私のまわりのえげつない奴ら

山科大喜

第1話

私は幼少期から体が弱かった。それでも小学生の頃は友達も多く、活発で元気のよい子供だった。しかし、中学入学で転校した時からは毎日が地獄の日々だった。よそ者のうえ、体も同級生と比べ、ひときわ小さい私は真っ先にいじめの標的にされた。高校に入学しても体力がなく、強度の近視だったためスポーツも不得手だった。私は暴行なども頻繁に受けた。高校時代のいじめは中学の時と比べると陰湿だった。私が暴行されていても、同級生は傍観しているだけで誰も助けてくれず、一層孤立感を深めた。教師も見て見ぬふりをしていた。思春期にこんな体験をすれば誰でもトラウマになり、私はいつしか人が信じられなくなった。

大学卒業後に社会人になったが、その頃体格は人並みになったので肉体的コンプレックスだけは解消された。私は大学卒業後、食品会社に就職した。私は5回も面接を受けてやっと内定を取ったが、周りはコネ入社した者も多かった。入社早々、上役から露骨に目を掛けられている人間を目にした。会社で出世するには実力だけではなく処世術も必要なことも知った。私が就職した頃はバブル直前だったが、激務のため一度倒れたことがある。その時、病床で資格を取ろうと思い立った。資格を取れば独立できるかもしれないと思ったからだ。ところが試験前は年末と並んでもっとも多忙な中元商戦の時期だった。私は勉強不足からの焦りと連日の残業から体を壊し、試験前日に四十度近くの高熱を出して一回目の試験はあっけなく失敗してしまった。

私は当時、結婚を前提に二年間付き合っている女性がいた。親同士も交際を認め婚約指輪も贈っていた。彼女は私の資格試験合格を誰よりも信じて応援もしてくれた。しかし、私が試験に落ちた時あたりから態度が豹変した。私の三十歳の誕生日の日、ディズニーランドに行く予定になっていた。東京駅で待ち合わせた私に彼女は言った。「今日、体調が悪いから行きたくない。それから、もらったこの指輪も返すわ」私が贈った婚約指輪はあっさり、自分の手に戻ってきた。サプライズどころか、真逆の意味で史上最高のバースディープレゼントだった。試験に失敗した後、婚約も解消、資格を取得するために会社も辞める羽目になった。私は親元から離れ、横浜にアパートを借りて一人暮らしを始めた。親と同居していた頃は毎日、朝食も夕飯も用意されていた。洗濯もしてもらえればお風呂だって沸いていた。しかし、なけなしの貯金を切り崩す生活では食生活もままならなかった。朝食は薄いトースト一枚と紅茶一杯。その後、昼までひたすら勉強をする。午後、私はママチャリに乗って近所の商店街まで買物に出掛けた。昨日、残飯でチャーハンを作ろうとしたら米が腐っていることがわかって泣く泣く処分した。コンビニで、一番安い海苔弁を買った。300円出して30円お釣りをもらう瞬間が切ない。私はギアのない重い自転車を漕いでアパートに向かった。弁当を五分でかき込むと再び、勉強を開始した。夜はたいてい近所の定食屋で食べるが、メニューが同じなので飽き飽きした。今回は三度目だが、文字通り背水の陣だった。ところが、そんな折、私の勉強に茶々を入れてくる人間が現れた。受験仲間の今村だった。自暴自棄になった私は以前流れで飲みに行った際、今村に一部始終を愚痴ってしまった。今村は私の親と同じような世代だったが、親身になって私の話を聞いて慰めてくれた。

「わしは戦時中疎開している頃、空襲で両親を亡くしてるんよ。わしは小学校四年だった。まだ、幼かった弟妹と一緒に遠くの親戚の家に預けられたんよ。昔はあれほど優しかった伯父夫妻が手のひら返したように冷たくなってな。  朝から晩まで過酷な農作業を手伝わされた。一緒に遊んだ従妹たちとも、食べ物一つでもあからさまに差を付けられて。それは惨めだったよ。兄弟三人、馬小屋で泣きながら夜を明かしたこともあった。数えで五歳だった弟は戦後まもなく、その時の栄養失調が原因で死んだ。わしは働きながらやっと定時制高校を卒業して、とても大学なんか行けない身分だったけど、担任の先生の取り計らいで奨学金を受けながら大学だけは出ることができたんよ。あんたなんか、まだ若いんだから何度だってやり直しがきくさ」

私は今村の身の上話を聞いて自分はまだ恵まれている、自分の苦労など、まだ苦労のうちにも入らないのかもしれないと思った。しかし、私は激務の上に勉強時間が十分に取れず結局、二度目の試験にも失敗してしまった。営業から離れるために転職した会社も既に三月末で退職してしまっていた。新緑が眩しい昼下がり、私は都内の図書館で、今村と落ち合った。久々会った今村は以前より一層貧相に見えた。今村が突然、話を切り出した。

