みどり児の箱

十余一

前編

「お姉さん、飴ちょうだい!」

 人々がせわしなく往来する大通りで、わたしを呼び止める声がした。すりがねを鳴らす手を止め振り返ると、齢六つほどの男児がこちらを見上げている。

 かがんで視線を合わせたわたしに、彼は溌剌はつらつと言う。

「三つちょうだい!」

「三つ? ずいぶんと甘いものが好きなんだね」

「ううん。父さまと母さまも一緒に食べるの」

「そう……。とても仲良しなんだね」

 仲良し、という言葉に彼は屈託のない笑みを浮かべる。惜しみなく愛情を注がれて育ったのだろう。幸福に満ちた笑顔だ。

「たくさん買ってくれてありがとう。そうだ、オマケにこれをあげよう」

「これなぁに?」

 油紙に包まれ麻紐で結ばれた箱。それは今、男児の小さな両手にすっぽりと収まっている。中身が気になるのか、彼は箱をひっくり返してみたり、耳元で振ってみたり。しかし何の音もせず、箱はただ静かにそこにある。

「この箱にはね、この世で最も尊いものが入っているんだ」

 いまだ首を傾げる男児に向けて、「とっても良いものだよ」とつけ足す。すると彼の顔が喜色に染まる。そこでわたしは念を押した。

「お父さんとお母さんと一緒に開けること。いいね?」

 期待に胸を躍らせる男児の背中を見送り、わたしは口角を上げた。


 ◇


 物心がついたころ、すでにわたしと母は二人きりだった。父は、わたしが産まれて間もなく病で亡くなったらしい。母が語る思い出の中の父は、優しく暖かい。それがわたしの記憶に存在しないことに、一抹の寂しさを覚えることもあった。けれども、母との暮らしも優しさと暖かさに満ちていて、わたしはそれだけで満足だった。

 その日常が壊れてしまったのは、母が憔悴しょうすいした様子で奉公先から帰ってきたある日のことだ。普段はきれいに整えている髪を乱し、目を真っ赤に腫らし、それでも頑なに何があったのかは話してくれない。心配するわたしには、ひたすらに大丈夫と言いなだめすかす。何もないはずないのに。幼いわたしには、どうすることもできなかった。

 それから、ふた月もしないうちに、母に手を引かれ逃げるように住んでいた長屋を後にする。行き先は、山間やまあいにある母の生家だ。そこで暮らすようになると、母の腹はしだいに膨らんでいった。


 うだるような熱さの残る夏の夜。寝苦しさに目覚めたわたしは母のひとり言を聞いてしまった。

 縁側に腰掛けた身重の母は、はらを撫でながら言い聞かせるように呟く。

 ――あなたは一つも悪くないのに、ごめんね

 ――産まれてくるあなたに、あのひとの面影があるかもと思うと、怖くて、憎くて

 ――ちゃんと愛したいのに

 幼いころは母の身に何が起きたのかわからなかった。が、今ならわかる。きっと奉公先で不本意に体を暴かれたのだろう。そして身籠ってしまい、勤めることができなくなって逃げ出した。あるいは、事実を隠すために相手の男に追い出された。相手はおそらく、奉公先の跡取り息子か。

 きっと母は、相手の男への恐怖や怨恨と、宿った命に対する慈悲との間で苦しんでいたのだと思う。幼いわたしにはまだ、そのような事情や葛藤は理解できなかった。けれども薄らとは母の気持ちを感じていて、母が慈しむのなら、わたしも新たな家族を愛したいと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る