ良い。でも一つ忘れないで。自分を呼んではいけないよ」

 祐希は、言われるままに母の名前を唱えて箱を開けた。

 箱の中に入っていたのは、粗末な木彫りの人形だった。

 名前通り、かなりささくれていて、触ろうとすると、ちくちくと指に刺さった。


 祐希はササクレ様の顔をじっとみつめた。

 かろうじて人間と分かる程度にシンプルに彫られているが、不思議とどこかで見たような面影があった。これはなんだろう。そうだ。母だ。母親の顔によく似ている。

 棒人間のようにディフォルメされた顔が似ているわけはないのだが、なぜか母親だと分かるのは不思議だった。


「これをどうすれば良いんですか?」

 顔をあげると、もうその人物はいなかった。奇妙なことに、さっきまで話していたというのに、その人物の顔はどうしても思い出せなかった。


 箱の中には、一枚の紙やすりが入っていて、使った形跡があった。祐希はそのまま紙やすりをササクレ様に当てると、何度か優しく撫でた。

 表面のササクレがポロポロと落ちていくのが解った。


 少し楽しいと思った。そう言えば、図工の時間のヤスリがけは楽しかった。彫刻刀で彫り込んだ表面を、少しずつやすりの目を細かくして削っていくのだ。

 目が荒く、折り曲げるのも難しい煎餅のようなやすりから、砂漠の砂をボンドで固めたような色の中番へ、さらに灰色の厚紙のような目の細かい上番へとこすり続けていくと、木の表面はぴかぴかとした光沢をもつようになり、滑らかな表面を撫でると、とても気持ちが良かった。


 なんどか紙やすりをかけていくうちに、なんだか、ササクレ様の顔が穏やかになっているように感じられた。

 五時のチャイムが鳴り響き、祐希は顔を上げた。いつの間にか日は傾き、あたりは茜色に染まっている。家に帰らなければ母親に怒られる。

 祐希は、ササクレ様を箱に仕舞うと、急いで帰宅した。


 団地のコンクリートの階段を上がって、冷たい鉄の扉を開けた時、祐希は母親の怒鳴り声を覚悟していた。

 母親が怒る時は、まるで火山が爆発するようなものだった。気まぐれに激怒した後は、何もしないでただ横になったまま寝てしまうのだ。そんな時、祐希は一人で晩ごはんを作ってもくもくと食べるのだった。祐希はてっきり今日もそうなるのだと思っていた。


 ところが、母親は驚くべきことに平然としていた。

 ここ数年なかったかのような、穏やかな様子で、「晩ごはんはカレーよ」といい、おそろいのスプーンを食卓に並べていた。


 夕食のあとも、母親はずっと機嫌がよく、祐希は久々に幸せな晩を過ごした。

 寝る前に祐希はササクレ様を取り出して眺めた。

 普通に取り出すと、ササクレ様はただの木切れに見えた。だが、母親の名前を小声で唱えて取り出すと、明らかに母親の顔に見えた。


 これは、なにか普通ではないものだ。祐希はそう直感で理解した。


 数ヶ月がすぎ、祐希はササクレ様の力を理解するようになった。


 ササクレ様の表面は、唱えた名前の人の精神状態によって変化する。

 イライラしていたり、怒っていたり、そんな人の名前を唱えて開けると、きまって、表面はささくれだっていた。

 落ち着いて幸せそうな人の名前を唱えると、つるりとした表面のササクレ様が出てきた。


 そして、紙やすりでそのササクレを取り除くと、決まってその人は優しくなった。

 例えば、祐希の母はササクレ様を使ってからというもの、めったに怒らなくなった。気分の浮き沈みも小さくなった。祐希は定期的に母の名前を唱えては、ササクレ様をとりだし、その表面にできたささくれを一つ一つ取り除いていった。


 ホームセンターで新しい紙やすりを買った。目をだんだん細かくして削っていくと、母親のササクレ様はピカピカとした光沢のある表面まで磨き上げることが出来た。

 そこまでいくと、母親はもう別人だった。人柄は丸くなり、周囲ととてもいい関係を築くようになった。再就職も決まり、職場でもちゃんとした人間関係を築けるようになった。


 祐希は家にいるのが楽しくなった。この数年間で初めて、祐希は母親の顔をまっすぐ見れるようになった。


 それから、祐希は事あるごとにササクレ様を使っていった。部活の先輩、同級生、学校の先生……意地悪な人間はみんな穏やかになり、優しくなった。

 不思議なことに、ササクレ様は磨いても磨いても、減ることはなかった。

 ピカピカに磨き上げても、違う人の名前を唱えると、その表面はその人の精神状態に合わせて変化するのだった。


 就職してからも、祐希はササクレ様を使い続けた。結果として、祐希の周りは穏やかな人ばかりになり、祐希はストレスから開放された。

 祐希は周囲の人間を変えていくことに喜びを感じるようになった。自分は世の中を良くしているのだ。そういう実感があった。

 嫌な隣人も、マウントしてくる同僚も、嫌味な上司も、ササクレ様を使うと、すぐに人当たりの良い人間になっていった。


 ある日、好きな人ができた。

 出会ったきっかけは、大したことではない。誰かと知り合いになるとまずはササクレ様を使ってみるのが祐希に身についた習慣だったから、家に帰るとすぐにその人の名前を唱えて箱を開けた。


 だが、でてきたササクレ様を見て、祐希は驚いた。

 綺麗で美しかった。表面はなめらかで、どこもささくれてない。一番細かい紙やすりを当てたほどではないが、それでも最初からここまで綺麗なササクレ様を見るのは初めてだった。


