第4幕 巨悪

 カロカロは道を振り返った。


「あれ、来ない……」


 少女は花畑に彼を置いてきた。

 走って走って、追いかけて来た彼がすぐ後ろに居るだろうと思って振り返った。

 けれど、クアインは居ない。


 途端にカロカロは寂しくなった。

 最近はずっと彼が隣に居て、寂しさを感じる暇もなく、いつだって手を伸ばせば触れられる位置に彼が居た。彼の温かさがあった。

 今は、孤独だけがある。


「あ……」


 街に居場所がある人間は、街を歩く時、大勢と共に乗り物に乗っている時、道路を横断する時、いつでもそれなりに1人ではない。

 友達や仲間が居る人間は、いつも誰かが隣に居て、1人で歩く時ですら、心の傍に大切な人達が居てくれるような感覚と共に生きている。


 だが、カロカロにはそういうものがなかったがために、道を歩く時はいつも1人だった。

 孤独の移動が日常だった。

 誰の足音も無い。

 誰の話し声も無い。

 これは、彼女にとっては慣れ親しんだ孤独であり、二度と味わいたくない孤独であった。


 少女はぎゅっと服を掴んで、近場の川で冷やされた肌寒い風に身震いして、そして。


「なんで後ろを振り返ってるんだ」


「そりゃーあんたがいつまでも来ないからに決まってわああああああああああああっとっととと突然後ろに現れないでよビックリするじゃない!?」


 びっくりして飛び上がった。


「初めて見たわけではないだろう、私の長距離瞬間移動の能力は」


「黙ってあたしの背後に跳んできたのは絶っっ対にあたしをビックリさせる目的以外無いでしょ!」


「そうだが」


「きええええっ! 噛んでやる!」


 飛びつくカロカロをクアインが受け止めて、噛みつきをひょいひょい避けていく。


 カロカロを抱き上げるクアインの細い腕の感触が、少女の肌に残る。

 温かった。

 力強かった。

 安心があった。

 世界にただ1人生きる、同族無き堕天使。

 彼女が今『ここが私の居場所だ』と思える場所は、彼の腕の中だけだった。


「お前はいつもくっついて来るな」


「なぁによ。文句あんの? あんただって嬉しーでしょ? あんたもあたしのこと……か、可愛いってさ、言ってくれたんだし」


たしか人間は成長するにつれて骨格が変化するため、子供の頃に可愛いと大人になる頃には微妙な顔になっていることも多いと聞くぞ」


「なんでそういうこと言うの!! 調子乗んないでよ、今はあたしのがあんたよりずっとずっと可愛いんだからね!」


「む。たしかにそうだな。私に可愛さというものが備わってない以上、勝ち目はないか」


「へーん、あたしの勝ち! までも、クアインはあたしほど可愛くはないけど、かっこいいから胸張って街を歩いていいのよ!」


「……やれやれ、私の負けだな」


 花畑から2人がプブリの街に戻ると、影の鮫に襲われる前と異なる方向の入り口から入ったからか、街に入るや否や、2人は人混みに当たった。


「わっ、何かしら、人がたくさんいるわ」


たしかではないが、感謝祭の類に見えるな」


「かんしゃさい?」


 カロカロは瞳をキラキラと輝かせ、道いっぱいに並んだ売店や、そこかしこで買い、食い、遊び、歩き、笑い合っている人達を見つめた。


 農耕の役割を終えた家畜達を食肉に回し、王都に出荷できなかった形の悪い野菜達と一緒に煮込んだ、芳醇な味と色合いのスープ。

 近年かなり増えているという、野生バッファローの肉を四角く切って串を通した串焼肉。

 串は植物と動物の中間である植物系魔物の枝を削って作られており、串まで食べられ、味も絶品であるらしい。


 感謝祭を行き交う人々の合間を、キラキラとしたトビメダカが飛んでいく。

 その後を涙目の子供が追いかけている。

 どうやら屋台で親に買ってもらったトビメダカが、袋から逃げ出してしまったようだ。


 十字路の中心では、旅の演劇一座が掌から魔法や氷を次々生み出し、『勇者フェニキアと22の騎士』の演劇を行っている。

 流れの吟遊詩人がそれに音楽を付け、大人も子供も大盛り上がりのようだ。