「ところで、あんた今年落ちたらどうするつもりなの?」

私は虚を衝かれ、その質問に答えられなかった。

「あんたはおそらく、今年も受からないだろう」

私はそもそも試験に落ちることを前提にしていないので動揺を隠せなかった。今村から発せられた一言は冗談だとしてもキツすぎるし、すべてを捨て資格取得に賭けている私に対して放つ言葉にしては無神経極まりなかった。私が何も言い返せないでいると、今村は二の矢を放ってきた。

「藤田がお前のこと『アイツの人生、これでもう終わりだろう』って言ってたよ。三木さんもお前を、『あれは使いモノになるの?』って言っとったよ」

藤田は受験仲間、三木は私が勉強を始めた頃から相談に乗ってもらっていた信頼する講師だった。彼が私のことを使いモノにならないと今村に断言したという。私の知らぬところで私を取り巻く数々の悪意を知り信じられない思いだった。しかし、好意的だった今村が豹変した理由がわからなかった。私は今村の逆鱗に触れるようなことをした覚えはなかった。私はテンションが一気に下がっていくのを感じた。模試の前日、謀ったかのように電話が掛かってきた。

「わしや。今村やけど」

「何ですか? 明日、模擬試験があるので要件があるなら早めにお願いします」

「あんたは、資格に人生を賭けようとしている」

資格に賭けることのいったい何が悪いのだろう。

「昔、わしの知人で司法試験を目指しいる奴がおってな。そいつ、もう何回も試験に落ち続けているんよ。もう四十歳過ぎているのに諦めもせずやっている馬鹿な奴だ。無職だからもちろん独身よ。あんた見ていると、いずれあんたもあんな風になるんだと思うと、気の毒で見てられんわけよ」

今村の言っていることはもっともだが、私はいったんレールを外してしまった人間だ。一見思いやりのあるような言葉だが、何もかも捨て資格を目指している人間に対して言う言葉にしては残酷極まりない。私は以前、「自分にはもう失う物は何もない」と今村に話したことがあるが、試験に落ちることを前提に話をしているのが不愉快極まりなかった。どこまでも人の弱みに付け込み、不安を煽る今村の言葉に私は理性を失い、朝まで部屋の壁を叩き嘆き続けた。毎日、計画的に勉強し続け、やるべきことはすべてやってきた。本試験まで一ヶ月と迫った七月に入ると今まで突っ走ってきたせいか、急に能率が落ち集中力が途切れてきた。しかし、今が受験生にとって正念場である。直前の過ごし方を誤れば今後の人生が大きく変わってしまう。私の緊張感はマックスに達した。

本試験は八月の第一土日の二日間である。一年中で間違いなく、もっとも暑い日である。東京での受験は渋谷のA大学で行われた。毎年何とかならないかと思うのだが、大学が夏休みのため教室に冷房が入っていなかった。東京だけで五千人近くいる受験生はまるでサウナで資格試験を受けるようなものである。試験中、熱中症ででも倒れたら洒落にならないので、私は前日に冷凍庫で凍らせたおしぼりとペットボトルのお茶を持って試験に臨んだ。

私は試験当日、キャンパス正面の案内板に従い、受験番号と教室が表示された掲示板がある場所まで進んだ。受験票を片手に教室がどこか確認しているといきなり、後ろから肩を叩かれた。振り返ると、今村が薄笑いを浮かべながら立っていた。私は無意識に、今村を上から下まで隈なく観察した。今村はよれよれのポロシャツに短パン姿で、白く細い足には不潔そうな脛毛が丸見えだった。私は「こんな格好でよく、電車に乗れたな」と思ったが、今村に恥という概念がないからだろうと思った。今村が開口一番、誠に話し掛けた。

「あんた、受かってもダメよ」

今村は真っ黄色な歯を剥き出しいきなり強烈な先制パンチを投げ掛けてきた。

「受かってもダメよ」とは、いったいどういう意味なのだろうか。私はなかなか思考が整理できなかったが、「受からないよ」と言われるより「受かってもダメよ」の方が、そもそも試験に合格してもダメだと言われている点で、さらにダメージが大きいということだけは朧げに理解できた。私は本番直前で気持ちが大きく揺らぐのを感じた。おそらく、今村は掲示板の前で私が来るのを待ち伏せしていたのだろう。試験が始まっても「今村の言葉」が頭に過り、試験に集中できなかった。一日目の出来は最悪だった。本番直前の今村の一言で出鼻を挫かれ、力を十分に発揮することができなかった。私は前日、本試験に備えて試験会場近くにビジネスホテルを予約していた。試験は明日もある。初日の出遅れは十分挽回できると信じ、誠は気持ちを入れ替えた。二日目は幸運なことに今村にも会わず得意科目が続き、納得いく答案を書くことができた。私は適度な疲労を感じながら、受験生の流れに任せてキャンパスを正門に向かって歩き進んでいた。正門を抜けようとした瞬間、私は不意に後ろから声を掛けられた。

