第3幕 旅立

 堕天使はパンを2つ食べたところでお腹が膨れてしまったらしく、ベッドにぐでーっと寝転がる。

 色鮮やかなパンがお気に入りのようだ。


 寝転がって浮かべる笑顔は『幸せ』でいっぱいで、とても彼女が堕天使だとは思えない。

 屈託のない満面の笑みは、見る者の心に庇護欲を産み、もっと可愛がってやりたいと思わせる、小動物的な愛らしさに満ちていた。


「ふう。おなかいっぱい。ありが……いやいや、そうじゃなかった。あたしはそんなちょろくもないし、お手軽な女でもないのよ! パンを食べさせたくらいで信用するような女じゃないの!」


 満面の笑みを振り払い、飛び起きる堕天使。


「美味かったか?」


「うん! ……じゃなくて! 人間なんて信用できないわ。あたしは皆に再生されて、パパとママに育てられた、最後の誇り高き堕天使! 堕天使のことを嫌ってる人間なんかに、心は開か」


「堕天使。先に聞いておくべきだったが、あの影の獣から逃げながら、お前はどこを目指していた? 目標地点があるなら最初に言っておいてくれ」


「えっちょっ無視……」


「言えば昼食もお前の好きなパンを買ってこよう」


 堕天使の少女は少し悩み、渋々と目指していた目的地について話し出す。


 クアインは昔から上司命令で──つまり王の命令で──22家出身の子供を弟子として取らされることが多く、基本的な性格がやや無神経で無礼な割に、妙に子供の扱いに手慣れているところがあった。


「……ルタゴの街ってところに行きたいのよ」


「ルタゴか。ここから東、この国と帝国との国境付近だな。何故そこを目指す?」


「……あのね。研究所を守ってた傭兵の人の一人が逃げ延びて、生きてたの。他の人は、みんな殺されてしまったのだそうよ。その人が教えてくれたの。ルタゴの街に、あの研究所で死んだ人の墓を作ったって」


「!」


 堕天使の復活に成功した研究所。

 堕天使を狙った影の獣によって研究所は全滅、所属人員はほぼ全員が殺されてしまったが、1人だけ生き残った傭兵が、最寄りの街に殺された人達の墓を作っていたらしい。クアインは細かく聞いたが、情報源に怪しい部分は無い。


 つまり、彼女は皆に守られて脱出し、国の東端にあった研究所を離れ、西に直進。獣から逃げながら西に進んで、そこで生き残った傭兵と再会、ルタゴの街に墓を作ったと聞かされ、西に逃げていたのにUターンし、東に向かっている途中だったのだ。


 ならば、彼女がしたいこととは。


「墓参りか」


「なによ、悪い?」


「命知らずではある。よく東に戻る気になったな。お前は東で獣に襲われ、西に逃げていたんだろう? お前が西に逃げたからこそ、お前を追って獣は西に移動して、傭兵はたしかに安全に墓を作れたのかもしれないが……」


「……」


「墓参りのために東に戻ることは、死地に身を投げることと同じだ。分かっていたんだろう?」


 堕天使が、小さな手でテーブルを叩いた。


「……なによ! 分かってるわよ! ええ、そうよ、あたしバカだもん! 子供だもん! バカなことしてるって分かってたわよ! でも……でも!」


 テーブルの上に、小さな涙が落ちる。


「パパと、ママは、あたしを愛してくれたのに……あたしを狙ってきたやつのせいで、殺されちゃったのよ……! あたしのせいで……! あたしを庇って……! パパとママのお墓の前で、『ごめんなさい』をして、『ありがとう』をしないと、あたし、あたしは、あたしが、あたしはなんなの……!」


 ぽたり、ぽたりと、涙が落ちる。


「人間なのに堕天使のあたしを育ててくれた、パパとママに、何も返せないまま獣に食われて命が終わってしまうなら……あたしは、何のために生きてるの?」


 涙をごしごしと拭いて、少女は鋭い目つきを作って、クアインを睨みつける。

 クアインはいつものどこ吹く風という表情だ。


「逃げてから、初めて外に人に出会ったけど、誰も助けてくれなかったわ! 翼を見て堕天使だって言って石を投げて来た人間もいた! 堕天使に優しくしてくれたパパとママと皆が特別だったってその時分かったわ!」


