後編

 数か月ののち、わたしに突きつけられた現実は、産褥さんじょくに伏す母と簡素なひとつの箱だった。

 ひどい難産だった、母の命だけでも助かったのは幸いだったと、祖母は憂いを帯びた顔で言う。わたしの弟になるはずだった赤子は、産声を響かせることもなく亡くなったらしい。大人用の座棺になんてとても入れられない小さな体は、簡素な木箱に納められている。膝を折り、丸まって、眠るように。

 子どもだから葬儀をあげることもなく、このまま墓地へ連れ去られてしまう。当然、戒名も授けられない。

 この世で名乗りをあげることも出来ず、仏さまの元へいくための名も与えられなかったこの子はいったい何処にいくのだろう。十月十日もはらの中で慈しみ育てた母の気持ちは、どうなってしまうのだろう。母の子は、わたしの弟は、確かにここに存在しているのに。

 そう思うとわたしは居ても立っても居られなくなって。人目を盗み、赤子の、染まりきらぬ紅葉のような手から指を一本切り取った。そうして、どんぐりやきれいな石を入れていた秘密の小箱をひっくり返し、弟の小指ただひとつだけを新たな宝物として大切に蔵することにした。

 土にかえしてしまうくらいなら、わたしと母と一緒に居よう。そういう気持ちだった、はずだ。けれども小さな指先を見ていると、それが種のように思えてきて。子どもながらに考えたのは、植物が芽吹き育つようにもそうならないかということだ。芽生えた気持ちの勢いそのままに、わたしは弟の指を切り落とした包丁で、自分の指先をも切り裂く。ぽたり、ぽたりと落ちる赤い雫。これが恵みの雨となって無事にめぐみますように。母とわたしと、弟の三人。貧しいながらも暖かく幸せに満ちた生活を夢にえがいて、種子を赤く塗りつぶした。


 しかし、わたしの願いとは裏腹に事は進む。産後の肥立ちが悪かった母は、心までも蝕まれた。我が子を失った悲しみに暮れるだけではない。不本意な相手との間に授かった赤子を、無事に産み落とさなかったことに心の底から安堵する。それらがい交ぜになり一層さいなまれ、気が触れてしまったのだ。

 うわ言でしきりに悔やみ、ほっと胸を撫でおろし、自らを叱責するくり返し。そして時おりくくり枕を腕に抱き、まるで赤子のようにあやす。

 ――ねんねんころりよ、おころりよ

 ――夜泣きもしない静かな子なの。手がかからないけど、少し寂しいわ

 ――あなたも可愛がってあげてね

 そんな母に対してわたしは、「お姉ちゃんだからね、まかせてよ」と返すほかなかった。

 その間にも、小箱に血は貯まってゆく。おのれの指先を切り裂き血を与え、傷が塞がるころにまた、ぽたりぽたりと垂らす。わたしの焦燥とともにしたたる雫は次第に増え、赤黒い血に覆われ弟の指など見えなくなった。


 そうして箱が血で満たされた晩夏のある日、母は息を引きとった。

 わたしは、とうとう独りぼっちになってしまった。わたしの元に残されたのは母と過ごした十余年ぽっちの思い出と、血にまみれた箱と、芽吹くことなく埋もれてしまった弟の小指。箱の中には無惨に破れた夢も入っているような気がして。目を逸らしたくてたまらない気持ちになったわたしは、泣きながら厳重に封をした。


 わたしは茫然自失な日々を過ごしながら、ふと思う。

 そうだ。この箱を、父になるはずだった男へ届けよう。お前が母との間に設けた子どもは此処にいるぞと知らしめたかった。責任から、母から、我が子から目を背けるなど許せない。

 何年かかってもいい。どんな方法を使ってもいい。幸福を享受するはずだった命を突きつけてやる。


 ◇


 わたしは飴屋に扮して、機会を待つ。

「お姉さん、飴ちょうだい!」

 人々がせわしなく往来する大通りで、わたしを呼び止める声がした。

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みどり児の箱 十余一 @0hm1t0y01

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