大学卒業を祝うかどうかが人生の分岐点

さえきちかこ

大学卒業を祝うかどうかが人生の分岐点

今年の3月は、過去21年間過ごした3月とは訳が違う。

なぜかって?それは4月に待ち受ける「新社会人」という称号のせいだ。


現在2024年3月10日。

見渡す限り全ての友達が、大学生活最後の青春をここにぶつけにきている。

旅行、スキー、USJ、ディズニー…中には1週間以上の海外旅行や数ヶ月に渡る留学に行く者まで。


私の心の中はというと、「羨ましいなぁ…」という気持ちでいっぱいである。

だからといって一人旅に行ったり留学に行くほどアクティブな性格ではないのだが。なにぶん休日は家で過ごすのが好きだ。ただ、自分が実現したいわけではないのに何となく羨ましい。うーんなんとも人の心は難しい。


私の愛する友人らの多くは、根本的に「外出」「旅行」「卒業」といったワードに関心のない人々である。そのため3月に遊ぶからと言って「思い出に残る遊びをしよう!」とはなりにくく、3月に遊ぶ予定はあるけれど普段通りの遊びをしているという現状を説明しておこう。

かくいう私もマイペースな方なので、流行に流されない友人たちには非常に助けられているし、3月に飲み屋で会って「5月に旅行にでも行こうよ」とサラッと誘ってくれるラフな価値観に安心感を覚えている。


だが、それはそれこれはこれ。やっぱり他所様の3月を見るとどうしようもない気持ちになる。(もう誰か私を殴ってくれ)

なんというか言語化するのが難しいのだが、羨ましいより怖いが近い。「卒業前に大規模な予定を立てる彼、彼女ら」と「私」の人生は、これから人生の分岐点の逆側に行くのだろうという恐怖感。小〜大学まで当たり前に仲良くしていた友人たちと決別していく感覚。伝わるだろうか。


私はどちらかというと、常にマイペースで不器用だった。

勉強は好きだったけど学校は休みがち。授業中はよく寝て、部活は続かない。結婚する気もないし子どもを産む気なんてもっとない。死ぬまでフラフラ生きていく気がする、そんな人生。

それでも不思議と友達は多くて、皆勤賞で部活を3年間続けて引退したり、長く付き合ってる彼氏がいたり「いつかは子どもが欲しい」と考えている子たちとも仲良くしてきたわけだ。「価値観は違っても人は仲良くできるよね!」そんな強い信頼感を持ちながら今の今まで生きて来たのである。


しかし「就職活動」「大学卒業」

この2つの言葉の重みはすごかった。


みんな人生がかかっているからね。

今まで価値観が違くても仲良くして来たはずの友人たちから槍のように鋭い言葉を投げかけられるようになった。「どうやって生きてくつもり」「そんなんじゃ結婚できないよ」「ちかこはまともな人に相手にされなくなるだろうね」

うーん。少しの怒りの感情すら湧かないけれど、なんだかすごく寂しくなった。私が常々信じてきた「価値観が違っても人は仲良くできるよね!」は、大人になると通用しなくなるんだな、と。何より私自身が少しも傷ついていないことが寂しいのだ。だって彼女らが大切にする安定した生活、結婚、出産が、私の人生にはさほど重要じゃないものだから。何かに駆り立てられるように私を非難する人々を見ると、その人の人生を垣間見た気分になり「大人になってしまったなー」と寂しさを感じてしまう。


私は彼女らと、互いの人生をキラキラと豊かに生きながら大人になりたかったのに。現実はもっとつまらなくて、生活、税金、結婚、出産。色々な焦りを抱えながら生きていくのが大人なんだなと感じて寂しくなる。

「私たち、これから先は支え合えないんだね」と、静かに考えてしまう。

これはきっと私の幼さ故なのだが早めにポックリ死んじまいたい私は、死ぬまで子どもでいたいとすら思う。


「卒業前にパーっと楽しもうよ!」が怖いのは、きっとそのせいだ。

着実に大人になる準備を進めている様子を見ることが怖いのだ。そして卒業前にパーっと遊んでいる友人は、軒並み私を非難したことのある子たちで、なんだかその因果関係に頭が痛くなる。


フラフラと生きる私に「うちの会社の仕事手伝ってよ」「うちんちのお父さんもだよ」「ちかこって昔からそういうの苦手だよね」と否定も肯定もせずラクに付き合ってくれている子たちは、3月のタイミングでフラーっと飲み屋に行ったりログハウスで鍋をつついてくれる。

「これからどうすんの」「結婚できないよ」「どうせいつかは子ども欲しくなるくせに」という言葉をかけてきた子たちは軒並み派手な卒業旅行に行っている。


責任感が強い人ほど「卒業」「社会人」「結婚」「出産」。そういった人生の大きな節目に敏感なのだろうか。だから派手にお祝いして、逆に見向きもしない人々を非難するのだろうか。


私は自分の生き方を気に入っていて、今でも良くしてくれている友人たちに感謝している。でも同時に私を非難している友人たちの気持ちも痛いほどわかるのでいたたまれない気持ちになる。申し訳ないなと本気で思う。ただ元友人として、彼女らが本当に幸せに生きているのかを考え胸が締め付けられる。

「結婚しなきゃ」と焦って恋人がいない自分を非難するのは辛くないかな。「安定が一番だよ」と言って夢を諦めることは辛くなかったのかな。「別れる理由がないから」と結婚話をして満たされているのかな。今まで何年も大切にしてきた彼女らが妥当を選ぶ姿を見るのはやはり苦しい。でもそんな心配をしたところで彼女らは私の生き方を非難しているから、きっと私の言葉が真っ直ぐに届くことはないのだろう。


私も卒業を派手に祝すことができたら、今でも彼女らと友人でいれたのだろうか。

「安定が一番だよ!」「今の彼氏にしときなよ」「子どもは可愛いよ!」「いい人紹介してあげる」。そんな会話やエールを送れたのかもしれない。

そんな未来も良かったと思うけれど、私は私のまま、彼女たちは彼女たちのままで励まし合う未来は本当になかったのだろうか。私は彼女らから非難されるような生き方をしてしまったのだろうか。私たちは歪み合わなければいけない運命だったのだろうか。


やっぱり今年の3月はどうしても辛いので、

早く過ぎ去ってくれることを願うばかりだ。

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大学卒業を祝うかどうかが人生の分岐点 さえきちかこ @chicacoji

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