 堰を切ったように、言葉が流れ出す。


「あたしを泊めてくれた優しい人が獣に襲われかけて、あたしが獣の気を引きながら逃げなかったら、噛み殺されてたかもしれなかった時もあった!」


 それは弾けるような言葉の奔流。


「夜、一人ぼっちで寝ようとしたら、獣の唸り声が聞こえて、怖くて飛び起きて、あたしずっと夜なんて寝れてなくて、夜通しずっと歩いてて、街の灯りが見えたらホッとして、また獣の吠える声が聞こえて、泣きながら街に逃げ込んで、獣が臭いで追ってこれないようにってゴミ捨て場でゴミに潜り込んで少しだけ寝て、起きたら街の人に汚いゴミみたいに見られてて!」


 抱え込んでいた激情と絶望の爆発。


「あたし、何もしてないのに……あたし、どうすればいいのかわかんないのに……どう生きたらいいのか、何をしたらいいのかも分かんないのに……パパとママのお墓参り以外に何したら良いのかもわかんないもん……バカなことしてるのは分かってるから、ほっといてよ……これしかないのよ……」


 また少女の瞳から涙が溢れて、それがゴシゴシと拭かれ、また涙が溢れる。


 そんな少女に、クアインは淡々と言った。


「なら、今後はお前に石を投げさせないよう翼を隠せる服をちゃんと買い、巻き込まれた人が襲われる前に獣を倒し、夜にはお前が安心して眠れるように私が傍に居よう。それでいいか?」


「え」


「目的地はルタゴか。ここから直線的に東に向かうより、南西に進んで大都市に一度向かってから、そこから東に向かって伸びる大街道を使った方が良い。急がば回れということだ」


 ごく自然に『同行して彼女を守る』前提で話し始めているクアインに、少女は「ひとりじゃない」暖かさを感じ、気持ちが上向いて、希望が湧いて、自然と素直な笑みが浮かんでいく。


 だがすぐに、ずっと彼女を追い立ててきた恐るべき化物達の姿を思い出し、身震いし、「頼っちゃダメだ」という気持ちが少女を支配する。


 記憶に浮かぶは、少女を守って死んでいった大人達の成れの果てと、積み上がる死体の光景。


「あんた、あのバケモノのことをよく知らないからそんなこと言えるのよ。あんなの、この世のものじゃないわ。戦ってたら、絶対死んじゃう……」


「雑魚だったと思うが」


「!?」


 きっぱり、クアインは言い切った。


「あのレベルなら私は殺せない。お前もたしか、戦いを見ていたはずだが。忘れたのか?」


「えっ……いやっ……ちゃんと見てたけど……」


「四足歩行では私は倒せん。剣が持てないしな」


「持てないから何!?」


 クアインは堂々としていて、揺るぎない自信を持ち、少女を見捨てようという気配が微塵もなく、どこかズレてはいるが、確固たる考え方を持っていて、何より強い。法外なほどに。


 何もかもに絶望し、何もかもを諦め、「義理の両親の墓参りのために道半ばで死んでもいい」と思ってすらいた少女に『もしかして、この人なら』と思わせる圧倒的な"何か"を備えていた。


「……本当に? 本当に死んだりしないの? 居なくなったりしない? あたしを一人にしない? ずっと一緒に居てくれる?」


「ずっと一緒には居ないが、私は戦いで死にはしない。それだけはたしかなことだ。最近会った国の偉い奴からも『お前が敵倒せなかったら最悪だし戦死したらもっと最悪だからさっさと勝って帰って来い』と遠回しに言われたところだ」


「そ、そうなんだ……」


 堕天使の少女にもよく分からなかったが、このクアインという男には、話せば話すほど『こいつ何しても死なないんじゃないか?』と思わせるような、不思議な雰囲気が備わっていた。


