梅ヶ島温泉にて。

増田朋美

梅ヶ島温泉にて。

寒い日であった。まだまだ春には遠いかなと思われるその日。蘭は、静岡市内の山奥にある、梅ヶ島温泉に旅行にでかけた。静岡市内からバスで二時間位かかる、本当に山奥の秘境という感じの温泉であった。とりあえず、梅ヶ島温泉入口というバス停でバスを降ろしてもらった。やはり秘境の温泉ということであまり人はおらず、所々にぽつりぽつりと旅館などが立つのみであった。その代わり、温泉は豊かなところのようで、アチラコチラで硫黄の匂いがした。

「えーと、今日泊まる、湯の島はここだ。」

蘭は、一軒の旅館の前で車椅子を止めた。本来なら別のところへ泊まるつもりだったのであるが、ここしか予約が取れなかったのである。車椅子で入れるか心配だったが、段差は特になく、蘭はらくらくと正門をくぐった。

「こんにちは。」

と、正面玄関の扉を開けて、建物の中に入ると、

「はい、いらっしゃいませ。今晩うちにお泊まりですか?」

優しそうな女性が、蘭に声をかけてくれた。もちろん、着物を着ているから、女将さんだと直ぐわかった。

「はい。本日予約してあります、伊能ですが。」

蘭が言うと、

「お待ちしておりました。車椅子のお客様ですね。こう見えても、学生時代は柔道をしていましたので、力持ちには自信があります。なにかあったら私が背負って歩きますから、安心してお泊まりください。」

女将さんはそう言って、蘭の車椅子を押して、旅館のロビーへ連れて行った。

「まず初めに、宿帳のご記入をお願いします。それもご不自由なところがありますか?」

女将さんは宿帳をもってきた。

「いやいや大丈夫です。手はしっかり使えますから。」

蘭は渡されたボールペンで自分の名を書いた。

「ありがとうございます。ではお部屋へご案内いたします。」

女将さんは、蘭を部屋へ連れて行った。

「梅ケ島へのご来訪は初めてですか?」

廊下を移動しながら、女将さんは蘭に聞いた。

「ええ。まあ。こんな山奥の温泉だったとは、知りませんでしたよ。」

蘭がそう言うと、

「そうですか。うちはカラオケもないし、コンパニオンもおりませんが、梅ヶ島の美しい自然が何よりも売り物です。それを楽しんでいってください。」

と、女将さんは言ってくれた。そして、こちらになりますと言って、蘭を部屋へ案内した。普通の和風旅館によくあるタイプの部屋であるが、できるだけ段差をなくすように心がけているようで、車椅子でも、部屋の中を移動できるようになっていた。

「ご夕食は、六時からでございます。その前になにか用事がございましたら、遠慮なくお申し付け下さい。」

と女将さんはにこやかに言ってくれたので、蘭は、とりあえずありがとうございますと言って、部屋の中で過ごすことにした。何故か、その部屋にはテレビがなかった。女将さんが部屋を出ると、蘭はその部屋に一人になった。

とりあえず、お茶でも飲んでこようと思って、蘭は、部屋のなかにあった、冷蔵庫を探したが、冷蔵庫らしきものはなかった。仕方なく、一度部屋を出て、廊下へ出てみると、自動販売機があった。自動販売機は手が届かないので無理かなと蘭は思ったが、番号を入力すれば、上段であっても欲しいものが買えるシステムの自動販売機になっていたので、蘭は、お茶を買うことができた。しかし、馬鹿に静かすぎるなと蘭は思った。他にお客がいるのかなと思ったが、他に誰もいないらしい。何処かで団体客でもいるかなと思ったのであるが、団体客の声も聞こえないのであった。

蘭が、お茶を買って、部屋に戻ろうとすると、先程の女将さんとはまた違う女性が一人出てきて、

「あ、伊能様、お風呂ですか?」

と蘭に声をかけた。着物を着ていないが、多分ここの仲居さんだろう。

「いや、その。」

蘭が返事に困っていると、

「私、ヘルパーの資格を持っていますので、お風呂のお手伝いもできますよ。何なら今から行きましょうか。直ぐにお手伝いしますから。」

と、蘭に言ったのでまたびっくりする。歩けない蘭は、温泉旅行に行くとなっても、温泉には入れないかなと思っていたのであるが、仲居さんは車椅子を押して、大浴場まで連れて行ってくれた。蘭は、その間に他のお客はいないのかと聞きたかったが、仲居さんが世間話をするので、それは聞くことができなかった。

