第2幕 王命

 クアインは、落ち着かせた少女を休ませ、ある土地の、ある地方の、ある建物の裏に隠された裏口から、5つある階段の内1つを選んで降り、その奥にある扉の横の壁に触れ、隠し扉から奥へ進んだ。


「……」


 この国には、王族が存在する。


 かつてこの地は、1人の勇者と22人の騎士によって救われた。

 騎士は貴族となり、勇者は王族となった。

 それがこの国の建国伝説だ。


 だが、王族となった勇者の子孫は、様々な敵から様々な手段でその命を狙われた。

 王族の存在意義は勇者の血、勇者の力、勇者の装備によって確立されていたが、暗殺だけはどうしようもなく、王族にも死者が相次いでしまった。


 ゆえに、この国の王族は姿と名を隠す。

 誰もが王や姫の正体を知らない。

 そうして、この国は回っている。


 そうして正体を隠した王族は、国の重鎮や、選ばれた貴族、秘密の世話係、そして信用と実力を兼ね備えた騎士を用いて、国を舵取りする。

 剣神クアインもその1人。

 この国の王族の名と顔を知る者であった。


 かつて世界中の強者が集まる『捧剣祭』を優勝したクアインは、当時の王子であり現王である男に声をかけられ、王の剣となった。

 そしてその時、国の各地に存在する──王族と王族の手足のみが使える──多くの隠れ家の存在を教えられた。ここはその内の一箇所だ。


「ここは暗号を入力して開く扉だったな、たしか」


 厳重なセキュリティを抜け、剣神クアインはその向こうで待つ6人の人間を見た。


 1人は王。誰も知らぬ王。透明の王。

 1人は姫。王の娘。クアインの教え子。

 1人は大賢人。王の補佐。レシュの一族。

 1人は騎士団長。王宮の護り。ダレトの一族。

 1人は警邏団長。市民の護り。ヘートの一族。

 1人は諜報総括。王の耳。ベトの一族。


 『また今日も王と姫しか喋らないのだろうな』と思いながら、『王の剣』たる剣聖クアインは席についた。


 いつものように、王と姫は特殊な道具で姿を影のようにおぼろげにさせ、声を原型留めぬほどに大きく変えている。


『来たか』


 声を変えている王が、クアインに声をかける。どことなく、その声は親しげだった。


「直接ここに『力』で飛べば良いんだがな、私は」


『セキュリティに意味がなくなるから基本的にそういうのは控えろと言っただろう』


たしかにそれはそうだが。私がここに飛んで来ても、歩いて来ても、結果は同じじゃないか。守られるのは格式だけだ」


『我慢しろ。もう40手前だろう、貴様も……』


「歳を引き合いに出すな歳を。王がすることではないだろう、そういうのは」


 クアインと王の掛け合いに、王の隣の姫がくすりと笑い、王に睨まれ、慌てて咳払いをした。


『こほん、失礼しました』


 20年以上、顔と名前と本音を見せてきた相手がクアインと家族しか居なかった王。王の指示を受けてありとあらゆる邪悪を斬り倒して来たクアイン。2人の間には、不思議な距離感が存在していた。


『報告の概略は先に紙で受け取っているが、詳細は貴様の口から聞きたい。どうなっている?』


「私はあの少女の言ったことを繋げて推測したに過ぎない。あの少女も全てを知っていたわけではなかった。たしかな全体像は全く見えていない。ただ……堕天使が追われているのはたしかだ」


 ピリッ、と空気が張り詰める。

 堕天使。

 その名は決して軽くはない。

 西部大魔森林地帯にの大魔獣にも並ぶビッグネームだ。

 国の重鎮ほど、受け止め方は重くなるだろう。


『その堕天使は、どういう身の上なのだクアインよ。堕天使は滅んだ。僅かな生き残りも"大洪水"で滅びたと伝承されている。それが何故、今更、こんなタイミングで我が国で発見されるのだ?』