「収穫した農作物や家畜や、恵みを分けてくれた自然に感謝をしながら、それを振る舞う祭りだ。肉も野菜も美味しいものが食べられるぞ」


「! ……クアイン、行きま……行っていい?」


 『行きましょう!』と元気に言い切れず、まだ少しだけ遠慮が残ってしまっているのは、彼女のこれまでの人生を考えれば、仕方の無いことなのかもしれない。


「そうだな、行くか。私の勘だと影の獣は日付が変わるまでは出て来ないだろう。先程のように街中で襲われる可能性はやや低いはずだ」


 普通の人間は未来なんて分からない。分からないはずなのだが。クアインがこう言うと、カロカロを安心させるために嘘を言っているのか、クアインが本当に未来を見ているのか、まるで分からない。


 怖いくらいに頼りになるクアインに、カロカロは安心した様子で苦笑した。


「あたし、あのバケモノが世界で一番恐ろしいと思ってたんだ。でもクアインと並べるとなんかショボく見えちゃうもんなのね。慣れって怖いわ」


「世の中、そんなものだ」


「そんなもんかぁ」


 クアインは、何気なく手を差し出した。


 あまりも多くの人間で溢れている感謝祭の中で、クアインはカロカロだけを見ている。


たしかに繋げ。はぐれないように」


 カロカロは手を伸ばしかけて、少し躊躇った。

 年頃の少女にとってそれは、恥ずかしかったし、照れくさかったし、嬉しかったから。嬉しかったから、躊躇った。

 けれど、躊躇ってから、彼の手を取った。


 それは、信頼の雛。信用の証明。

 彼を深く信じ始めた少女の選択。

 『絶対にあたしを1人にしない人』だと、彼女は彼を信じ始めた。

 それが回り回って、喪失と孤独に蝕まれていた彼女の心を癒やし、救っていた。


「ねえねえ、どこから行くの、クアイン!」


「どこからでもいいだろう」


「よくないわよ!」


 クアインの手を引くカロカロが駆け出した。

 まず訪れたのは、氷菓子屋。

 形を保っている限り溶けない薄い氷の殻の中に、この地方の特産果実の果汁を閉じ込めた氷菓子。それを買って、口の中で噛み砕くと、砕けた氷から果汁が溢れ出し、氷と混ざってしゃくしゃくと鳴り、面白い食感と味がカロカロを楽しませる。


「おいひっ。もう3個くらい……」


「ダメだ。お腹を壊すぞ。あと1個だけになさい」


「えー、ケチ。どの味にしよっかな……」


 歩き回って、遊び回って、東方の文化の『お面』を出している屋台を見つけて、2人で足を止めた。


「見てクアイン! あのお面、たぶんクアインよ! なんか絶妙にぶっさいくだわ!」


「なに? ……本当だ。私のお面だなあれは。しかも不細工なのも本当だ」


「クアイン有名人なんでしょ? お面の1つや2つくらい作られるもんなんじゃないかしら」


「なるほどな。店主。そのお面を一枚買うぞ」


「アイヨー」


「え? 買うんだ」


「見ろ。クアイン・オン・ザ・クアイン」


「……ぶははははははっ! あははははっ! く、クアインの顔にクアインの顔が乗ってる! しかもお面のせいで不細工になっちゃった! あはははははははっっ!!!!」


「店主、もう一枚買うぞ」


「アイヨー」


「クアイン・オン・ザ・クアイン・オン・ザ・クアイン……! 面の皮厚く生きていくぞ」


「あははははははははははっ!!!!!」


 2人は感謝祭をしている街の一角を、時計回りにぐるっと回って、街角で子供達も出し物をしているのを見つける。子供達が捕まえてきた掌より小さな虫を戦わせ、どちらが勝つか観戦者達が飴玉を賭けて遊んでいるようだ。

 自慢の虫を戦わせようとする子供達と、観戦者の大人達に無料で飴を配っている子供達と、年相応ながらもよく役割分担が出来ている。


「クアインクアイン、どっちが勝ちそう?」


 見たことがない遊び、見たことがない賭け事に、お遊びで賭ける飴玉を握り締めて、興奮するカロカロ。

 もしも、カロカロが普通に育った人間の子供だったなら、クアインがここに連れて来た意図が『彼女に子供の遊びを教えてあげたい』という深慮であったことに、気付けただろうか。気付けなかっただろうか。