「他にどうしようもないことだ。全て斬っていくしかない。まあ、負けることはないんじゃないか、多分」


「あたし、こんなにぼんやり適当なのに確信たっぷりな感じの語り口は初めて聞いたわよ」


 少女の肩の力が抜ける。

 口を開けた風船のように、急速に、滑らかに。


 少女は初めて、クアインの目を見た。

 太陽のような目であった。

 陽光を吸って、自ら輝くような瞳。

 じっと見つめていると、それだけで灼かれてしまいそうな、空の光を盗み取ったような瞳。

 ほんの一瞬、少女はその瞳に見惚れていた。


「でも、強かったもんね、あんた」


「ああ、世界最強だったらしい」


「ぷっ、なにそれ。おもろ」


 少女はバカにするように笑った。

 クアインは無言で手に持っていた雑誌を広げる。

 そこには『人類最強か!? 剣神クアイン! 20年前の全盛期は完全に手がつけられず! 二度と大会に出てほしくないタイプ!』というデカデカとしたタイトル文字が、色鮮やかに刻まれていた。


「……世界最強なの?」


「昔はな。最後に大会で優勝したのは20年ほど前で、今はだいぶおじさんだが」


「凄いじゃない! わぁ! 凄い人だったんだ!」


 有名人を前にした人間の少女のそれのような、ミーハー的な興奮を見せ、少女はきゃっきゃとした反応を見せる。


「じゃあ、もしかして、本当に死なない……? 殺されたりしない……? あんたなら、あたしを、一人にしないの?」


 実績こそが信頼を生む。

 信頼こそが安心を生む。

 安心こそが幸福を生む。

 少女の中の『もしかして、この人なら』が膨らんでいく。


「ああ。そして、私はお前も殺させない。お前を狙っていた獣は、今後も出て来るだろう。それを全てたしかに打ち倒す。私はあの獣を根絶したいのだ。そのために、あの獣に狙われているお前の協力がどうしても必要になっている」


「……利害の一致、ってわけね」


「そうだ」


 ふんふん、と少女は腕を組んで頷く。

 少女は目を細めた。

 威圧の表情である。

 舐められないための顔だ。

 可愛いだけで、何の威圧感も無いのだが。


「いいわ、付いてきてもいいわよ」


 ふんぞりかえって、堕天使は言った。


「偉そうだな、お前は」


 淡々と、最強の騎士は返答した。


「何よ。気に入らないの?」


 少し不安そうに、少女は言った。


「いいや。私は騎士だからな。偉そうにしている人間に従い、それを守っている方が落ち着く。困り事があれば存分に偉そうに私に言うと良い」


 なんてこともないように、男は言って。


「……騎士ってそういうもんだったかしら……?」


 そして女は、困惑するのだった。


「いいわ。あたしを守らせてあげる」


「助かる。私はクアインと言う」


「あたしはカロカロ。一緒に行きましょ」


 クアインが手を差し出し、カロカロが掴む。世にも珍しい、人間と堕天使の握手であった。


 少女は願うように、祈るように、請うように、彼の手を握る手に力を込める。


「だから絶対死なないでね。あたしを守って死ぬ人なんて、もう二度と見たくないんだから」


「悲劇のヒロインを気取るな。お前はそれで『お前はあんまり可愛くないからお前のために死ぬのは嫌だな』と言われたらどうするつもりだ?」


「え!? あたし可愛くないの!? パパとママが可愛い可愛い世界一可愛いって毎日言ってくれてたからそれを信じてたのに……! あたし本当は可愛くなかったの!? ブサイクだったの!?」


「まあ可愛いな。過ぎ行く人から街一番の美少女と言われていてもおかしくはないんじゃないか。それがどうかしたか?」


「こんにゃろう! 噛むわよ!」


 それが、始まりの日。始まりの時。


 かけがえのない日々の最初の一日。


 堕天使カロカロが何度も何度も思い出す、いつまでも輝いている思い出の、黄金の始まり。






 旅が始まった。

 2人で進む旅の中、カロカロはクアインに対する印象を、何度か大きく一変させていた。

 その1回目は、プブリの街で起きた。


 2人旅を始めて、目的地ルタゴに繋がる東に向き大街道に入るため、とりあえず南西へ。そんな南西への移動で最初に足を踏み入れたのが、プブリの街であった。


 そこで、カロカロはクアインの欠点を知った。


「カロカロに合う服を買い揃えるにしても、そう何十着と服を持ち歩くわけにはいかない……旅であるしな……服はあれで案外重量がある……重さを考えるといいとこ2着か3着……」