 王の問いに、クアインは少女から聞き出した断片的な情報を自分なりに繋げた推論を語る。


「彼女は、『ハコ』という研究施設に居たらしい。おそらくは例のダンジョンと呼ばれるものの奥で発見される、堕天使のミイラから再生された存在だと考えられる。少なくとも彼女が何らかの奇跡論の類で再生された堕天使なのはたしかなことだ」


『ああ、そうであったな。ダンジョンの奥で堕天使のミイラが発見されるという話は聞いていた。だがまさか、ミイラから生体を再生するだと……? どこにそんな技術が……』


たしかに、物から人を生み出すようなものだろうな、王よ。カロカロはそこで生み出され、研究者達の子供のように愛されて育ったようだ。研究者は皆彼女に優しくしたようだが、その中でも特に優しくしてくれた人間2人を父と母と呼んで懐いたようだ」


 かつて、堕天使を蘇らせた者達が居た。その者達の最初の目的はなんであれ、家族同然に堕天使の少女を愛して育てたのは事実であるらしい。


『種を超越した義理の親子、か。堕天使は伝承によれば、人間を滅ぼそうとしたこともあるほどの大敵であったはずだが……』


たしかな育ちの良さがあったんだろう。カロカロにとっては幸せな日々だったらしい。だが、そんな独立系の個人研究所に襲撃が行われた。それが例の影の獣だ。獣は彼女が見ただけで40種以上、総数は200を超えていたらしい」


 だが、堕天使の少女の幸福は、長くは続かなかった。皮肉にも、堕天使自信が引き金となって。


『目標は堕天使か』


「そうらしい。影はあらゆる攻撃と抵抗を無視し、研究員と警備の傭兵を殺し尽くした研究員と傭兵は彼女を逃して次々と死んでいったらしく……生き残りが居る可能性は低いだろうな」


『むごい話だ。幼い子に耐えられることではないだろうに。心に付けられた傷の深さ、いかほどか』


 王の言葉が、声色を変化させる道具越しでもハッキリ分かるほどに、同情の色を滲ませる。


 クアインは淡々と、王が情に流される未来の可能性を見越して、釘を刺した。


「感傷的だな。娘の影響で年頃の娘が絡むと感傷的になりやすくなったのか? たしか、王になる前のお前は、娘が生まれる前のお前は、もっと冷淡な王子だったと記憶しているが」


やかましいぞ』


 "そうなのですか"という雰囲気で姫が王を見つめたが、王は無視して、クアインを睨んだ。


「おそらく、一人黒幕と思われる存在が居る。影のような獣は全て、それの命令を受ける配下だ。それらはおそらく最近活動を始め、今は狩りを楽しむようにカロカロを追い立てている」


『根拠は?』


「勘だ」


『なら確実か。そうなると理想は、彼女をお前が護衛し、追ってくる獣を返り討ちにしながら、焦って迂闊な行動に出た黒幕の位置を逆に特定して討つことだが。できるな?』


 王が問う。


「また言い方を間違えているぞ、我が王」


 騎士が訂正を求める。


『ああ、そうだな。やれ、剣神クアイン』


「承諾した。必ず完遂しよう」


 王命を承けたクアインに、周囲の視線が集まる。

 それらの視線には、揺らがない信頼があった。

 絶対的な最強に向けられる信頼が。


 "剣神クアインはピークを過ぎてから十数年が経ちかつての強さを失っている"と、近頃は常のように語られているものだが、そんな噂話が剣神クアインへの信頼を損なうことはない。


『だが、クアインがそちらにかかりきりとなると、他の案件が少し手が回らんな……戦争に発展しそうな事案は幸い現時点だと1つもないが……』


「だから言っていただろう。早めにザイナス辺りを育てろと。あれはたしかに強くなる。時間と金と手間を掛けて損はない」


『お前はあのザイン家の次男をいつも評価しているな。だが、強くはあるだろうが、お前がそこまで言うほどか? それにあの少年は今はもう……』


「あれはこれから強くなる。一度二度負けたところで評価に大疵など付くものか。好きにやらせてやれ。必要な時に助けてやれ。たしかな導きを与えてやれ。それが育てるということだ」


