KAC20243 青春の酸っぱい思い出
久遠 れんり
かわいい、実験助手さんとの思い出
それは、今から半世紀近くも前の話。
医科大学のある教室で、ぼくは彼女と出会った。
実験のため、彼女は先生と一緒にやって来て、一つの大きな発泡スチロールの箱を持ち込んだ。
「きみ。工具を貸してくれないか?」
「先生、何をなさるんですか?」
「ああ、ちょっとホルモンの分取と同定をしたくて、こいつから下垂体を取り出したくてね」
不穏な言葉。ガンガンにいやな予感がする。
「下垂体という事は頭蓋骨? まさか人間ですか?」
「それはない。そんな事をしたら違法だよ」
だが、蓋を開けると、立派な牛さんの頭と目が合った。
深呼吸。
「先生、ガチガチに凍っていますけど」
「そうなんだよ、貰ってきたんだが、凍っていてね。手術用の道具じゃ歯が立たなくてね」
そう言って、先生は愉快そうに笑う。
仕方が無いから、工作機械を使い切る事にした。
専門は工業系。しかも電気。
生き物を切るなんて初めての体験。
確かにここへ就職をして、実験室に並ぶ臓器やご遺体。
色々なものを見た。
解剖実習中に入ったときには、半年は肉が食えなかった。
目の前のそれは、お肉。
そう思い、グラインダーで切っていく。
金属とは違う独特の感触。
「ああ。完全な形で取りたいから」
先生は、そんな事を仰る。
此処でまた、工具を追加。
ジグソーという工具を犠牲にする。
あの、ホームセンターなどでよく見る、長さ一〇センチくらいのノコ刃が上下する機械。
最後には、ノミで削りだした。
「いやあ。ありがとうね」
先生は和やかに帰っていった。
その時に、一緒にいた女の子。
それ以来、仲良くなって、ビアガーデンに行ったり、映画に行ったり、海に泳ぎに行ったり。そう、半年くらい仲良く過ごした。
まだ付き合ったり、どうこうはなかった。
それは彼女のお父さんが、お医者さんだから。
――ヘタレなぼくは、一歩が踏み出せなかった。
そんなある日、彼女に用事があり。会いに行った。
医局におらず、「実験室を覗いてみて」そんな声にうながされて実験室へ入る。
医局の実験室に入るのは初めてで、よくわからず奥へ行くと、ネズミの匂いや血の匂いがするのはすぐわかった。
今では禁止されているが、その頃には、実験室での飼育を各講座でやっていた。
彼女は何かをやっているようで、積まれた発泡スチロールの向こう側で、ギッコンギッコンと何かの音がしていた。
「こんちわ。田村さん」
「あっこんにちは」
無表情で何かをやっていた彼女は、顔を上げるといつもの顔だった。
さっきまでは、真剣にと言うには、機械のように何かをやっていた。
「この箱、水が出てるよ」
「漏れてます? 中に氷が入っているから」
そう言われて、やめれば良いのに、ぼくは蓋を開けて、中を見た。
敷き詰められた氷の上に並ぶ、目玉。何十個の目がこっちを見ていた。
「うわっ」
「ああ、それ、水晶体を取り出すのがちょっと面倒で、後回しです。こっちが、麻酔から覚める前に終わらさないといけなくて」
そう言って、ギッコンバッタンを繰り返す。
彼女の方へ回ると、流しの中へ大きなバットが置かれ、そこの上で、無造作に掴んだネズミさんの首を落としていた。
流れるような動き。
無表情な顔。
ぼくの思っていた甘酸っぱいものは、悪いが、口の奥に何か酸っぱいものがこみ上げ、冷めた。
それは、抗体かなにかを作り、血液を採っていたのだと聞く。
でも、それから後、しばらくは発泡スチロールの大きい箱が怖かった。
その位、覗き込んだときのインパクトは大きかった。
そして、無表情の彼女とは、少し疎遠になった。
なんとなく、ぼくは、怖くなったから。
思えばそれは、若かっただけだけど、その時は無理だった。
その後、彼女は、お医者さんと結婚をしたと聞いた。
ふと思い出した、青春の思い出。
そして今、ぼくは、医者の卵に向かって叫ぶ。
「ためらうな、ズバッと行け」
あの純真なぼくは、もういない。
フィクションです。
KAC20243 青春の酸っぱい思い出 久遠 れんり @recmiya
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