 クアインは口に出したりはしないので、結局は気付かないのかもしれない。


「私はもう勝つ方に賭けてきたぞ」


「勝ちそうな方がじゃなくて勝つ方!? というかもう賭けてきたの!?」


「見れば分かる。人の決闘の勝敗を見極めるよりはずっと楽だ。虫は残酷なほど単純だからな」


「え、うーん、うーん……でっかい方が勝つ!」


「本当にそれでいいんだな?」


「えっ……じゃ、じゃあ、小さくで艶っぽいの」


「本当にそれでいいんだな?」


「えっ……や、やっぱでっかいので……」


「本当にそれでいいんだな?」


「惑わしてくるなぁー! いい年した大人がー! 噛んでやるわよー!?」


「可愛いらしいな、お前は」


「か、かわっ……とにかくあっち行ってなさい! あたしは真剣に勝ちに行くんだから! しっしっ」


 カロカロに押されて離れたクアインが、知らない親御さん勢に「娘さんが思春期だと大変ですねえお父さん……ホゲぇ剣神様!?!?」とリアクションを取られている間に、カロカロの応援を受けた虫が戦い始める。


 結果から言えば、カロカロが応援していた虫は負けた。物凄い勢いで投げ飛ばされて負けた。


「あー! 負けたぁ!」


「私はまた勝ちだな」


「あんたは半ばカンニングでしょ!」


「剣神は負けん。そういうものだ」


「どういうもの?」


 買った方の虫の主らしき子供が、勝ち誇って拳を突き上げる。皆がお遊びで賭けていた飴が勝者の前に積み上げられる。

 どうやらそういうルールであるようだ。


「うむむ、あたしがやってたらあんな田舎っぺのガキどもなんて蹴散らしてやるのに……!」


「お前もガキだろう。……やればいいじゃないか。次の祭りでも、次の次の祭りでも」


「え?」


 『そんなこと考えもしなかった』とばかりに、カロカロは呆けた声を漏らした。


 クアインは、カロカロに未来を考える機会を与えていく。


「好きに生きればいい。どうせお前の敵はこの先に生き残ることはない。お前は自由だ」


「自由……」


「自由というのは、お前が誰かに大層な迷惑をかけない限り、お前は好きに生きていいということだ。他人の自由を好き勝手奪う悪なる人間はどうせ死ぬ。私や他の騎士が殺すからな」


「うひゃあ」


「墓参りの途中、墓参りから帰ったらやりたいことでも考えておけ。やりたいことがあれば周りの人間を頼ってみろ。応えてくれる。私は……それなりには、私が守ってきたこの国に生きる人間というものを、信じている」


「それなりなのね」


「それなりだ」


 クアインがこういう話をしている時の、どこか穏やかで、優しげで、何かを信じていて、何かを託しているような、そんな夏の日の凪のような表情が、カロカロは好きだった。


「善い奴も居る。悪い奴も居る。お前を虐める人間も居るだろう。お前を守る人間も居るはずだ。私に『人間はこういうものだ』なんて語ることなどできんよ。ただ……お前に優しくしてくれる人間が多く居る国であると、信じているのだ。騎士として」