『難しいことを簡単なことのように言いおって』


 フン、と王は鼻を鳴らした。


『一旦前の件の報告を聞いておこう。クアイン、についての調べはついたのか?』


 クアインは無言で頷いた。

 剣神クアインの祖先は、『勇者の瞳』騎士アイン。誰よりも優れた目を持った者。

 アインの一族はその特性を活かし、国境線を見張っての警戒、国内を見張って不穏分子の早期発見など、様々な分野で活躍する貴族の家系となった。

 まさに王の目と言えるだろう。


 クアインもその子孫に相応しい能力を継承しており、『優れた直感』『非常識的な勘』などの、をその身に備えている。

 王の密命を受けたクアインが最近まで調べていたのは、国内に発生し得る『魔王』と名乗る存在だった。


 『魔王と呼ばれる』存在ではない。

 『魔王と名乗る』存在である。

 それは時に町や村を消滅させ、時に規格外の魔獣を発生させ、時に人外をまとめて一大勢力を結成し、時に凄まじい力で王都を襲撃してきた。


 出現スパンが長すぎるがために、御伽噺の存在だと思っている国民も多く存在するが、一部の歴史資料にはその存在が記されており、王族は剣神クアインを使ってその正体を突き止めんとしていたのだ。


 規格外の転覆強行者、魔王。

 その存在こそが、かつてこの国の王族に「王族は名と姿を隠して潜伏しなければならない」という判断を下させた。

 既存の秩序構築を全て無意味化する、何か。


「王よ。私の勘だが、魔王は個体名ではない。同じ魔王が繰り返し復活しているという説は誤りのように思える。各地の文献と石碑をあたったが、歴代の魔王が所持していたという道具に何か、手がかりの可能性があるように思える。たしかなことは皆無だが」


『道具、だと?』


「お抱えの学者に伝えておけ。一度既成概念を全て捨てて考察し直しておけと。考えて正体を突き止めるのは学者の仕事だ。私の仕事じゃない」


『その学者が答えを出しようがないからと、貴様の直感を頼ったアプローチに切り替えたのだがな』


 はぁ、と王が溜め息を吐く。

 王の周りで国の重鎮が素早くメモを取っているのは、それだけクアインの"見抜く勘"が信用に値すると思われているからだろう。


 クアインはいつも、心理を見て取り、予兆を感じ取る。

 それは先読みという剣士の基礎技能であり、普通の剣士が誰も持ち合わせていない、基礎技能の究極到達地点にあたるもの。

 予兆を感じ取り、先に動き出せるのであれば、それ即ち最強であると言えるだろう。


 たとえば、敵が動き出す直前に。

 たとえば、獣が飛びかかる一瞬前に。

 たとえば、己に向けられた弓が放たれる前に。


「更に、たしかな根拠など何もなく、全てが私の勘によるものだが、私が思うに……」


 たとえば。


「堕天使の少女を執拗に追っているのは、私が調べてきた魔王に近いものを感じる。あるいは、れこそがこの時代における魔王かもしれない」


『───何?』


 、その予兆を感じ取り、先手を取って潰しに動き出せるような、そんな戦士が居るならば。

 それを超える最強など、そうそう存在しない。


『クアイン。貴様、自分の発言が何を意味しているのか分かっているのか?』


「分かっているつもりだが、多くのことは分かっていない。魔王のことも実際には何も分かってはいない。斬ってみれば分かるだろうが、斬らないことには何も分からん。どうせ勘の話だ」