「クアイーン」


「少し待て、カロカロ。カロカロは幼い、背伸びした服を着せても逆に似合わない。ではどうするか? 保温性と保湿性と、女子が着ても違和感の無いデザイン。最近の流行り? いや流行りは地域との密着性が強すぎる。田舎の流行りは王都で馬鹿にされ、王都の流行りは田舎で馬鹿にされる。長距離移動の旅には向かない。となると流行りからある程度離れた定番……フード付きのチュ・ニック。これにするか。背中の翼もちゃんと隠れるし、フードで顔が隠れれば獣が見落とす可能性もあるか……カロカロに似合うのは白? いや、長旅だと白は汚れやすすぎるか……お、このチュ・ニック、術式が織り込まれていて汚れが自動で全部落ちるのか……これなら白でもいいか。白一色のと、白と薄桃色のと、あと薄水色と黒のやつで3着……」


「もう帰ろうってばぁ!」


「焦るなカロカロ。戦場では焦った奴から死んでいく。昔世界最強になった男の経験談だ、信じろ。もう少し待て……髪飾りは一つだけ付けるんじゃなくて複数を組み合わせることもできる……組み合わせのパターンを……カロカロの髪は金と紫……鮮やかな色合いだからこそ髪飾りの色はバランスを……黒銀の髪飾りがベストだろうか……黒紫銀金というカラーコントラストで印象の収まりの良さを……」


「買い物なげーのよあんたぁ!」


 剣神は、バカみたいに買い物が長かった。


「これこれこれでいいでしょ」


「おいおいおい、雑だぞカロカロ、気はたしか」


「あんたが選んだ服も買ってんだから文句言わないの! っていうかあんたがお金出してくれてるんだからあたしが文句言うわけないでしょ! その……何を買ってくれたって、う、嬉しいわよ」


「つまらん服を買ったら私が嬉しくないが」


「長い買い物はあたしが嬉しくなって言ってんの分かんないのかしらデクノボー! 噛むわよ!」


 対して、カロカロは買い物が短かった。


 ささっと買い物を終え、女子らしくない黒い繊維のズボンに、白い既製品のチュ・ニック、金紫の髪に映える黒と銀の髪飾りに着替えると、背中の翼(及び翼から発生する光輪)が見えなくなったのもあって、カロカロは普通の人間の女の子にしか見えない姿になっていた。

 初対面なら、幼い美少女という印象以外に思うことはないだろう。


「うむ、完璧だ。たしかな調和がある。これでカロカロは街を歩いていても目立たなくなったはずだ。行動の自由度がだいぶ上がったな」


「前のあたしを浮浪児だったって言ってる?」


「言ってるが」


「言うなぁー!」


 カロカロがクアインの上半身に飛びつき、噛みつこうとする。飛びつきまでは許すが、噛みつきまでは許さないクアイン。剣神特有の見切りで、ひょいひょいと密着状態で噛みつきを回避していく。