 何度も、何度も、カロカロは思う。


 この人でよかった、と。


「クアインがずっと守ってくれたらよくない?」


「私には他の仕事がある。お前は私の知らない所で勝手に幸せになっていろ。いい里親といい学校は探しておいてやる」


「えー。どしたらついていってもいい? あ、あたしがメッチャ強くなったらいいかな?」


「……そういう話ではないんだが……」


「いいでしょ! ね? クアインがあたしの相棒で、あたしがクアインの相棒! ね、どうかな」


「ダメだ」


「ケチー! 絶対前言撤回させてやるわよ!」


「……まったく」


 2人、手を繋ぎ、帰路につく。向かうは宿。

 帰り道、2人でなんてことのない話を繰り返すと、心の距離が近付くような感触があった。

 堕天使と騎士。

 けれど、2人は先祖のように敵同士ではない。


「パパとママがね。人の心は箱なんだって言っていたのよ。今なんとなく思い出したわ」


「箱?」


「色んなものが詰め込まれてる。色んなものが飛び出してくる。他人に見えるのは外側だけ。そして、中身は開けてみないと分からない……」


「なるほど、たしかに箱か」


 心の箱。

 そこには、形の無いものが詰め込まれる。

 想い

 記憶。

 思い出。

 信念。

 怨恨。

 後悔。

 恋愛。

 親愛。

 友情。

 ハコの中にあるものがハコを動かすにも関わらず、箱の中身は開けてみるまでは分からない。中身が綺麗でも、汚くとも。


「あたしの箱、どうなってるのかな」


 少女は小さな手で、ぺたぺたと己の胸に触れる。


「これから詰め込んでいく箱だろう、それは」


「……うん、そうよね!」


 心が箱なら、そこに何かを詰めていくのは人生であり、出会いであり、未来だ。


 既に大人になっているクアインよりも、これから大人になっていくカロカロの方が、色んなものを箱に入れていくことができるだろう。


「クアインの箱には、何があるのかしら」


 カロカロの何気ない言葉に、クアインは少し考え、彼らしくもなく逡巡し、また少し考えて、分からなかった答えを保留した。


 それは、見えない真実の多くを直感的に見通す彼が、唯一見通せないもの。心を映す鏡でも無ければ、自分で自分は見えやしない。


「私の心に何が詰まっているかなど、私自身が知りたいくらいだ。自分が一番自分を知らない」


「きっと綺麗なものがいっぱい入ってるんだろうなぁ! あたし、一回くらい見てみたいわ。クアインがハコにどんなものを入れてるのか見てみたいもの」


 屈託なく言う堕天使の少女に、クアインの心のどこかが、引っ張られるような心持ちがあった。


「ロクなものは入れていないぞ。うちの国の国王がお忍びで温泉に行った時に着替えを忘れて裸で部屋まで帰ることになった話とか……おっと、これはたしか口止めされていたな」


「え、何それ」


「ダメだ。我が国の王の話は機密なんだ」


「気になるでしょ! 教えなさいよ!」


「ダメだ」


「きーっ!」


 また堕天使が飛びかかって、騎士は噛みつきを避ける流れに入るのだった。






 2人は宿に帰って行った。

 影の獣が襲ってきた、ということもなく、大きな出来事があったわけでもなく。

 ただ一度、クアインが振り返った。

 振り返った先で、担架で運ばれる男が居た。

 それだけ。


「……ラメドゥス?」


 クアインが振り返って『担架で運ばれている誰か』の名前を呼ばなければ、カロカロは人が運ばれていたことさえ気付かなかったかもしれない。

 そのくらいにはコソコソと、夜の闇に紛れて運ばれていた。


 クアインがラメドゥスと呼んだその男は、担架の上で力なく横たわり、浅い呼吸を繰り返し、何人かの男に運ばれていた。

 その男には、右目が無かった。

 薄暗い闇の中でもハッキリと分かるほど明確に、顔に一直線の傷を残して、眼球が抉り取られていた。

 傷跡から止めどなく血が流れ出している。


「え、あれ人? クアインの知り合い?」


「……強いて言うなら、同じ上司の下で動いていた同僚にあたる。だが……あの傷は……」


 カロカロはその時初めて、クアインが本心から動揺し、それを隠すことに失敗しているのを見た。

 だからこそ、彼女はなんとなく感じていた。

 あのラメドゥスという男が血を流して運ばれているということが、異常事態であるということを。


「そうそう負ける男ではない。私も次の騎士団長にどうかと推薦していたほどの男だ。清廉潔白、民を愛し、家族を愛し、10人から同時に弓矢を放たれても全て射手へ打ち返す棒術も修めている」