『どうせいつものように貴様が勝つのだろうな。敵が魔王であろうがなかろうが、関係なく』


「魔王は斬ったことがない。分からないぞ」


『フン。そう言って貴様が負けた試しはないだろう。いつでも、どこでも、何が相手でもそうだった。貴様にかかれば全て消化試合だ』


 王は乱雑に、クアインの言葉を切り捨てた。

 それは信頼だった。

 あるいは傲慢だった。

 ともすれば、王自身も無自覚な、親友への甘えだったのかもしれない。


 クアインはただ獣に剣を振るうだけで、皮がずるりと剥がれてしまった掌の内側を、決して誰にも見られぬよう、ぎゅっと拳を握り締めた。

 隠された弱さ、気付かれない衰弱があった。


 少し、沈黙が流れた時、席を立つ者が居た。

 姫である。

 終始、クアインとの会話は王が進めていた。

 王とクアインが情報交換を行い、国家を運営する者達がそれを聞いているだけで、この集まりは主目的を達成したと言える。


 なればこそ、姫のこの行動は、最初から予定されていたものなどではない。

 姫がクアインの話を聞き、自分で考え、自分で決めて動き出したということだ。


『クアイン先生』


「剣は振っているか?」


『あ、はい。今度成果をお見せします』


「そうか。用はなんだ」


 そっけなく、無愛想で、けれど弟子を気にはしていて、前振りもそこそこに本題を聞く。

 全く変わっていない恩師の姿を見て、姫は無礼への不快感を覚えることもなく、むしろ懐かしい安心感を蘇らせていた。


『わたしの知っている、昔のままのクアイン先生で安心しました。強くて、目ざとく、優しくて、絶対に負けない貴方のままで……」


 姫は何も言わず、腰に吊った剣を渡す。

 クアインがよく分からないまま受け取ると、剣からぶわりと力が伝わった。

 人並み以上に鋭いクアインの感覚が、その剣のを、彼に伝える。


『これを授けます。"霊剣フェニア"を』


 姫が授けた剣の名を口にすると、重鎮達に無言の動揺が走り、王がそれを手で制する。

 動揺していたのは、クアインも同様だった。


「! その名は……」


「はい。王族一人に一本の『力ある刃』です」


 その辺りを歩いている一般市民であれば、その名前が持つ意味を理解することは出来ない。その名の意味を理解できるのは、最上位の貴族と、信用のある捧剣祭優勝者くらいのものである。


 これは、力だ。

 王族のみが持つことを許された力。

 託すことなど許されない力。

 姫はそれを、願いと共に託そうとしている。

 誰よりも強く、信頼できる恩師に。


「……この剣は姫、貴女を守るための剣だ。私が預かるわけにはいかない。お返しする」


『国家の平穏、民の安寧には変えられません』


「……」


『どうか、お願いします、クアイン先生。貴方がその敵を悪だと思うなら。その獣を恐ろしいものだと思うなら。人々が奪われることを理不尽だと思うなら。ただ"平和を取り戻した"という結果をもって、授けた剣に応えてください』


「……」


 姫は剣を授けた騎士へ、頭を下げる。


 王族が頭を下げ、騎士が剣を授けられる。


 それは一種の、儀礼的な意味があった。


『どうか、お願いします』


 その願いを受け取った騎士は、絶対に敗北を許されない。必ず勝ち、王族の望むものを勝ち取らねばならない。姫が願った『平和』を勝ち取らねばならない。剣と共に、騎士は使命を背負うのだ。


うけたまわった」


 クアインはそれを受け取った。


 姫が嬉しそうにしているのを見て、いつまでも昔のまま子供っぽい姫に、クアインは少し呆れる。

 もう婚約もする年齢だろうに、と、クアインは思うも口には出さなかった。


『そういえば、一ヶ月ほど前に獣との戦いで怪我をしたという話を耳にしましたが……大丈夫なのですか? 痩せたようにも見えるのですが……』


たしかに、傷は負ったが。何も問題は無い。痩せているのはダイエットしているからだ」


『剣神もダイエットするのですね……』


「姫もするだろう。たまに太っているからな」


『なっ』


 姫が今日初めて、照れと動揺が露骨に出た声を漏らした。


『せ、先生! 女性にそういうことを明け透けに言うのは、どうかと……仮に王族と対等と認められた騎士と言えど! 許されることとそうでないことがあると思います!』


たしか事実は陳列しても罪にならないはずだが」


『貴様! 調子に乗って娘をからかうな! 有罪になるよう明日から法律に追加してやるぞ!』


『やめてくださいお父様!』


 王がクアインを睨んで席を立つ。

 慌てて重鎮達がそれを止める。

 姫も王とクアインの間に割って入ろうとする。


「父親のお前が言わないから私が代わりにたしかなことを教えなければならなくなっているのだ。お前の娘は少々菓子の類が好き過ぎる」


『あぅ』


『貴様!!!!』


 クアインは大きな欠伸あくびをして、姫の剣『フェニア』から流れ込む力によって、劣化したスポンジのようになっていた己の体内に活力が戻っていく不思議な感覚に、身を委ねていた。


