【短編】小心者のもとへ舞い降りた天使

Edy

お題「ささくれ」

 ジョンは体格に恵まれていた。7フィート後半の上背と広い肩幅は父親譲り。バスケットプレイヤーかと聞かれることも多いが、ジョンの答えはノーだ。残念なことに彼は驚くほど気が小さい。


 とある日、職場のボスから仕事を押し付けられたジョンは遅くまで資料作成に追われ、帰路についた時には日付が変わっていた。


 次に同じようなことがあれば必ず断ろう。そう思いつつも、きっと無理だとわかっていた。そんな考えが心をささくれ立たせる。そして、はっきり言えない自分が嫌いであり、どうにもできないと諦めるたびに、ささくれがめくれていった。それはひどく痛みをともない、身を守るように大きな背中を丸めて歩く。


 街灯は切れかけてチカチカ点滅し、通りには誰もいない。ジョンの靴音がやたら大きく聞こえ、世界に一人ぼっちになったような孤独を感じていた。


 そして悪いことは重なるのが定め。


 オフィスからサブウェイまで短い距離だというのに、二人のストリートギャングがジョンに立ちふさがった。


 ひとりは飛び出しナイフ、もうひとりは小口径のリボルバーを握っている。そして、財布を置いて行け、と言った。


 こういう時はさっさと財布を渡すのが正解だが、ジョンはガタガタ震えるしかできなかった。


 早く金を寄こせ、ストリートギャングはピストルを突きつけながら繰り返す。しかしジョンはどうしていいかわからないほどパニックになっていた。


 そんなジョンに男は痺れを切らして撃鉄を起こす。


 その時、防犯ブザーがけたたましく鳴り出した。いくら人通りがないとはいえ、鳴り止まないブザーは人を集めかねない。


 ジョンと違い、ギャングの判断は早かった。背を向けて駆け出し、あっという間に見えなくなる。


 それを見ているしかないジョンだったが、危険が去ったとわかると腰を抜かして座り込んだ。そのまま顔から倒れてしまいそうになる。


 そんなジョンに声をかけてくれる人がいた。


「怪我はない?」


 若い女性の声。しかも優しく話しかけられたというのに、驚いて飛び上がりかける。顔を上げたジョンは思った。天使が舞い降りてきた、と。


 彼女は身をかがめ、ジョンの赤い髪を優しくなでる。


「怖かったわね。でも大丈夫。ブザーの音に怯む連中だから戻ってこないわ」

「あ、ありがとう。あの音はあなたが?」

「ええ。女が夜道にひとりなのは危ないから」


 どんなに危険でも彼女は堂々としていそうだ。とジョンは思った。同時に自らの醜態を恥じる。また、ささくれがめくれていくようで心に痛みを感じた。


「すみません。僕が臆病なばかりに、あなたに迷惑を」

「気にしないで」

「でも……」


 ジョンは言葉の続きを言い淀む。何を言っても自分の情けなさを繰り返すだけになるからだ。


 うつむくジョンに彼女は笑いかけてくれる。


「あなたは優しい人ね。こんな目にあったのに私を気遣ってくれるなんて」


 やはり彼女は天使のような人だ。ジョンは改めて認識する。そして、この出会いをこれっきりにしたくなかった。


「何かお礼をさせてください」

「そう? じゃあ、送ってくれない? あなたのような大きい人はボディガードにぴったりよ」

「ぜひ送らさせてください」


 こんな積極的になれたのは生まれてはじめてかもしれない、とジョンは思った。きっと彼女が勇気をくれたのだろう、とも。


 彼女は目を細めて、ジョンの腕を取った。


「ありがとう。まだ名乗ってなかったわね。私はメイジー。すぐ近くに住んでいるの。ね、あなたのことを教えて」


 そうして二人は夜のストリートを語らいながら進む。暗い道だが、ジョンには消えかかる街灯ですら祝福してくれているように感じていた。


 しかし二人の関係は送り届けたら終わってしまう。また会ってほしい。ジョンはそのひとことが言えないまま、メイジーのアパートメントに着いてしまった。


 もう一度だけでいいから勇気が欲しい。そうやって自分を奮い立たせるジョンに、メイジーは言った。


「あんな事があったばかりだし、少し休んでいって」

「でも……」

「そうしてくれると嬉しいわ」


 花のような笑顔で言われてジョンはあっさり折れた。


 彼女の部屋に招かれ、二人掛けのソファに座らされる。そこはメイジーと同じ甘い香りがより一層強く感じられた。


 メイジーは赤ワインが注がれたグラスを二つ持ってきて、一つをジョンに渡す。


「ちょっと待ってて。やっぱりワインにはバケットよね」


 彼女は自分のグラスをテーブルに置き、またキッチンへ戻っていった。


 ひとり残されたジョンは、そわそわとリビングを見回す。狭い部類に入る部屋だが、必要な物しかないので広く感じた。


 それよりもジョンが落ち着けずにいるのは、初めて女性の部屋に招かれたからだ。


 どうしていいかわからず、何度も足を組み直す。そうしているうちにテーブルを蹴飛ばしてしまった。グラスの赤ワインが跳ねて飛び出す。


 ジョンは青い顔をしながらハンカチで拭き取った。しかし減ってしまったものは誤魔化しようがない。そこで自分のグラスと交換した。まだ口をつける前だったから、ちょうどいい。