「さあどうぞ。着替えができないようなら言ってくださいね。」

仲居さんは、そう言って蘭を大浴場に入らせた。とりあえず、着物姿なので、車椅子でも脱衣は可能である。

「お手伝いに、男も女も関係ないじゃないですか。介護するとき、男性を女性のヘルパーが介助することもあるでしょう?」

と仲居さんに言われてそれもそうだと思い、蘭は着物を脱いだ。すると、仲居さんは、よいしょと彼を背中に背負って、風呂場に連れて行ってくれた。そして蘭を椅子に座らせて体を流してくれて、お風呂に浸からせてくれた。お風呂は岩風呂だった。でも、しっかりてすりも付いているし、たしかに障害者に配慮してくれてある。

「お湯加減は?」

と仲居さんに聞かれて、

「ええ、熱くもないし、ぬるくもないし、ちょうどいい加減ですよ。」

と蘭は答えた。しばらく温泉に浸からせてもらい、また仲居さんに背負ってもらって、体を洗うスペースまで移動させてもらって、椅子に座らせてもらった。蘭は自分で洗おうと思ったが、仲居さんがヘチマたわしを持ってきてくれて、丁寧に蘭の体を洗ってくれた。そして、体を流してくれて、またお風呂に浸からせてくれた。こう書くと、風俗のようにも見えてしまうかもしれないが、そのような印象は一つもなかった。ただ、仲居さんは蘭の体を洗ってくれて、お風呂に浸からせてくれるのを手伝っているという感じなのだった。蘭が露天風呂に行きたいというと、仲居さんはまた背負ってくれて、露天風呂に連れて行ってくれた。露天風呂からは、山の風景がよく見えて、のんびりした気分になれるようになっていた。

「いやあ、気持ちがいいですね。こんなにいい気持で温泉につかれるんじゃ、さぞかし、お客様も多いのではないでしょうか?」

と蘭は思わず言ってみたが、

「いいえ、そんなことありません。」

と仲居さんは、小さく言った。それがなんだか意味の有りげな感じの言い方だった。

「そろそろ出ますか?ふいて差し上げますよ。ついでに髪もドライヤーがありますよ。」

仲居さんは話を逸らすように言った。蘭はありがとうというと、仲居さんはまた蘭を背負って脱衣所に戻った。丁寧に体を拭いてくれて、蘭が浴衣を着るのも手伝ってくれた。そして、髪を乾かしましょうかと言ってくれたのであるが、蘭は、これだけはできますからといった。また車椅子に乗って、ドライヤーがあるところまで移動し、急いで髪を乾かしたのであるが、仲居さんは、何も急かすことなく待っていてくれた。蘭が髪をとかし終えると、仲居さんは、また車椅子を押して蘭を部屋に戻してくれた。ごゆっくりおくつろぎくださいと言って、仲居さんは出ていったのであるが、何よりもテレビがないので、えらく退屈であった。蘭は、仕方ないから、持ってきた文庫本を読んで部屋で過ごした。

そうこうしているうちに、六時になった。また先程の仲居さんが、お食事ができましたよと言って、部屋に入ってきた。また車椅子を押して、食堂へ行った。食堂は個室になっていて、他のお客さんと遭遇することはまずなかった。女将さんがまた現れて、今日は山の幸を召し上がっていただきますと言って、蘭をテーブルに座らせた。しばらく待っていると、蘭の眼の前に美味しそうなイノシシ鍋が置かれた。イノシシはクセがあって食べるのが難しいと言われているが、なんだか調理に工夫をしてくれてあるようで、とても美味しかった。

「お肉のおかわりはいかがですか?」

女将さんが、お肉のおかわりを持ってきてくれた。

「ああ、ありがとうございます。そこにおいておいてください。」

蘭がそう言うと、今度は白い作務衣を着た男性が、蘭の前に現れた。

「板長の井上です。今日の料理はいかがですか?」

「ええ、とても美味しいです。失礼ですけど、お二人は、もしかしたらご夫婦ですか?」

蘭は、思わず板長さんと女将さんに聞いてしまった。

「そうなんですよ。彼がお料理作って、お客さんのことは私が相手をして。」

女将さんはちょっと照れくさそうに答える。

「そうなんですか。そして、お風呂の手伝いをしてくださった、あの仲居さんはもしかしたら、」

と、蘭が聞くと、

「ええ、娘です。一人娘なんですけどね。元気が良くて、こういう仕事が大好きで。」

女将さんはにこやかに笑った。

「そうなんですか。それでは、ご家族三人でこちらの旅館を経営なさっているわけですね。それは素敵だなあ。家族ぐるみで、客の世話をしてくれるなんて。」

蘭がそう言うと、

「ええ、そういう事を売りしてきたつもりなんですけどね。でも、それだけでは今の時代だめなんですよね。それよりも、スマートフォンが使えるとか、そういうことができる立地条件のあるところでないと、なかなかね。」