「わぁ、強いのね……」


「……片目が無ければ、得意の反射剣も扱えないか。あれでは前線に居続けるのは難しかろう」


 カロカロはクアインの動揺を感じてはいたが、いまいちピンと来ていなかった。

 影の獣による危機感の麻痺、世間知らずを常に見せる無知、そして本人の生来のふわふわした気質が、事をあまり重大に受け止めさせていなかったのだ。


「何があったのかしら……ふわぁ」


「さあな。後でたしかな話を聞きに行ってみるか。今日はもう寝た方が良さそうだ」


「あ! 今あたしのあくび見て決めたでしょ!」


「ちゃんとした立派なレディは男性の前で欠伸あくびを見せないそうだぞ」


「えっ、そうなの!?」


 そんなカロカロの内心を見透かして、少女の気持ちがそれ以上そちらに向かないように、クアインは彼女の手を引いて行く。


 クアインがプブリの街で取った宿は、3階建ての木造建築だった。

 大昔に此処で倒された大魔獣の全身の骨に木材を組み合わせ、大嵐や大地震でも壊れないようにした、この世界の古い建築によく見られる建築様式だ。


 この辺りには土着民に「カオリムシ」と呼ばれる虫がおり、その虫は香りを頼りに餌を探し、香りの良い草木しか食べず、光に集まる習性も持っているため、夜に火を炊いていると、自ら火に突っ込んで燃え尽き、それまで食べて来た香りの良い草木の香り成分を火の中に吐き出していく。

 これが、この地方の香り纏う篝火の特徴だ。


 そんな和やかな香りの中、夜ふかししてクアインとずっとお話しようとするカロカロを、クアインが絵本を読んでやるなどして、寝かしつけていた。

 "もうそんな歳じゃない"と言いつつも、聞き始めればカロカロはお話に夢中になっていき、少しずつ夢の中に落ちていく。


「───そして、騎士タウは皆のお墓を守る騎士となったのでした。おしまし、おしまい」


「……ん。いいお話ね……」


たしかにな」


「ちょっと……パパとママの読んでくれた絵本のこと、思い出した。箱の中にね、沢山の災厄と、1つだけの希望があって、箱を開けると災厄が飛び出して来るけど、箱に1つだけ希望が残ってる、って」


「ああ……あったな、そういうものも」


 ベッドに横になっているカロカロ。ずれていた掛け布カンフォーターをカロカロに掛け直すクアイン。クアインの手が、カロカロの乱れた髪を整え、優しく撫でた。


「この世界も……箱なのかしら……」


 クアインの撫でる手が止まる。


「あたしにとってこの世界ハコには、災厄しかなかった。誰も救ってくれなかった。誰も守ってくれなかった。真っ黒な獣はあたしも、あたしの大切な人も襲って、人間は皆あたしを嫌ってた。でも……希望が……1つだけ、残ってた……」


 止まった男の大きな手を、小さな少女の手が握る。


「あたしの、希望だよ」


 ぎゅっと、クアインの手が握られる。


 握る力に、万感の想いが込められていた。


 ぽつり、ぽつりと、クアインは言葉を零す。


「師匠が言っていた。『災厄と同じ箱に閉じ込められていても、災厄に負けず、災厄に殺されず、災厄に染まることなく、災厄に屈することなく、周りの全てが敵の中で自分を貫く。その希望というものは最も強い心の象徴だろう』……だったか」


 それは、今は亡きクアインの師の思い出。人々に悪夢を刻み、クアインに討たれたクアインの師が、クアインに残した教えの1つ。


「だが、私の意見は違う。箱の中の希望は災厄を皆殺しにするべきだったのだ。誰かが箱を開けてしまう前に。箱の外の誰かが傷付いてしまう前に。箱の中には希望しか居なかったのだから、希望が全ての災厄を倒しておくべきだった。『お前にしかできないことはお前がやり遂げろ』という話だ」


 そして、クアインと、クアインの師が、全く違う考えの人間であることを証明するものの1つ。人には人ぞれぞれの考え方があり、人ぞれぞれの回答がある。そしてそれぞれの回答にこそ、その人間の本質が垣間見えるのだ。


「私がお前にとっての希望なら、私はお前に降りかかる災厄の全てを討ち滅ぼそう。私はこの世界ハコの中に邪悪が生きることを許した覚えはない。この世界ハコに災厄など必要無い。誰もそんなものに"在ってくれ"などと求めていない」