 その瞬間、祐希はその人のことが好きになった。


 ここまでささくれていないということは、皆に愛されてきたということだ。

 祐希はその心に惹かれるようになった。


 祐希は毎晩の様に、その人の名前を唱え、ササクレ様を取り出した。いつ見てもそのササクレ様は、綺麗に手入れされていた。

 そこに、紙やすりを当てる気は起きなかった。

 その人に対する冒涜だと思った。


 そもそも……他人の心に手を入れることに祐希は小さな罪悪感を感じていた。

 母親は確かに優しくなった。だが感情の起伏が減ったのも事実だ。時々、ふっと呆けたような表情を見せることがあり、祐希はそのたびに胸を痛めた。

 もしかしたら、自分は母親の人格の一部分を削り取ってしまっているのではないか。そう考えて無性に怖くなった。母親以外でも、自分がヤスリをかけることで、相手の心を少しずつ削っているのだとしたら、自分にそんな権利があるのか。そう自問自答したことも一度や二度ではない。

 だが、手を止めたことはなかった。自分はいいことをしているのだ。世の中を優しくしているのだと自分に言い聞かせ、紙やすりを手に取った。

 大体、嫌な奴にどうして自分が耐えなければならないのか。そんな義務は存在しない。私には幸せになる権利がある。そう、自分に言い聞かせてササクレ様を使い続けてきた。


 でも、このササクレ様に手を入れることはどうしてもできなかった。

 そのままにしておきたかった。


 しかし、祐希はどうすればよいのか分からなかった。愛されてこなかった人間に、愛し方など分かるはずもない。ササクレ様をぼーっと眺めるだけで、数年の月日が流れた。


 その人が結婚すると聞いた時、祐希はぎこちなく笑って「おめでとう」と言った。

 そして、家に帰ると食事も取らずに横になった。

 なんとなく予感はあった。どうしてあのササクレ様が美しかったのか。


 愛されていたからだ。愛されていたからささくれることがなかったのだ。愛してくれる恋人がいたのだ。

 それは、自分の紙やすりの力ではなく、人間が元から持っている力だった。そして、その力が自分には決して手に入るものではないのだ。


 ただひたすらに苦しかった。胸が痛かった。全身に重りを付けられて深海に沈んでいくようだった。

 しかし、涙は出なかった。泣けたらどんなに良いだろうと祐希は思ったが、腹立たしいことにその両目は枯れてしまったかのようにいつも通りだった。心が干からびてしまったんじゃないかと思った。

 この苦しみをどうすればよいのだろう。


 気がついたら、祐希はササクレ様の箱を取り出していた。


「三島祐希」


 そう唱えて、箱を開けると、中からササクレ様が姿を表した。


 ああ、自分だ。とその時思った。笑ってしまうほど、ささくれている。

 今までの人生、人のささくればかりを気にしてきた人間の、心などこんなものなのか。

 祐希は自嘲気味に笑った。

 笑ってくれ。これが他人を変えてばかりで、自分を変えるなど考えもしなかった。エゴイストの醜い心だ。これでは、振り向いてもらえないのも仕方がない。


 嫉妬や虚栄心、怒りや恨みなど、ささくれの一つ一つの意味が、今の祐希には手に取るように解った。

 祐希は寂しい顔で、紙やすりを手にすると、その表面にそっと当てて、そしてぐっと力を入れると一気に擦り上げた。


 自分の中の何かが擦れて消えていく感覚がした。

 ああ、そうか、これがササクレ様を使われた感覚なのか。

 祐希は理解した。嫌な気分ではなかった。むしろ清々しい気分でもあった。

 続いて、もう一度擦った。

 全身の垢が落ちていくような、心が軽くなる感覚があった。同時になにか大切なものを失ってしまったような喪失感が胸の中に沸き起こった。

 心の一部がなくなると、こんな気持ちになるのか。祐希はぼんやりと理解した。


 これ以上削ったら、あの人への想いも消えてしまうのだろうか。

 そう考えて、祐希は一瞬手を止めた。

 だが、それを覚えていて、何になるのだろう。あの人は幸せになったのた。であるなら、自分も前に進むべきじゃないのか。


 震える手で祐希は3度目のヤスリがけをおこなった。

 なぜあの人に執着していたのか、祐希には思い出せなくなった。

 悲しみだけが胸の中に残った。それもまたすぐに消えてなくなるだろう。


 紙やすりがササクレ様の表面を動く度に、祐希はどんどんと楽になっていった。重い荷物を一つ一つ下ろしていくようなそんな感覚があった。

 そうか、これがあるべき姿だったのか、無心に手を動かしながら、祐希は悟った。

 最初から全て捨てるべきだったのだ。そうすれば楽になったのに、なぜ自分はこんなものに固執していたのだろう。

 ササクレ様はみるみるうちに小さくなっていく。だが、祐希の手は止まらない。


 数日後、連絡が途絶えたことを心配した同僚が、祐希のアパートに行き、そこで、小さく微笑んで倒れている祐希を見つけた。

 床には、大量の削り屑が残っており、近くの木箱の中には、マッチ棒の軸のかけらのような小さな木片だけが入っていた。


 命に別状はなかったが、祐希の様子はおかしかった。

 声をかけても反応は鈍く、無気力そのものだった。


「まあ、全ての欲がなくなったんでしょうな」

 医者は祐希を見ると、そう言った。

 今の祐希からは、食欲や睡眠欲という生理的欲求すら、ほとんど失われていたが、なぜこうなったのかは誰にも分からなかった。


 金も権力も愛情も、承認欲求も、全てのものが祐希には無意味だった。


 それから、祐希はずっと施設にいる。

 祐希はもう何もする必要はなかった。心は平穏で、ゆっくりと呼吸をするだけで、日なたのたんぽぽのように全てが満たされていた。

 今日も祐希は静かに生きて、ただひたすらに満足だった。

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ササクレ様 太刀川るい @R_tachigawa

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