ささくれ
ふぃふてぃ
ささくれ
それは『ささくれ』に似ていた。
乾燥により爪の根本から裂けて飛び出た細い皮膚の断片が、衣服の解れに挟まるような。それはツンと感じるほどの小さな小さな痛みだった。
原因はあの時だ。些細な苛立ちにツメを噛む自分の姿が容易に想像できた。それは日常茶飯事に繰り返される理不尽の一つに過ぎない。
「あまり放って置くと良くないわよ」
僕の顔を覗き込むようにして彼女は言った。
部屋の外は、コタツを片付けるかを迷うような温かな日曜日の昼下がりだった。
鉄筋コンクリートのアパートでも隣人の子供のはしゃぐ声が聞こえてきていた。
「こんなのいつもと変わらないよ」
『ささくれ』には慣れている自負がある。これでもう何度目の『ささくれ』になるだろうか。今でも治らずのささくれを幾つか放置しているが、これと言って生活に支障をきたした事はない。
これだけが、この『ささくれ』だけが特別だったなんて、あの時は考えもしなかった。
余暇なく回る目紛しい日々に、何気に触れればチクリと痛む『ささくれ』。ふと気づけば傷口は熱を持ち、腫れぼったくも感じる。
良くなる兆しは見えず、日に日に痛みは増すばかりだ。
「だから言ったでしょ。悪くなる前に処置しないと」
「五月蝿いな!」
抑える事の出来ない苛立ちは罵声となり、口から溢れ出した。彼女の何気ない優しさまでも、今は苦味しか感じない。
いつもなら、売り言葉に買い言葉の口論になるところだが、この時ばかりは「まぁまぁ」と彼女に宥め透かされた。
優しく抱擁する彼女を、拒みながらも身を委ねてしまう自分の弱さが腹立たしく感じる。
その嘆きのような感情は、嫉みに似た感情へと変わり、その一身を彼女に向けてしまう。
……この『ささくれ』はオマエの所為だ
彼女は僕の汚れた指を、ささくれ立つ指を淫靡に舐め回した。傷口を清潔に洗い流すようにして。ぴちゃぴちゃと音を立て。そして優しく溶け合う。
その心地良さは猥雑としたものではなく温かい。さざなみのように穏やかで、寄せては返す波のまにまに、亡くなった母を思い出しすらした。
母は昔、ささくれ立つ僕の指を見て言った。
「また掻きむしったの。あぁあ、舐めてはダメよ。化膿しちゃうから。口にはバイ菌が沢山いるの」
「えっ!口ん中にバイキンがいるの?じゃあ、早く消毒しないと」
「大丈夫。みーんな、バイ菌を持っているものよ。だって、口は災いの元って言うでしょ」
「災い?」
母は時々むずかしい言葉を使う。意図して使っていたのか、今となっては知る術はない。
「そう、災い。防ぎようもない嫌なこと」
「それって、せんそう?」
「確かに戦争も防ぎようは無いのかもしれないね。確かに口から始まるものネ。全部お口の中のバイ菌の仕業。うん、そう言うことだね。タッちゃんは賢いなぁ」
その時、初めて人間はバイキンを持っている事を知った。そして、自分もまた他人と分け隔てなくバイキンを持っている。
だから舐めてはイケナイ。
……だから、この『ささくれ』が悪化したのは、彼女の所為だ
鬱というのは鬱々としたの何かが溢れ出す洪水の様ものだ。その何とも言い難い感情を、簡潔にウツという二文字に納まめた人は、たぶん鬱を詳しくは知らないのだろうと思う。
そんな事を考えてしまうというほど、この湧いては流れ出ていく感情を、僕はどうすることもできなかった。
あの知的な母なら、この難攻不落の二文字に対し、どのように立ち向かうのだろうか?
「簡単よ。絆創膏を付ければ良いの。嫌なことには蓋をして見ないようにする。そうすれば触らないし、バイ菌は入ってこないから。忘れた頃には治っているわよ」
子供の僕は「何で?」が尽きる事がない。その声が時には相手を苛立たせると知ってか知らずか。怒りすらも求める時があるようだ。要するに僕は母に甘えていたかったのだ。
「忘れた頃って、いつ?何時何分何十秒、地球が何回廻った時!?」
「さぁ、どれくらいだろう。でも、すぐに治ると思うよ。タッちゃんは強い子だから」
そんな僕の「何で?」を包み込むようにして、母はいつも曖昧な返答を交わしてくれた。
『ささくれ』に絆創膏は有効なのだろうか?