「……うん、そうだよね」


「安心して寝ろ。大抵の敵は、私より弱い」


「うん……だよね……クアインは強いんだ……クアインが……居てくれて……出会ってくれて……守ってくれて……ほんとうによかった……」


 少女は、深い眠りについた。

 安心が、そこにはあった。

 信頼が、そこに根付いていた。

 幸福が、そこに芽生え始めていた。


 クアインの手が少女の手を離れ、金と紫の入り混じった堕天使の髪を撫でる。


 そして、その手が口元を押さえた。


「ゴホッ」


 吐き出されそうになった大量の血、内臓、今日カロカロと共に食べたものを全て吐き出しそうになった口を塞いで、クアインは全て飲み込んだ。


 内臓が、食べたものを何も消化できていない。

 吐瀉物に混じる内臓の色が悪くなってきている。

 吐き出す血の色も、またどす黒い。

 クアインは吐き出しそうになったものを飲み込んでから、懐の瓶を取り出し、中の薬を全て一気に飲み干していく。


「はぁ、はぁ、ハァッ……けほっ、がほっ」


 今飲んだものが、最後の薬の瓶だった。

 予定より遥かに早く薬を消費してしまっている。それも、身体に薬剤耐性ができているだとか、そういうことではない。のだ。


 もしたとえば、クアインがカロカロを誰か他人に任せ、黒幕の討伐も他人に委ねていたら、クアインは残り時間を好きに使えていたかもしれない。

 やり残しの無い人生、というものを目指して残り時間を過ごすことが出来たのかもしれない。


 だが、クアインはこの道を選んだ。

 残り時間の全てを、初対面のひとりぼっちの少女を守ることと、その少女を苦しめる悪を討つことに費やすと、そう決めていた。

 彼は、騎士であるからだ。


 手を洗い、口を洗い、綺麗になった体で、クアインはぐっすりと眠る少女の寝顔を見下ろす。


「残り少ない時間をたしかに費やして、それで手に入ったのがこの寝顔か」


 それが、残った命と引き換えに得たものならば。


「十分過ぎるな」


 彼は、満足だった。


 クアインは鍛冶屋で購入した鉄剣、姫から与えられた霊剣フェニアを携え、部屋を出ていく。


 剣気が、彼を呼んでいた。






 剣気。

 それは強者の証。

 発達しすぎた存在感だ。

 クアインは度々、カロカロに向けられる敵意に近い意識によって、意識に引きずられる形で漏れ出していた僅かな剣気を感じていた。

 だが、その居所までは分からなかった。


 剣気を発する時点で人類の上位であり、剣士1万人につき1人という頂点の頂点。

 その中でも剣気を隠せる人間となればほんの僅かであり、剣気を辿って位置を把握できる人間ならば、この世界にせいぜい10人居るか居ないか……というところだろう。


 そんな人物が、カロカロを狙う勢力に少なくとも1人居る。その人物が、挑発するように剣気を向けてきている。明らかな誘いであったが、クアインは正面から乗った。

 クアインの目的は、王命を果たすため、1人の少女を守るため、この事案の黒幕を討ち果たすことであったからだ。


「……」


 クアインは宿を少し離れた、プブリの町庁舎の屋根に飛び上がる。


 夜空が広がっていた。

 夜風が流れていた。

 夜景が美しかった。


 そこに、影に食われた男が居た。


「死にかけじゃあないか、なァ」


 男が、クアインを挑発する。


 男は、顔を半ばほど影に食われていた。

 男は、身体を影に食われていた。

 男は、己の影を影に食われ、影がなかった。

 月下、影無き男が、劣等感の混ざった嘲笑の笑みを浮かべている。


 誰なのか判別困難なほどに顔が食われたその男だが、クアインはその剣気にて、その男が誰であるかを思い出していた。


「その剣気、覚えがある」


「……」


「ラメドの家の剣士。エルラメルドだな」


「正ッ解! いやァさあァ、剣神サマが僕のことを覚えてるなんて嬉しいねえッ」


「才能を腐らせた男は印象に残る。私は周りが思っているより、『もったいないな』と思う人間だ」


 ぴしり、と。

 影に食われた男に、青筋が走った。


「そーかいそーかい。まァ、剣神サマじゃあ僕のことをそうとしか記ィ憶してないのは当たり前だよなァ……そりゃあそうだァ……」


「まず1つ、答えろ」


「あァ?」


「貴様、兄を斬ったな」


 エルラメルドが目を丸くして、にぃぃぃっと笑った。心胆腐り果てた男の笑みであった。


 1人の勇者と22人の騎士の伝説。そこに語られる最強の騎士ラメドの子孫は、幼少期から周りに期待される兄弟だった。

 兄のラメドゥス。

 弟のエルラメルド。

 仲睦まじきラメドの兄弟。優しき兄と天才の弟、2人セットでよく社交界の話題になっていたことを、クアインはよく憶えている。


「正ッ解。よくご存知で!」


「何故兄を斬った? ラメドゥスはお前にも優しい兄であり、兄弟仲も良好であったはずだが」


「弱ェくせに僕を止めようとしたからだよォ! 弱いくせに! 弱いくせに! 弱いくせに! なァにが兄の義務だよ! 負けた奴に価ァ値なんて無いんだ! だから勝ち続けるんだよ!」