 そうしているうちに、メイジーが戻ってきた。手に持つ籠には焼いたバケットがあって、とても香ばしい。


「先に飲んじゃった?」

「ごめん。なんだか喉が渇いてて」

「気にしないで。さあ乾杯しましょ」


 二人はグラスを軽く当てる。


「あなたとの素晴らしい出会いに」


 そう言ってもらえたのが嬉しくて、ジョンはグラスに口をつけた。メイジーも目を細めてグラスを傾ける。


 二人掛けのソファに並んで座り、時間が経つのを忘れて語りあった。メイジーはジョンの家族や交友関係を聞き、それらのひとつひとつを丁寧に答えた。そうやって人となりを知ろうとしてくれているのだと、ジョンは思った。

 

 やがてジョンは立ち上がり、トイレに行って戻る。メイジーはソファに寄りかかっていた。どうやら眠ってしまったらしい。


 わずか数分の間なのに、とジョンは驚いた。しかし当然ともいえる。いつもならベッドに入っている時間だ。


 それに、とジョンはメイジーのかたわらに膝をつく。居眠りするほど気を許してくれていると思うと胸が熱くなった。


 ジョンはメイジーの手を取る。それは慈しむ気持ちから出た自然な行動だった。


 彼女の手は白く、なめらかで、とても張りがある。ジョンからしてみれば、とても小さい手を、そっと両手で包む。


 ジョンは生まれてきて一番かもしれないほど幸せだったが、チクリ、とした痛みがあった。


  手のひらを見ると、血でできた赤く小さな玉がポツンとある。


 何かが刺さったのだろうが、それがメイジーを傷つけてはいけない。目を凝らして見ると、確かに針のようなものが彼女の手にあった。


 しかし、おかしい。


 針は人差し指の爪の付け根にあ、るささくれから生えているように見えた。まるで針が皮膚を突き破って出てきているようだったが、ジョンは針に指をのばす。


 そして、それが針ではないとわかった。固く鋭いが、金属ではない。灰色の獣の毛だった。


 どうして、そんなものがメイジーに。


 戸惑っていると、メイジーがカッと目を開ける。


 次の瞬間、ジョンはメイジーに首をつかまれていた。


「無害な男かと思えば、なかなか強かじゃないか。眠り薬入りのグラスをすり替えるなんてな。おかげで眠ってしまったよ」


 なんのことかわからない。ジョンはそう言いたかったが声にならない。


 それほど首をつかむ彼女の力が強かったからだ。喋ることも息を吸うことも難しい。ジョンは苦しさのあまり抵抗する。彼女は片手だというのに、指を引きはがすことすらできなかった。


 それを見て、メイジーは、ほう、と感心する。


「チンピラに殺されそうになっても何もできないのに、生きようとあがくのか。お前は何をするにも他人から命じられるまで動けない男だと思っていたよ」


 ジョンは必死にメイジーの手を振りほどこうとした。力を込め、爪を立てる。まったく歯がたたないが、バリッと何かが破れる音がした。メイジーの腕が裂ける音だった。


 始めは小さなささくれのような亀裂だったのに、空に稲妻のように広がっていく。そこから現れたのは灰色の毛皮だ。


 メイジーは空いている手で自分の顔に手をやり、そして引きちぎった。彼女からしてみれば被り物を脱ぐような気楽さだろうが、ジョンは苦しさを忘れるほど驚いた。


 ジョンに笑いかけてくれた顔はどこにもなく、代わりに灰色の狼の頭がある。


「おいおい、ジョン。長年大切にしてきた皮を破くとはひどい。お前の皮と交換でチャラにしてやろう。まあ、中の肉もいただくがな」


 狼は舌なめずりして、ニヤリと笑った。そうしている間に見えている肌は全て破れ、体がどんどん大きくなっていく。そして衣服も耐えきれなくなった。狼は後ろ足で立ち、ジョンより大きい。


「女の体は獲物を釣るのに適しているが、窮屈すぎる。その点、お前は素晴らしい。もう1フィートほど背丈がほしいが高望みってもんだ。それ以上は完璧。運命の出会いってあるもんだ」


 狼は愉快そうだが、ジョンは限界だった。ずっと首を絞められたままだからだ。


 薄れゆく意識の中でも理解できる。


 この狼は人の皮を被り、狩りをしているのだと。まるで童話だが結末は違う。絵本の主人公は非力であっても自ら考えて動く。自分にはそれがない。だから食われるのだ。


 諦めたジョンに、狼が言った。


「安心しろ。丁寧に皮を剥いでやる」

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