 誰もが気付いて居なかった。


 剣神クアインであれば、これほどの力を持つ剣があれば、剣の力を体内で操ることで、ベッドから起き上がれないほどに衰弱した瀕死の体に成り果てても、死ぬまで戦い続けられるということに。






 話し合いが終わり、クアインは地上に戻った。


 "来る"ことは分かっていたため、少し待つ。

 そして、声をかけた。

 姿を消し、足音を殺して、気配を滅して来た男に。


「遅かったな」


「……。……。会いに行くと言った覚えもなく、誰にも存在を感知させない工夫を凝らして来たはずなのですが……息をするように見抜かれますね」


「感知できるか、できないかは、極めれば違いなんてないようなものだ」


 男はベトべドル。

 妖精騎士ベトの末裔にしてベトの一族の当主。

 22家で唯一、王に情報の扱いを全任される家であり、この男は先の話し合いの時も王の後ろに控えていた。

 孫・孫娘に有能な当主候補者を何人も抱えていることでも知られており、ベトの家は22家でも指折りに先行きに不安が無い、とも言われている。


 王の話し合いの時も、今も、不思議と素顔が見えないローブをしっかり目深に被っている男であった。


「長話をする気はない。単刀直入に聞くぞ。王の耳にも入らないよう、情報工作をしているのは、お前か?」


「───」


「そうだな?」


「……はい」


 ベトの一族が司るものは情報。

 多くを知り、それを王に伝え、時に情報を止め、人々が得る情報をコントロールするのがベトべドルの役割である。


 クアインは今日の話し合いで、自分が原因不明の衰弱を受け、かつての力のほとんどを失ったことが、全く知られていないことに気が付いた。

 偶然、ということもあるだろう。

 だがクアインは必然であると直感した。

 妖精の暗躍も、剣神の目からは逃げられない。


 そして、「助かる」とも思った。


「工作を続けろ。ただし戦闘時の市民の避難は今以上に円滑にできるようにしろ。あの影の獣は……少なくとも、今の若い世代が育ち切るまでは、私以外の誰にも倒せないだろう。援軍は無駄だ」


「はい。了承致しました。そのように手配致します。……あの、クアイン様」


「なんだ」


 恐る恐る、ベトべドルは問いかける。


「あなたの病気の件を、誰にも露見しないよう、情報工作を行ったというのに、この身に理由を問わないのですか」


「聞いたところで私に理解できるかは分からない。お前に私が分かるまで説明しろと言う気はない。私はお前の考えは知らないが、私はお前の国への忠誠心を知っている。一度も疑ったことはない。なら、お前はお前が思う最善を選んでいるはずだ。私に否定する理由はない」


「……!」


 それは、ベトべドルにはとても共感できない理屈で、けれど"剣神クアインらしい"と納得できる理由ではあって、だからこそ『自分はこの人のようにはなれないな』とベトべドルに痛感させ、『この人はまだこの国に必要だ』という、ベトべドルからクアインに向けられる尊敬と嫉妬を強めていった。


「しかしだな、ベトべドル。お前、私が衰弱した結果として敵に負けるとは思わなかったのか。そうなったら情報を隠していたお前の責任になるだろう。リスクを考えれば大博打だったのではないか?」


「貴方がいくら弱体化したところで、貴方に勝てる存在が居るとは思えませんし」


「……そうか」


 ベトべドルが迷いなく言うものだから、クアインも少々面食らってしまった。


 クアインは国の諜報機関の長であるクアインの立場と、今のクアインの立場、魔王の存在、国家情勢、対他国外交戦略の方針を加味して考え、ベトべドルの考えの一端を推測し、口にした。