「……」


「お前も邪ッ魔だ剣神。お前もお前もお前もォ! お前に負けなければそのままだったんだ! 僕はずっと無敗だった! 負け無しだった! 誰からも期ッ待されてた! 捧剣祭で優勝するはずだった! 分かるか!? お前に奪われたんだよ! 全部を! 死ね! 死ね! ……死ね! 殺してやるッ!」


 20年以上、前のこと。


 ラメドゥスの弟エルラメルドは、御伽噺に語られる最強の騎士ラメドの子孫として生まれた。

 その剣才は、100年に1人と謳われたほど。

 エルメラルドはいかなる剣士と戦おうとも全戦全勝、無敗の記録を打ち立てたまま、多くの人の期待を背負い、自信満々に捧剣祭に出場した。


 そして、世界中の強者が集まる捧剣祭の決勝で、クアインに負けた。

 完膚無きまでに。


 自信は打ち砕かれ、期待は失望に変わり、最強の称号はクアインのものとなり、称賛もクアインに奪われ、栄光もクアインの下へ集まった。

 兄ラメドゥスはエルメラルドを献身的に励まし続けたが、表向き立ち直っても、心の奥底には捻じ曲がった想いと、汚泥のような怨嗟、タールのような後悔がずっと積み上がっていた。


 あの日、世界の頂点を決める戦いであった捧剣祭の決勝で、勝った男と、負けた男が、今ここで対峙している。少女の命運を決めるために。


「クアイン! お前さえ居なければ!」


 それは、追いかけてきた過去だった。

 剣神という常なる勝者が踏みつけてきた、多くの敗者の逆襲だった。


 少女を殺さんとした男が、少女を追う過程でたまたま剣神とぶつかった結果吹き出した、底の知れない感情だった。

 一言で言えば、逆恨みだった。


 エルメラルドが悪ゆえに少女を殺そうとする男であるならば、この男が悪に落ちた遠因は、剣神クアインが勝ち続けた過去にあった。


「お前さえ、お前さえ、お前さえ!」


 誰よりも才能に溢れ、誰よりも勝ち続け、誰よりも成功を期待され、誰よりも未来の栄光を確信していたのに、一度の敗北で、立ち直れないまま、底の底まで転げ落ちた、元無敗の少年。


 その果てが、この姿。


「捧剣祭の決ッ勝で、お前なんかに、負けなければ……こんなみじめな人生にはならなかったッ!」


たしかな主張と言うべきか迷うな。お前には、お前に寄り添ってくれる兄が居ただろうに」


「僕より貧ッ弱な兄なんかどうでもいいんだよ! 鬱ッ陶しいだけだ! 兄に励まされたからって決ッ勝でお前にお前に負けた僕の恥が無くなるのか!? ああッ!?」


「勝利が全てではないはずだ」


「勝ち続けてるアンタが言って誰に響くッ!?」


 クアインは失望していた。

 ありとあらゆる事柄に。

 その中には、かつて会った時にこの男が『こうなる』可能性を見抜けなかった、自分自身への失望も含まれていた。


 エルメラルドは憤慨していた。

 堕天使を追って殺そうとしていたはずの彼。

 だが今は剣神への憎悪に染まっている彼。

 エルメラルドは目的を見失って居たが、クアインが剣の柄に手を掛けたその時、エルメラルドの懐が揺れた。


 エルメラルドが慌てて懐に手を入れると、その手が真っ黒な箱を引きずり出した。


 黒に、銀の文様、赤い宝石が付いた、吸い込まれるような色合いをした箱だった。


 クアインの瞳が、それを見つめる。

 剣神の本能が、警鐘を鳴らす。

 王命を受け、各地を巡って伝承や石碑を調べ上げてきたクアインの記憶が、『過去に出現した魔王を描いた壁画などに書かれていた四角い道具はあれなのではないか』と囁いている。