と、女将さんはちょっとつらそうに言った。

「いやあ、いいじゃないですか。とても素敵な旅館だと思いますよ。たしかに、使えないのは不便という人もいると思いますが、それでも、山奥の自然に癒やされたいという人はいるはずです。それに、障害者の僕も、お風呂に入れたんだから、それはすごいところだと思いますけどね。」

蘭は、素直に感想を述べたのであるが、

「そうですね。でも、それでは行けないと言うか、やっぱり無理なんですよね。それでは。みんなテレビがあったり、スマートフォンがあったり、洋風の食事を食べられたり、そういうことができないと、今はやれないんですよ。だからね、今月いっぱいで旅館を閉めようかと思っているんです。」

板長の井上さんが言った。

「それはもったいない!こんな素晴らしい旅館を閉めてしまうなんて。そんなことはしないでくださいよ。こんなに優しい人達がいてくれる旅館、僕は初めて泊まりました。大手のシティホテルにはない、優しいサービスを売りにしていけば、まだ続くことはできるのではないでしょうか。僕は、温泉に入れただけでもすごく嬉しいですよ。」

蘭は直ぐに言ったのであるが、

「ええ。でも、それは仕方ないことですよね。やはり時代の流れというか、そういうところですよねえ。」

板長さんは、蘭に申し訳なさそうに言った。蘭は、それ以上言ってしまうのはなんだかなという感じがしたので、じゃあこのお肉頂きますと言って、猪肉を、残さずに食べた。今までのイノシシ肉とはちょっと違う味がした。

食事が終わると、蘭は車椅子を女将さんに押してもらって、部屋に戻してもらった。部屋にはもう布団が敷いてくれてあった。きっとあの娘さんがしてくれたんだなと蘭は思った。

「どうしてこの旅館がだめなんですか?とてもサービスが良くて、素敵なところだと思ったのに、なぜ、閉めることになったんです?」

我慢できなくなってしまった蘭は、女将さんにそう聞いてしまった。

「ええ、近くに、リゾートホテルがオープンしたでしょ。それからがだめなんですよ。ほら、近くに、梅ヶ島温泉ホテルっていう建物が見えませんでしたか?そこが梅ヶ島でも、大人気らしくて。」

女将さんがそう言うと蘭は、最初は梅ヶ島温泉ホテルに泊まるつもりだったということはしないでおくことにした。普通障害者が、旅館に泊まるときは、大手の旅館に泊まることが通例である。そのほうが、障害者設備もあると、大体の人はそう考えるのである。だけど、意外にそうでもなかったという経験を、蘭は、何度もしているのである。

「そうなんですか。そこにはない、サービスの良さで勝負すればいいのに。」

蘭は思わず言ってしまったが、女将さんはそれ以上何も言わなかった。

その翌日、蘭は、女将さんと、洋服を着た仲居さんに見送られて梅ヶ島温泉をあとにした。なんだかもう帰ってしまうのが、名残惜しいと言うか、そんな感じの滞在だった。電車に乗って、富士駅に帰ってきたときは、なんだか別世界に戻ってきたのではないかと思ってしまうほどであった。

温泉から帰ると、蘭は母の伊能晴と一緒に、富士市でも有能な和紙の職人さんが、創業50年になると言うので、それを祝うためのパーティーに出席した。もう、職人さんも、かなり年を取っていて、耳も遠くなってしまっているが、一応和紙の工場をやっている伊能晴の建前、こういうパーティーにも出席しなければならないのであった。母の晴が、職人さんの50年間一人で和紙を作り続けていることを祝う、祝辞を述べている間、蘭は、演説を聞いている客の中に、一人の黒の紋付袴姿で、右足を引きずっている男性がいるのに気がついた。その人物は、あの職人さんの隣で、何やらホワイトボードのようなものを持って、なにか書いている。いつの間に、あいつが、ああして家と提携している職人のところに来ているのだと、頭にきた蘭は、ちょっと失礼と言って、お酒を飲んでいる群衆をかき分けて、車椅子でその人のいるところに言った。

「やい!お前、こんなところで何しに来た!」

蘭は、その黒紋付の人物の袖を引っ張った。

「なんですか蘭さん。僕はただ、通訳に来たんですよ。耳が遠いから、通訳してくれと、要請があったものですからね。それが、何だと言うのですか?」

「何だ、曾我さんと、伊能社長の坊っちゃんが、仲良しだったんですか。」

職人のおじいさんは、驚いた顔で言った。そこにいるのは、確かにジョチさんこと、曾我正輝さんなのであるが、どうしても蘭は、この人物に対して、敵意を持ってしまうというか、なんだか変なふうに怒りを持ってしまうのである。