「つまり、お前にとって、剣神クアインとは、病になってはならず、死んではならず、かといって休んでいることも良くはなく、かかる脅威を必ず尽く打ち払い、市民の印象常に揺らがせない存在であってほしいと、そういうことか」


「はい」


 ベトべドルが迷いなく言うものだから、クアインはまた面食らってしまった。


「そうか……まあ、そうだろうな。お前の立場ならそうだろう。分かった」


「クアイン様のお薬は、我が手の者を使って定期的に届けさせます。薬切れは心配しないで下さい」


「それはたしかに、助かるな」


 クアインは少し安堵する。

 姫から預けられた剣の力と、医師の薬剤。

 この両方があれば、しばらくは戦っていけるだろうと、クアインは自己の肉体を評価していた。


「クアイン様。どうか、悔いの無い選択を」


「ああ」


「そして叶うなら、必ず生きてお帰りください。そして病も乗り越えてください。この国にはまだあなたが必要です」


「国にとって私が必要でも、私にとって国は別に必要ではないんだが」


「……そ、そこをなんとか……」


「冗談だ」


 クアインの冗談に、ベトべドルは引きつった愛想笑いを浮かべている。

 ふっ、とクアインは軽く嘲る。

 その冗談は、ちょっとした意趣返し。


 『剣神クアインには休んでなんていないで国家の脅威を倒してほしい』とも、『剣神クアインには無理せず自分を大事にして絶対に死なないでほしい』とも思っている、そんな都合の良いことを考えているベトべドルに対する、ちょっとした悪戯心。


「死ぬつもりは毛頭ない。今のところはな」


 ホッとした様子で、ベトべドルが胸を撫で下ろす。剣神クアインは、象徴だ。

 平和の象徴。最強の象徴。国家の象徴。


 クアインの命は、クアインだけのものではない。

 ただ、もし、「あなたの命はあなただけのものではない」と誰かがクアインに言えば、クアインは「私の所持者は私だけだ」と返すだろう。


 彼は生きたいように生き、死にたい時に死ぬ。

 皆分かっている。

 彼がそういう人間であることを。

 彼が最後までそう生きていくことを。

 だから、ベトべドルはいつも泣きそうなのだ。






 クアインが部屋に戻って来ると、堕天使の少女は飛び起きた。


 飛び起きる前は「あの人が帰って来なかったらどうしよう」と不安になっていて、足音が聞こえた途端に「来た!」と喜びに満ちた顔で飛び起きて、クアインを前にした時には「あたしはあんたが帰って来たくらいのことで喜んだりしないんだけど」といった風に、不機嫌な顔になっていた。


 堕天使の少女は腕組みし、下からめ上げるようにして、クアインを睨みつけ始めた。


「どこ行ってたのよ」


「朝食を買ってきた。好きなものを取れ」


「!? す、好きなもの? いいの?」


「ああ。残りを私が食べる」


 ぱぁぁ、と、不機嫌そうな表情を一瞬にして満面の笑みに変え、「どれにしようかなっ」とうきうきでパンを選び始める少女。


 少女が熱々の焼き立てパンに目移りしている間に、クアインは部屋のテーブルに無造作に置かれた『歴代捧剣祭優勝者特集!』という表紙の雑誌をペラペラめくり始めた。

 紙吐虫の吐いた糸をなめした紙で作られた雑誌は指に触れる感覚が心地よく、雑誌の中身がつまらなくても、めくっているだけでそこそこ楽しめる。


「あたし、パン屋さんの焼きたてのパン一回食べてみたかったのよね! パパとママは熱々のパンは火傷するからよくない、なんて言って食べさせてくれなかったもの~」


「そうだな。パンから湯気までふわふわだ」


「ふわふわだわ!」


 少女が気に入ったパンに手を伸ばし、その暑さに「あちゃっ」と声を漏らし、涙目でパンを手放して、クアインは無言でパンを包んでいた紙袋を折り、少女が食べようとしたパンを包んで、少女に優しく手渡してやっていた。



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