 大人への抗議で無意識に噛みつきを選択しているのは、堕天使の遺伝子によるなんらかの本能ということなのだろうか。


 そんなじゃれつきの途中、クアインは鋭い目つきで彼方を見つめる。


「……臭いな」


 町中で足を止めるクアイン。

 突如様子が変わったクアインに、カロカロは少し怯えて『距離感間違えちゃったかな、嫌われるのはやだな』と見当違いなことを考える。


「え、何? あたしまだ浮浪児みたいな臭いする? お風呂ちゃんと入ったのに。ごめんねクアイン、臭い女が密着して来たら嫌よね、ごめ」


「違う。獣だ」


「あ、獣臭かった!?」


「違う。例の影の獣だ」


 その瞬間。

 彼方より、鮫が飛来した。

 空飛ぶ鮫、影の如き鮫である。

 鮫は真っ昼間の町中で、多くの人が行き来する大通りで、誰かに目撃されることを一切恐れずに、鮫成す影の獣は飛来した。


 目標は当然、堕天使カロカロ、及びそれを護る最強の騎士・剣神クアイン。


 だが、鮫の牙は届かなかった。

 近場の建物の屋上から、3人のクアインが跳んだ。大通りでカロカロを抱きかかえているクアインを加えれば4人である。

 跳んだ3人のクアインが閃光の如く斬撃を放てば、影の鮫はあっという間にバラバラになり、空中でその身体を消滅させる。


 道行く人達の誰もが気付かないまま、影の獣との戦いは終わりを迎えた。

 突然現れた3人のクアインも、いつの間にか消えている。


 狼と鮫、二体の種が違う影の獣を断ち切ったことで、クアインは条理をすっ飛ばして真実に到達していた。。クアインの力と、この無敵の獣を生み出している力は、""……と。


 カロカロは自分を抱きかかえているクアインと、今現れてすぐに消えた3人のクアインが居た場所を交互に見て、ひたすら頭の上に「???」を浮かべている。

 カロカロが世間知らずなことを考慮してもなお、クアインの戦いは常識というものを超越していた。


「……なに!? なんなの!?」


「アレのたしかな殺し方のコツは掴めて来たな」


「掴めるものなの!?」


 クアインは引き続き自分に備わった力を使い──一瞬、カロカロを連れて行くか・ここに置いて行くか・どちらが危険かを逡巡したが──カロカロを抱え、2人で長距離を跳ぶ。


 奇妙奇天烈で条理にそぐわない空間跳躍により、2人は街の北側に広がる花畑に移動した。

 地に広がる、色鮮やかな色とりどりの花畑。

 そこには空を飛び回る、先程倒したはずの影の鮫。

 数は5。

 おそらくは鮫が複数体で群れを作り、空を飛んで隊列を組み、索敵を行い、クアインとカロカロを発見次第一気に奇襲をかける、そういう目的で派遣された存在だ。


 先程襲いかかってきた個体は、ここからはぐれた一体であるということなのだろう。


「数は5、なら……」


 クアインが鉄剣を構えるが、抱えられたカロカロがバシバシとクアインの肩を叩く。


「ちょっとクアイン! こんな綺麗な花畑さん、傷付けちゃダメよ!」


 ふっ、とクアインの表情が柔らかく動いた。


「そうだな。たしかに、カロカロの言う通りだ」


 クアインは頭の中で考えていた確実に勝つ手段を捨て、花畑を荒らさないように、最速で勝つ手段を選択した。

 至高の騎士が、子供の我儘を聞いた形。

 されどクアインは、今抱きかかえている子供の我儘を聞くことに、悪い気はしていなかった。


 またしても増えたクアインが、鮫に向かって飛びかかる。一人一殺。5人のクアインが、5匹の鮫に必殺の斬撃を叩き込んだ。


「わっ! クアインすごっ! 負けるわけないじゃないこんなのっ!」


 カロカロは、興奮気味に大きな声を上げ、自分を抱きかかえているクアインの勇姿を褒め称え。


「コホッ」


 カロカロ自身の大きな声のせいで、クアインの喉から響いた小さな咳の音を、カロカロは聞き逃していた。


 クアインはこの時、人生で始めて、この分身の技の制御を失敗した。

 この技を編み出して以来、ただの一度たりとも、針の穴を通すような精密な制御を失敗したことなどなかったのに。

 制御の失敗は斬撃の制度の低下を生み出し、影の鮫の一体を即死させられず、仕留め損なった鮫が花畑の端に墜落する。


 その衝撃で、花畑の端の花が一本、折れた。

 クアインにとって、あってはならない失敗であった。花畑を傷付けるなと言われて、了承し、実行に移した上でこの始末。

 全ての鮫を空中で仕留めていればこんな事態にはならなかったと分かるだけに、クアインが感じている悔恨は大きい。


「……すまない」


「……ま、まあ、一本くらいはしょうがないわ! うん! クアインは頑張ったもの。花畑さんだって一本くらいは許してくれるわ。うんうん」


 少々落ち込んだクアインに、慌ててカロカロがフォローに入った。


「あたし騎士とか剣士とか全然よく分かんないけど、あたしを守って、花畑も守って、その上でバケモノもやっつけちゃうクアインが一番かっこいい騎士だってのは分かるわ! や、あたしはこれまで騎士とか守ってもくれない奴だなとか役に立たない奴らだと思ってたくらいに騎士のこと全然知らなかったけど? けどね? クアインより強い騎士が居たとしても、あたしはクアインがいっちばんステキな騎士だって思うもの! ね? 元気出しなさい!」