 そして、クアインの直感は、と叫んでいた。


「あ、御主人様ァ! はい、はい……僕ァ分かりましたァ! 堕天使もちゃんと殺りますッ! はいはいはいはい! 勿ッ論です!」


 取り出した箱を耳に当てて、エルメラルドは何やら会話をし始めた。


 クアインは、箱の中に何かが居て、それと会話している可能性を考えるが、勘が『厳密にはそうではなさそうだ』と囁く。


 箱を耳に当て、というその概念は、未だこの世界では発明されていない概念である。


「遊んでられなくなっちまったなァ」


「誰と話していた?」


「誰がアンタなんかに教えるかよォ」


 エルメラルドが、箱の表面をなぞる。


「!」


 すると、ただそれだけで、無数の影の獣が出現する。数は120。犬に鳥、魚に熊と勢揃いだ。

 一匹一匹が、未だ剣神クアイン以外には誰も突破できていない、絶対の無敵性と桁外れのスペックを備えている。


 これで確定と言っていいだろう。

 堕天使カロカロに差し向けられた、あの規格外の獣は、エルメラルドがこの箱を使って生み出していたのだ。

 しかしクアインは、これから戦闘に入る空気であるというのに、腰の剣を抜かないエルメラルドの、その心の在り方こそが気になった。


「剣はどうした、エルメラルド」


 エルメラルドの表情が、歪んだ。

 歓喜ではない。

 怨恨ではない。

 ただ、歪みきった後悔があった。


「僕にはコレだ、コレしかなかった。だけどよォ、剣しか無かった奴が、剣で負けて後に何が残るんだ? だからな、力をくれって願ったんだよ、僕は。そうしたら力を与えてくれる御方が居た! 僕はもう剣神なんぞに負けやしない! 剣を振るなんて馬ッ鹿なことはもう辞めたんだ!」


 クアインは剣の柄を握り、ゆっくり引き抜く。

 鉄剣を右手に。

 霊験は鞘に。

 左手はゆらりと自由に構える。


 そして、溜め息を吐いた。


 深く深く、溜め息を吐いた。


 『長々と説教などせずとも、斬り殺せば結果は同じだ』という、呆れから湧いた思考があった。


「あの堕天使を殺せば僕はもっとデカい力を貰える。だから楽しみならが殺してやるか、なんて思ってたけどな、気が変わったよ。剣神サマ、あのガキがお気に入りなんだろ? アンタの目の前であのガキを生きたまま、ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり、バラバラにしてやるよ。是非頼んでくれよなァ!」


 そんな剣神の穏やかな思考に、炎が灯る。


「困ったな」


「あァ?」


たしかだった予定を変えるしかなくなってしまった。困った困った」


 クアインが鉄剣を振るう。

 鉄剣が何も無い目の前の空間を通り過ぎる。

 その瞬間。

 エルメラルドの周囲の、箱から生まれた影の獣が30体ほど、その首を落とした。


 首に残る切断跡は、つるりとしていて、怖気がするほど綺麗であった。


「私を理由にあの子を苦しめて殺すというなら。お前を生かしておくわけにはいかなくなった。たしかな情報を吐き出させるため、一度は牢に入れておく予定だったんだが……」


 剣が届く距離、届かない距離、敵の数、そういう概念は、剣神クアインにとってさしたる問題になることはない。


「仕方がない。此処でたしかに死んでくれ」


「殺せるもんなら殺してみろやァ!」


 パチン、と音が鳴った。


 クアインが剣を鞘に収める音だった。


 剣を鞘に収める動作は無いが、音だけが在った。


「もう殺している」


 エルメラルドの首が落ちる。

 綺麗な切断面を残して、頭だけが落ちる。

 頭が地面を転がり、体が屋根の上に倒れる。

 主の指示を待っていた影の獣が困惑しているその間に、全ての獣の首も落ちる。


 持ち主が断頭されたのを確認し、箱は独りでに動き出し、エルメラルドの頭と身体を回収して、その場から消え去った。



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人類最強の剣神・クアイン、英雄譚の最後の一頁 オドマン★コマ / ルシエド @Brekyirihunuade

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