「おい。これから打ち上げで一杯やりに行くんだけど、おまえも一緒に付き合わないか?」

振り返ると薄笑いを浮かべた今村と藤田が並んで立っていた。私はまさか、試験直後も今村に正門で待ち伏せされているとは思わなかった。

「今日は疲れているんで、遠慮しておきますよ」

「何を言ってるんだ。試験も終わったんだから今日くらい羽目を外せよ」

私は気乗りしなかったが、断る理由もなかったので渋々付き合うことにした。今村たちは渋谷駅近くにある居酒屋の暖簾を潜った。汚らしい座敷で今村と藤田が並び、私はその前に座らせられた。激安で不味そうなつまみが所狭しとテーブルに並んだ後、無理やりビールで乾杯させられた。今村は一口ビールを飲み干すと誠に向かって大見得を切った。

「どうだ。お前、もうこれでわかったろう?」

私はどういう意味なのか思案していると、藤田が追い打ちを掛けてきた。

「おめえ、自分をよく考えてみろ。おめえなんかどう考えても受かりっこねえんだ。会社辞めて資格なんかに賭けてこのバカが。おめえは働きながら、何度でも試験を受けりゃいいんだよ」

藤田の言葉の節々には東北人独特なイントネーションや訛りがあった。私は今村だけでなく、藤田も誠が一次試験に落ちることを前提に話をしていることを理解した。結果が出ていない段階ですでに一次試験に落ちていると決めつけられると、二次試験へのモチベーションを上げることができない。私が一次に落ちていたら二次の勉強する意味すらない。しかし、二次試験は一次試験終了後から二ヶ月しかないから、合格するためには一次の合格発表後に勉強を始めてももう間に合わない。だから、受験生は見切り発進で勉強を始めなければならない。だから、私が仮に一次試験に合格していたとしても、すぐに二次試験の勉強を始めさせないという意味では大きなダメージを与えることになる。おそらく、奴らは最初からそういう目論見で私を飲みに誘ってきたのだろう。落ち込んでいると、藤田がさらに嫌らしく自慢話を始めた。

「俺なんか、どこの会社に転職しても軽く年収一千万円は出るよ」

藤田は東北地方にある偏差値の低い国立大学の出身だ。しかし、どこに転職してもそんな高評価を受けるような人物なら、そもそも資格なんか必要ないだろうと思った。今村からも以前、証券会社時代の自慢話は散々、聞かされた。一般的に資格を欲しがる人間は社会の誰からも評価されないから、何か公的なお墨付きが欲しいといった理由での受験も多い。一刻も早く居酒屋から逃れたかったが結局、私が能力もないのに資格試験に賭けてしまったことに対する批判や説教などに話は終始した。試験の出来が今一だっただけに、今村たちの一言一言が身に堪え頭にこびりついて離れなかった。私は渋谷駅のホームに電車が入ってくる時、今線路に飛び込めばラクになれるかもしれないと思ったが寸前のところで踏みとどまった。呆然自失した私は、今村たちと別れた後、どうやってアパートまで辿り着いたかすら覚えていなかった。共通の目的のある人間なら友人になれるのではと考え、資格スクールで友人作りに努めた。会社のように利害関係がないと思った自分が甘かったが、孤独を怖がるあまり友人を作ろうとして、無理やり相手に合わせた上で裏切られた。しかし、私は三度目の挑戦で辛くも資格試験に合格することができた。その後、念願の政府系コンサルタント会社に就職した。しかし、そこでも理不尽な思いをした。入社した会社は寄せ集め感が強く、役員は天下りの人間ばかりで新規採用社員は数名だけだった。私の持論だが、学校や会社で出会った人間など偶々、電車で隣に座った者と同じである。大学は学力も同レベルで共通点もあるが、会社では価値観が異なる人間と仕事をすることを強いられてしまう。どこの馬の骨かわからない、まったく氏素性もわからない人間と一緒に仕事をすることにストレスを感じないはずがない。私の場合、不幸だったのは単なる嫌がらせだけでなく、直属の上司が無責任極まりない人間だった。仕事は途中で放り投げ、トラブルを押し付けられ責任転嫁された。私は度重なるパワハラやストレスから過敏性腸症候群になり、毎日のように途中下車して駅のトイレに駆け込んだ。私は正直、ここにいたらよくて鬱病、下手したら殺されるかもしれないと思った。仕事は遣り甲斐もあったが結局、六年後に辞めた。学校も会社も組織があればそこに必ず、いじめは発生する。いじめは楽しいゲームだから、子供だけでなく大人もこぞって参加してくる。私は結局独立した。それから二十年になる。けっして順風満帆とは行かなかったが、本も五冊、上梓することができた。人間関係で大きなストレスを感じていたサラリーマンの頃に比べると精神的な余裕も生まれた。私は一人で何かをやることが性に合っていると自覚している。しかし、あの黒歴史があったからこそ、現在の私があるとも思っている。今はたくさんの面白いネタを提供してくれた数々の曲者や食わせ者たちに感謝している。

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