 思い思いの言葉を述べながら、素直な感情を口にし、その途中で『あたし何言ってんだろ』となりながらも、顔を赤くして本音をぶち撒けまくるカロカロに、クアインは淡々と返した。


「お前、言ってて恥ずかしくないのか」


「うっさいわよ! 噛んでやろか!」


「噛むな。だが、今お前に言われたことは嬉しかった。お前は善き者だな。騎士の一人として、カロカロような子を守れることを誇りに思う」


「……うぐぅ」


 カロカロは噛まなかった。代わりにぽかすかとクアインを叩いた。クアインは彼女を抱き上げたまま、それを甘んじて受け入れる。

 赤い顔をして、噛まずに叩いたカロカロの微妙な感情の動きの内実は、子供らしい感情であれども実に複雑怪奇であった。


 クアインはカロカロにぽかすか叩かれながら、鮫の墜落によって折れた花を拾い上げる。

 赤と青、二色が鮮やかで可憐な花。

 クアインはカロカロの服の胸ポケットにそれを差し込み、うんうんと頷き、微笑む。


 とても珍しい、剣神クアインの微笑みだった。


「似合うな。子供の頃から着飾っていけ、カロカロ。いずれ世界一の美人にもだってなれるだろう。いい感じになりたい大人になっていくといい。いい感じにな」


 カロカロは顔を真っ赤にして、もじもじとして、視線をさまよわせ、顔をあっちこっちに向け、口をもごもごとさせてから、たった一言、口にした。


「……ありがと」


 カロカロはクアインを突き飛ばすような動きで、クアインの腕の中から飛び出した。


「あたしが大人になっても傍には居なさいよ! クアイン!」


 そのままぴゅーっと走り去っていく。

 クアインがくれた花を、何よりも大切な宝物であるかのように、大事に大事に抱えながら。


「背伸びしていても、まだ子供か」


 クアインは、その後をすぐ追おうとする、が。


「こほっ」


 咳き込み、噎せ込み、倒れ。


「ゴボッ」


 血を吐いた。吐いた血の中に、内臓の破片らしきものが混じっている。

 どす黒い吐血の中に、溶けた内臓のようなものが混じっている。

 花畑の、花と花の隙間に、吐かれた大量の血が流れ、大地に飲み込まれていく。


「ゲボッ、ガボッ、ゲボッ、ゴボッ」


 命が尽きる。

 クアインの命が死に至る。

 その断絶を、姫が与えた霊剣フェニアが繋ぐ。

 クアインが剣から溢れる力を制御し、命を接続し、心臓を無理矢理に動かし、死んだはずの身体を強制的に蘇生させる。


 蘇生したクアインは、懐から取り出した小瓶の蓋を開け、中の薬を全て一気に飲み干す。

 本来、一粒で十分な効果がある薬。

 しかし、今のクアインを延命するためには、一度に一瓶ずつ飲み干さなければ、まるで効果が見込めなかった。


 今の彼はまるで、壊れた自転車に大型機械用のエンジンを強引に乗せ、走りながら折れたパーツを補修することを繰り返し、無理矢理に走らせているような状態であったから。


「……はぁ、ハァ、はぁ……人生でこんなにも無責任なことを言っていた時期は、他に無いな……」


 クアインは、強く強く自嘲する。


「あの子が大人になった未来に、私は居ないだろうに……あの子が大人になるのを、私は見届けられないだろうに……何を、私は……」


 クアインの勘は当たる。

 それこそ、超能力じみているほどに。

 彼の勘は、他人から見れば絶対に外れない真実を見通す目に等しい。まさに、『勇者の瞳』こと始祖アインの子孫に相応しい力である。


 その勘が、彼に告げている。


 この死は、絶対に避けられないと。


 どんな真理も見通す目を与えられたクアインに与えられた最後の試練は、見守れないこと、見届けられないこと、それを受け入れることだった。


 見送られることが、彼の運命だった。



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