2011年3月11日の日記
岩田コウジ
これは少し加筆修正した当時の日記
早いものであの震災があってから13年が経ちました。
しかし爪痕いまだ深く、避難生活から戻れていない方々もいらっしゃいます。
一日も早い完全な復興を心より望む次第です。
また能登半島で震災に遭われた方々に於かれましても心よりお見舞い申し上げます。
さてあの日あの瞬間、私は会社員をしておりました。
自宅は横浜市の保土ヶ谷、戸塚と言ったあたりです。
会社は振り向けば埼玉県草加市である竹ノ塚という足立区の外れにありました。
つまり通勤で東京都を縦断する毎日です。
地震は14時49分、仕事中にやってきました。
オフィスはさながら金魚運動ゆりっこの様に左右にスライドしながら激しく揺れ、PCやらモニターやらパーテーションやらがバタバタと人の上に落下してきます。
大きな揺れがひと段落したかしないか、まだ余震も納まらない時分から大急ぎで専務が私のいたフロアにやってきて、早くビルから退去しなさいと言われました。
この時務めていた会社はビル全体が社でしたので、安全上ビルを閉鎖する必要があったらしいですが、そう言われた私たちはたまったものではありません。
「エ…今出されてもどこにも行く所が…」という反論も許されないまま会社を追い出され、ここから私のミッションは「帰宅すること」に設定されました。
竹ノ塚駅に止まる電車は東武伊勢崎線。 もちろん動いていません。
このまま留まっていても埒が明かないので、隣の西新井駅へ同僚と徒歩で向かいます。
西新井駅に着くも事態は何一つ好転しないまま途方に暮れていると、バス停に長蛇の列がありました。行き先を見ると「北千住駅」。
帰宅に希望を抱きつつ早速小一時間並んでバスに乗り込みます。
さて、北千住駅。 ここが最悪でした。
都内から地方へ向かう中継駅であるため、とにかく人が集まります。
更に先が行き止まりとなると、あとはもう吹き溜まる一方です。
人混みによるパニックの危険を察知して店舗を探すも、どこもシャッターをぴしゃりと下ろして非協力的です。
だんだん日も落ちてきて、次第に風が冷たくなってきました。
近所の避難所、小学校は全て満員、駅ビルはシャッター。
何とかコーヒー飲める場所を見つけるも、20時で追い出されてしまいました。
外はすっかり暗くなり、寒風吹きすさびます。
ここで同僚は徒歩で帰ると言って別れ、1人になりました。
行く場所も無くなんとか風だけでも避けようと、マルイの地下エレベーターホールで40人ほどでビバーク。何も知らぬ他人同士が心細い身を寄せます。
この時点で携帯が沈黙し、何の情報も得られない不安と寒さで震えていました。
携帯の充電器及びモバイルバッテリーはどこのコンビニでも即完売でした。
日ごろは気にしませんでしたが、今度から多少重くても必ずバッテリーは持ち歩こうという教訓になりました。
乾電池は結構売っていたので乾電池から電源を取るガジェットも有効です。
また一緒に非難していた就職試験を受けていた一団が、非常用の電源プラグを開けて携帯を充電していたのを見て、さすが携帯世代だなと感心したものです。
ここで夜を明かす覚悟を決めた23時。
敢え無く全員守衛さんに建物から追い出されてしまいました。
どこへ行っても追い出される東京は非道です。
本格的に野宿が視野に入ってきたところで、地下鉄千代田線が一部開通してくれました。
これは天の助けだと方向違いにも関わらず、藁をも掴む思いで乗り込みました。
どこからどの駅とどの路線を乗り継いだか記憶に無いくらい地下鉄をひたすらはしごして、漸く新橋までたどり着きました。
この時点で時刻は2時を回っていました。
いよいよ一歩も進むことができなくなって、JRが動いてくれることを願いつつ改札の前にブルーシートを敷いてダンボールや新聞紙で寒さを凌ぎます。
全体で100人ほどはいたでしょうか。
寒さと不安で全く休息できず時計は4時。
けたたましくサイレンが鳴り響いて、新潟の地震が伝えられました。
同時に、始発は早くて7時過ぎとの冷たいながらも救いの情報も得られました。
ここで一部の我慢できなくなった避難者が駅員さんに詰め寄ります。
周囲も不安に駆られピリつく空気の中伝えられたのが「東横線が動いた」報せ。
こういう時私鉄は割と融通が利きます。とても助かりました。
急いで銀座線、日比谷線と乗り継いで何とか満員の東横線に乗ります。
これでやっと横浜方面へ。
横浜駅に着いたら今度は相鉄線に乗り換え星川駅へ。
ここから徒歩で自宅まで帰りつきました。
疲労と寒さで体は固まり、帰宅後お風呂に浸かれた時はほっとして涙が出ました。
この時、時計は10時。
幸いにも自宅は被災しておらず家財の大きな崩れもありませんでしたが、福島や宮城が津波の被害に遭ったことをこの時点で知ることになったのです。
怪我もせずに帰宅できたのは幸いでしたが、この時ばかりは「帰宅困難者」という言葉を身に染みて感じた地震でありました。
今後もどんな大きな地震がどの地方に発生するのかわかりません。
私たちはその時、どう生きるか準備と選択が問われます。
2011年3月11日の日記 岩田コウジ @burning-fire
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