「仲良しというか、まあ、腐れ縁のような感じですね。それにしても40を超えているのに、坊っちゃんと呼ばれるなんて、蘭さんも、本当に、可愛がられているんですね。」

ジョチさんは、そう蘭に言った。

「まあそうかも知れませんが、ふたりとも、今日は俺の創業祝なんで、仲良くしてくださいよ。喧嘩するほど仲が良いっていいますからね。伊能社長も、それを望んでいると思いますよ。ははははは。」

職人のおじいさんがそう言って、蘭はそれ以上話を続けるのを止めてしまった。ジョチさんの方は、相変わらず、おじいさんへの通訳を続けている。蘭は、そのような姿を見て、この人物にあるものをたくそうと思った。そうすれば、こいつも、たまには役に立つのではないか。

母が演説をし終わって、他の人が演説を始めたが、ジョチさんは、それも通訳し続けている。蘭はその間に、急いで、メモ用紙を出して、急いで先日泊まった梅ヶ島温泉の旅館の名前と、住所を調べて書いておいた。

それから、何人かの人が、演説をして、パーティーは終了したのであるが、蘭は、職人のおじいさんと一緒に介護タクシーが到着するのを待っているジョチさんに、

「お前に頼みがある。これを、なんとかしてもらえないだろうか。お前の力なら、なんとかなるはずだ。」

と、先程のメモ用紙を渡した。ジョチさんは、それを受け取って、

「ああ、わかりました。」

とだけ返す。これの再建計画を立てるには、大変な努力と資産がいるわけだから、その間だけは家の会社へ、波布も手を出さないに違いないと蘭は思ってしまったのであるが、ジョチさんがどんな表情をしているかもわからずに、後を振り向くこともなく、帰ってしまった。

それから、数日後。たしかに蘭の母が経営している製紙会社に、曾我正輝という人物が手を出してくることはなかった。良かった、これでやっと家の会社をあいつに取られないで済むと思った蘭であった。その日、蘭が朝ごはんを食べていると、スマートフォンがなった。電話でもメールでもなく、ただニュースを掲載するアプリから通知が来ただけのことであるが、蘭は、そのニュースの内容を見てびっくりする。

「梅ヶ島温泉、どんな人でも泊まれる宿、ヘルパー免許を持っている従業員が、お客様をお手伝いいたします。」

という見出しのもと、先日泊まった梅ヶ島温泉の旅館が掲載されていたのである。そこにはあのときにあった女将さんと、娘の仲居さんが映っている。そして、着物を着ていないが、仲居さんが数名映っていた。その記事には、すべての仲居さんがヘルパーの資格を持っていて、障害のある人でも、お風呂に入ったり、食事ができるということが掲載されている。そして、大手の旅館やホテルでは泊まれなかった方も、ここではお泊りできるという客の記事も掲載されていた。蘭は、思わず、

「あいつの仕業だ!あいつが、あの旅館を立て直したんだ!」

と言ってしまった。

「なあに、蘭の絶望的な声。」

そう言って、蘭の妻アリスが、歯磨きをし終えて食堂にやってきた。

「いや、その、実は、、、。」

蘭は、内容が言えなかったのであるが、アリスは、蘭のスマートフォンを勝手に見てしまって、

「はあ、梅ヶ島温泉か。いいわねえ。あたしも、温泉行ってみたいわよ。だって、いつものことじゃ、蘭がいるから、温泉に行こうと思っても、行けないでしょ。まあ介護サービス頼むならいいけど、それはお金がかかるし。そういうことなら、こうして、ヘルパーさんがいてくれる旅館なんてありがたいわよ。」

と、言ってまた歯磨きにもどってしまった。外国人は言いたいことは遠慮なく言ってしまうのだなと蘭は思ったが、それにしても、波布のすることは、すごいなと思ってしまった。もう、晴と一緒にやっている古臭い製紙会社なんて、ジョチさんの視点から見たら、何の役にも立たないはずだろう。蘭は、自分はとてもあいつには追いつかないと思ったが、でも、自分が梅ヶ島温泉に行ったことで、そこから、ジョチさんの事業が始まったのだと考えると、ちょっと得意になることでもあった。なんだか、そういうところで、蘭さんとジョチさんは永遠のライバルでもありながら、なにか友情のようなものもある不思議な二人と言えるかもしれない。




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梅ヶ島温泉にて。 増田朋美 @masubuchi4996

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