あれから何日が経ったことか。気がつき外を伺えば陽はとっくの前に沈んでいる。「日が延びた」そんな話をしたばかりだと言うのに。夜は必ずやってきて、朝も必ずやってくる。
憂鬱だ。あぁ、憂鬱だ。憂鬱な日曜日の夜だ。
「タッくん?ねぇ、タッくん」
「五月蝿いな!」
苛立ちは留まることを知らない。そして、口から出てくる言葉は全て陳腐な罵声ばかりだ。
お互いが相手に非がないと知りつつも、どうにかしたい擬かしさと、どうにもならないもどかしさが、ぶつかっては消えてゆく。そんな日々。
口は災いの元。
自分の口から溢れ出すバイ菌が互いを蝕む前に手を打とう。
僕の身体が完全に毒に蝕まれる前に
もうすでに『ささくれ』が発症してから一ヵ月が経っている。
当たり障りの無い会話と無理矢理の作り笑いが、何とか二人の距離を維持させている。少なくとも、自分はそう思っていた。
……彼女が悪いわけではない。全ては『ささくれ』の所為なんだ。
だから、元を断つ!
「俺さ。今の仕事、辞めようかと思うんだけど」
「そっ。タッくんが良いと思うなら、それで良いと思うよ」
振り絞った言葉に対しての、それはあまりにも早い、俊敏な返答だった。
「真面目に聞けよ。大切な話なんだぞ大切な……はなし、な」
凛とした彼女の顔立ち。視線は真っ直ぐに僕の瞳を捉えて、その目は悔しいほどにブレる事はない。
ここで、ようやく自分が甘えている事に気づいた。俺は阿呆だ大馬鹿だ。たかが『ささくれ』程度の痛みで、何週間も自分は泣き喚いていたのだから。
気づいた時には情けなく、滑稽すぎて笑いも起きなかった。そして、癇癪すらなくなると抜け殻のように言葉も出なくなった。
音を失った日曜日の深夜。遥か先に走る電車の音だけが唯一の救いだった。長く感じる刹那の沈黙だった。
「じゃあ、どっか出掛けようよ!」
「出掛けるったって、深夜じゃ何処も」
「じゃあさ、カラオケ行こ。そんでもってオールしちゃお。昔みたいに。どうせ仕事やめるんでしょ。じゃあ良いじゃん!」
ジャジャジャジャンと捲し立てられているのに、この時ばかりは込み上げてくるものはなかった。悪い気がしなかった。
彼女は台所に行って、手際よくお菓子をカバンに詰めている。いつも強引で自分勝手で。でも、それだからこそ救われることもある訳で。
「なんかゴメンな。最近、イライラしてて。自分でもよく分からな……」
「そんなのイイからさ。タッくんは車だしてね」
彼女は僕の手を掴み、そして促す、引っ張って歩き出す。その手の温もりは母が昔、傷口に絆創膏を当てたような安心感があった。
「歌い方、クセ強過ぎ!ストレス溜まってんじゃない。そんなモンは喚き散らして忘れちまえば良いのよ」
深夜のカラオケ。持ち込み自由をいい事にテーブルの上には、お菓子の山とドリンクバーの炭酸ジュースで乾杯。
母に言わせれば、それらは毒でありながらも時には薬になるもの。子供であれば怒られるか否かは、まぁ怒られるであろう。
それでも今は、欲望のままに。
「確かに、カラオケはストレス発散には持ってこいだな」
「何、言ってんの。『ささくれ』にはカラオケが一番だって、タッくんが教えてくれたんじゃない」
……そんなこと、あっただろうか?
「そん時、俺は他に何か言ってた?」
「疲れたら瞼を閉じれば良い。そしたら、どうでも良くなってくる。んでもって寝ちまえば良い、それこそ…朝になったら、『ささくれ』なんて、もうどうでも良くなるって」
……あぁ、そんな事もあったかも
確かに目を閉じると分かる。自分は彼女の歌声が好きだ。金の無い若者同士の遠距離恋愛。ビンボーな二人のデートは決まって深夜のカラオケだった。
先に疲れ果てるのは、いつも僕の方だ。彼女の膝をマクラに横になり、重くなった頭で温もり感じながら徐に手を伸ばす。
彼女はマイクを持つ反対側の手で、僕の手を優しく包み込んだ。
……出会って三年かぁ。懐かしい記憶だ。
「ねぇ、ホントに仕事やめるの?」
いつしか音は鳴りやんでいた。チープなCM。知らないミュージシャンのコメントとアイドルの明るい声がループする。室内ながらに明け方が近いと昔の感覚が告げていた。
口は災いの元。
そんな負の部分だけを捉えることしか出来なかった昔の偉人は、さぞ『ささくれ』の対処に難儀したことだろう。
災いと知りつつも人は口を開いてきた。きっと、傷を舐めあうことでしか自分の痛みを確認できない。人間とは面倒な生き物なんだ。
ゆっくりと目を開けると三年前によく見た吸い込まれるような瞳が僕を覗いていた。
「辞めないよ。ちょっと溜まってた有給を使うだけ」
「ふぅ、良かった。あなたには、まだまだ稼いで貰わないとね。もう少しでパパになるんだら」
……「えっ!?」
帰宅中の車内。目を細めるほどの眩しすぎる朝の陽光を浴び。僕はもう『ささくれ』の事なんて忘れていた。
ささくれ ふぃふてぃ @about50percent
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