見慣れない街角

野村絽麻子

ボクと黒猫と診療所

 白い息がまるで夜光雲のように淡く漂う朝。石造りの郵便局はより一層冷え込みを増す。宇宙郵便を出し終えたボクは、この建物の扉についている把手ノブの冷たさを思い出して首をすくめながら歩いていた。

 モザイクタイルの床をついて来た足音が天井に反響して降り注ぐ。よく磨かれて鈍い光を帯びた真鍮の把手は、冬の朝の御多分に洩れず冷気を纏うものだ。

 恐る恐ると手を伸ばす。途端、パシリ、と青白くか細い光が指先から走り抜けた。

「痛っ」

 静電気だ。今の、焦げてないかしら。あまりの痛みに指先を点検してみると、爪の根本の皮膚が、いつの間にか薄く捲れ上がっているのだった。


 郵便局を出るとまだ少しばかり早い時間だった。惣菜屋デリカは開店前かも知れない。

 凍ったままの噴水を横目に通り過ぎ、ホットショコラを売っている露天を目指して歩く。すると、いつもより人気の少ない街の風景の中、石畳の上をひょいひょいと歩く人影がある。誰だろう、見かけない顔だ。

「何だ、きみか」

 意外なことに、彼はボクを見つけると少しだけ嬉しそうに声をかけてきた。艶のある黒瑪瑙オニキスの髪。不思議な色合いの瞳は、角度によっては淡い黄色にも見える。

 誰だったかしら。

 疑問を他所に、彼は親しげに隣に並んだ。そのまま何かに気が付いたようにボクの手を取る。

「ささくれじゃないか。そんな手じゃ取っ組み合いプロレスだって出来やしない」

「しないよ、そんなこと」

「ふぅん? 存外、弱虫なんだね」

 彼は片頬を吊り上げて見せてから、ふと息を吐き出した。白いぼんやりとした靄が現れては消えていく。

「やれやれ、きみときたら世話が焼けるな」

 歩き出してから此方をチラリと振り返るので、どうやら付いて来るようにと言っているらしい。仕方なく、ボクも猫背の背中に続くことにした。


 *


 見慣れない路地をいくつか曲がる。この街にこんな場所があったかしら。そう思いながらも、彼の姿を見失わないように追いかけて行くと、煉瓦造りの洒落た建物の前に出た。看板はない。扉のかわりにパーテーションが二枚、互い違いに並んでいる。隙間をすり抜ける彼に続けば、そこはどうやら診療所の待合室なのだった。

 双子のようによく似た兄弟が膝の上に両手を揃えて座っているベンチの、隣に腰かける。老人。子供。男。女。客層は様々だ。年若い青年を「父さん」と呼びかけて甘えている子供もいれば、五つ子を寝かしつけている母親もいる。

「怖いのかい?」

 面白そうに目を細めた彼が言う。

「……ささくれひとつで随分と大げさじゃないか」

 この部屋の異様な空気に朦朧としてしまっていることを悟られたくなくて、少し背伸びした言い方をした。彼は薄く笑い、それからふと動きを止めて「きみの番」と口にする。

 診察室には眼鏡をかけた白衣の男が腰掛けていた。ボクの姿をいちべつすると、ほう、と物珍しそうに口髭をゆらす。

 ボクは、少しバツが悪くなりながらもささくれが出来たのだと話した。やっぱり、このくらいの怪我とも言えないことで来るべき場所じゃないだろう。

「ささくれは放って置くと致命傷になりかねん。感心、感心」

 冗談とも本気とも取れる口調で言い、軟膏を塗りつけると、果物を摂るようにと告げられ、また待合室に戻る。

「致命傷だと言われたろ?」

「冗談だよ」

「莫迦な。ささくれができた手で草むらでも歩いてご覧よ。たちまち雑菌が入るだろう」

 そんな大げさな話は聞いたことがない。第一、草むらに入ったところで指先に負担はかからないだろう。やっぱりかつがれたのかも知れない。そう思いながら、ほんの飴玉ひとつ程度の代金を支払って診療所を出た。


 *


「お礼はそこの惣菜屋デリカの新作でいいよ」

 診療所が見えなくなってからそう言われて、振り返るとそこは見慣れた街角の商店街だった。「そこの惣菜屋」はいつもの、ボクと黒猫オペラが気に入りの店で、新作が出るという話は聞いたことがない。

「新作?」

迷迭香ローズマリー入りの白麺麭パンだってさ。気にならないか?」

 彼の瞳が怪しい色に光るのを横目に惣菜屋のショーウィンドウへ視線を移す。たしかに、小さな札のついたトレイがあるようだ。ボクはその紙切れに誘われるまま、店へと足を踏み入れた。

 キッシュとクラムチャウダー、それから西洋梨を選ぶ。それと、新作の麺麭パンとやらを購入して店を出ると、そこにはもう彼の姿はなかった。

「……買い物かな?」

 しばらく待ってみたけれど、戻る気配もないので仕方なく帰路につく。


 部屋に帰り着くと、戸を引っ搔いている黒猫の背中があった。後ろ足で器用に背伸びをして、か細い三日月のような爪でカリカリと音を立てている。

「こらこら、そんなにするとささくれが出来るだろう?」

 声をかけると、黒猫は承知したように座り込んだ。澄ました顔でこちらを見遣る。すんと長い尻尾が揺れて、まるで微笑んだようだった。

 ボクのキッシュの端っこをかじった後、黒猫は自分で紙袋に頭を突っ込んで、麺麭を引っ張り出す。

「あ、こら!」

 一応は叱ってみるものの、さも当然と言う顔で迷迭香ローズマリー入りの白麺麭パンを楽しむ黒猫には、何故だか、それ以上は強く言えないのだった。


 数日もせずにささくれは治った。

 あの診療所は、あれからどの角を曲がっても見つけることが出来ずにいる。

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